オリンピックの“雪解け”と政治の責任について
『あれ、オレいまナニジンだっけ?』第18回

1月 23日 2018年 社会

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呉 亮錫(ご・りょうせき)

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作家、翻訳家。米ボストン大学国際関係学部を卒業後、雑誌編集者を経て独立。「第8回 真の近現代史観懸賞論文」(アパ日本再興財団主催)にて佳作受賞。著書に『「親日の在日」として』(LUFTメディアコミュニケーション)、訳書に『クリントン・キャッシュ』(同。ピーター・シュバイツァー著)がある。在日韓国人三世(2016年に日本国籍取得)。横浜市出身。

「開戦30分でソウルの1千万人が通常兵器で死亡するという難題を解決しない限り、軍事的な解決策は存在しない」

「大統領首席戦略官」という肩書でドナルド・トランプ米大統領に仕えたスティーブ・バノン氏は、ホワイトハウスを去るきっかけとなったインタビューでこう述べていた。

北朝鮮の核施設を攻撃してしまえばいいと言うのは簡単だ。しかし、北朝鮮の反撃によってソウルが火の海になり、多くの犠牲が出ることについてはどうするのか。ソウル市民を見殺しにしてまで、アメリカは攻撃に踏み切るべきなのか。北朝鮮に対する攻撃をめぐって、アメリカ国内で今日まで続く議論の中心には、こうした問いかけがある。

そして、こうした問いがあるからこそ、専門家やメディアからは、様々な提案がこれまでに出されている。トランプ大統領が金正恩氏と無条件で対話すべきだという意見や、北朝鮮の核保有をいったん認めた上で時間をかけて金体制の崩壊を目指すべきだという意見。核を持った北朝鮮と抑止し合って共存すればいいという意見まで様々だ。ひとつの国だけでなく、アジアという地域の運命さえもかかる重い問いに対する答えは、簡単には出ない。

そうした中で、私がこのところ目にした論説の中で興味深かったのは、アメリカの戦略家として名高いエドワード・ルトワック氏(戦略国際問題研究所・上級顧問)の視点だ。「今こそ、北朝鮮を爆撃すべき時だ」というタイトルで、1月8日に米フォーリン・ポリシー誌(電子版)に掲載された記事だ。「ソウルを見殺しにしてもいいのか」という問題について、ルトワック氏は、そもそもこの問いかけ自体が考えるに値しないと言わんばかりに一刀両断にしている。

ルトワック氏が論じるところでは、アメリカ政府は40年前から首都をソウルよりも南に移すように促してきたが、韓国政府は対応を怠ってきた。地下シェルターにしても、備蓄のない地下のショッピング街や地下鉄、ホテルの駐車場くらいしかない。さらには、韓国は防空システムを導入するよりも、日本からの防衛にお金を使うようなことまでしてきた。よって、「韓国は長年にわたって無策を決め込んできたのだから、ソウルにどんな被害が及ぶとしても、それをアメリカの判断を鈍らせる理由にしてはいけない」というのだ。

冷徹なように聞こえるかもしれないが、ひとつの現実論としてはたしかに筋が通っている。自分たちの選んだ政府が、国民の生命を守るための対策を怠るならば、その責任は、最後には国民全体で受け止めるしかなくなる。ルトワック氏の論旨から考えさせられるのは、そうした政治の現実についてだ。守るべきものは何か、そのために何をすべきかを、民主主義の主権者である国民が普段から問わなければ、最後には頭上を砲弾が飛び交う事態になることもあり得る。日本で暮らす私たちにとっても、学ぶことの多い教訓かもしれない。

当の韓国では、文在寅大統領が自国での冬のオリンピックに北朝鮮を招き、融和ムードを演出している。犯罪国家と一緒になって平和をアピールするというのは、たちの悪いジョークのようにも思えるが、必死さは伝わってくる。9日に行われた南北間の閣僚級会談では、「南北関係で提起されるすべての問題を、わが民族が朝鮮半島問題の当事者として、対話と交渉を通じ解決していく」という文言が、声明に盛り込まれた。「わが民族」が対話と交渉を行うのだから、アメリカのような部外者は関わるべきではないという意味にも読める。そうだとしたら、文大統領による南北対話のアピールは、北朝鮮への攻撃をアメリカに思いとどまらせるための、土壇場の“命乞い”なのかもしれない。

オリンピックによってもたらされた束の間の緊張緩和にホッとするよりも、独裁者との対話でもしなければ国民を守れないところまで来てしまった韓国の政治から、教訓をくみ取りたい。

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