п»ї タイ在住20年とバンコクの変遷(上) 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第119回 | ニュース屋台村

タイ在住20年とバンコクの変遷(上)
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第119回

5月 18日 2018年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住20年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

早いもので、4月で私の在タイ年数が20年となった。前職である東海銀行では長らく企業の再建業務に従事してきた。こうした経験と実績が買われ、アジア通貨危機で壊滅的な危機にあったタイのバンコク支店長として送り込まれたのであった。今回はタイ在住20年の節目として、私が感じているバンコクの20年間の変遷を3回に分けて記録としてとどめておきたい。

◆着任当時

1998年4月中旬にタイに着任した。バンコクに着任した翌日にはプーケットに飛び、2日間ゴルフという日程が組まれていた。ソンクランという仏教の祝日を利用してお客さまが準備してくださったのである。タイに詳しい方ならよくお分かりのように、ソンクラン期間中はタイ人がお構いなしに水を掛け合うという風習があるほどタイの4月は熱い(あえてこの字を使わせていただくほど、暑い)。40度を超える暑さの中、プーケットの山岳コースをハアハア言いながら上り下りする。ほとんど熱中症状態で2日間ゴルフをした。ゴルフが上手でなかった私は「なんと大変な所へ来てしまったのだろう。」と心底思った。

あれから20年。4月のタイの暑さも心地よく感じられる。今や道を歩けばタイ人からタイ語で道を聞かれるほど、私の存在はタイの風景に同化してしまったようである。

第一に私が挙げたいのは、この20年間でバンコクの街が大変きれいになったことである。ほとんど完璧に近い清潔感を保つ東京とは比較の対象とはならないが、バンコクは本当にきれいになった。20年前にはバンコクの空港に降り立つと独特の臭いを感じたが、今はそれが無くなっている。私の鼻がだいぶ鈍感になってしまったのかも知れないが、他のアジアの国の空港に降り立つと、いまだに異臭を感じることがある。

バンコクの無臭化は確実に進行している。バンコクの街並みも雑然とした風景から近代的なビルに変貌(へんぼう)した。20年前には至る所に「タラート」と呼ばれる小規模屋台が並ぶマーケットがあったが、このタラートが激減した。40階以上の高層ビルが主要な通りの両脇に並ぶ。私がバンコクに赴任してしばらくはこのタラートで時々火事が起こった。「土地所有者が小規模屋台を追い出すため付け火をしてる」といううわさが広く信じられていた。

バンコクではビル自体もきれいになった。バンコクは熱帯地域でもともと雨が多い。20年前にもバンコクにビルはあったが、コンクリートがむき出しのものが多かった。こうしたビルは雨に打たれ、ビルの壁面が黒ずんでいた。これがバンコクの印象を暗いものにした。ところが今はビルの壁面に工夫がなされ、こうした黒ずみがなくなった。街全体が明るくなった。

バンコクの主要な通りに並んでいた屋台もいつの間にかなくなってきている。もちろん、主要な通りから1本裏に入れば、まだたくさん屋台が存在する。現在の軍事政権になってからはタイの観光振興に力を入れており、景観保護の観点から主要道路からは屋台が撤去された。同様に観光地化している道路では地上の電線が消え、地下ケーブルに変わった。オフィス街に勤める人たちは食事を高層ビル内のレストランで食べるようになってきている。タイ人の所得水準もかなり上がってきたということであろう。昔は屋台で食べていた人たちである。

街がきれいになったもう一つの理由は、乗り物の変化であろう。20年前にはスモッグをもうもうとあげ、ピックアップトラックが市内を我が物顔で走りまわっていた。私が赴任した98年は前年に発生したアジア経済危機により、タイ経済は壊滅的な打撃を受けていた時期である。96年に58万4千台の売り上げがあった自動車販売は、98年には18万9千台にまで落ち込んだ。バンコク市内を走る自動車の量は急激した。街中を走っている自動車も、うす汚れた中古の1トンピックアップトラックが多かった。

当時のタイは道路事情が悪く、また家族の人数も多い。税制上の恩典がタイで1トンピックアップトラックを普及させた最大の要因であることは間違いない。しかし大人数の家族を荷台に乗せ、悪路に耐えられる1トンピックアップトラックはタイに最適の乗り物なのである。98年当時は、排ガス規制が導入されて間もなく、規制導入以前に購入された中古のトラックや大型バスが煙をもくもくと吐き出しながら走っていた。このためバンコク市内はスモッグが尋常ではなかった。幹線道路の交差点で交通整理をしていた警察官は例外なくマスクをしていた。それも毒ガス用のような重装備のものを。

現在バンコクの街中を走っているのは、きれいに整備された乗用車が大半である。世界水準の排ガス規制が適用されているため、昔みたいなスモッグはない。しかし所得水準の高まりとともに、街中を走る自動車の数も急増。交通渋滞は以前に増して激しくなった。特に雨の降らない11月から2月までの乾季は、大気中に汚染物質が滞り、近年はPM2.5の値が基準値を上回る水準になっている。

◆バイクタクシー

自動車に言及したので、ここで二輪車(オートバイ)にも少し触れておきたい。軽自動車中心となった日本に対して、バンコクでは大型・中型の乗用車やRV車が多く走っている。しかし先述の通り、バンコク市内の渋滞は激しい。こんな激しい渋滞の中を縦横無尽に走り抜けていくのが二輪車である。しかもこの二輪車はオートバイという語感から想像されるごつい大型バイクではなく、「ファミリータイプ」と呼ばれる細身で小型のものである。

バンコクの幹線道路から伸びる小路ごとにこれらのバイクが集結し、人を乗せていくが、これがバイクタクシーである。歩くことが嫌いなタイ人はこのバイクタクシーをよく利用する。ミニスカートの女性がこのバイクタクシーの後部に横座りすると、次々にこのバイクタクシーが街の雑踏に消えていく。タイ人女性のバランス感覚の良さに思わず驚嘆してしまう。

バイクタクシーという商売は20年前にもあったので昔と変わらない。昔と変わったのは細身で小型のファミリータイプの二輪車による「4人乗り」や「5人乗り」である。二輪車の前部座席に小さな子供を乗せ、後部座席に3人乗ると5人乗りになる。こうした乗り方をしているバイクは、タイの至る所で見受けられた。

20年前のバイクは高級品である。高級品であるバイクに自分の家族を乗せ、さっそうと走ることは、男の甲斐性であったのだろう。同様に1トンピックアップトラックに自分の一族郎党を乗せて旅行に出かける姿もよく見かけた。タイは大家族制から人口少子化に急激に変貌をとげた。またバンコク都民の所得水準も急速に上昇した。バイクや1トンピックアップトラックの荷台に大勢を乗せて、バカンスに出かける姿はバンコクではほとんど見られなくなってしまった。

◆交通規制

自動車関連の話をしてきたので、交通規制について話をしたい。20年前は交通規則などほとんどなかったに等しい。東海銀行バンコク支店長時代の運転手は元レーサーで、時速200キロも朝飯前。タイで制限速度が制定されたのは15年ほど前であると記憶しているが、この制限速度を守るようになってきたのはこの10年ぐらいの話である。

交通信号も長らく「黄色は注意して進め。赤は誰もいなければ進め」という意味であった。当時ゴルフに出かける早朝などは、バンコク市内の道路であっても無法状態であった。現在、私がお願いしている運転手は交通規則をしっかり守る。私はいまやゴルフは3カ月に1回しかやらないが、早朝真っ暗な交差点で誰も来ない赤信号の交差点でじっと待っている。交通規制をしっかり守っている現在の運転手の姿を不思議な気持ちで見ている私がいるが、私自身かなりおかしくなっているようである。

交通規則についてはもう一つ。バンコクにはシステマティックな信号管理システムがない。20年前は信号機もまばらで、交差点には警官が立ち、自ら自動車の進行誘導をしていた。現在は至る所に信号機が設置されているが、大半の信号機の切り替えは、交番で手動で行われているようである。

日本の国土交通省は20年以上前からタイに対して日本の信号システム導入について提言をしているようだが、いまだに採用されていない。20年前のデータで恐縮だが、バンコク都内の道路の占有面積率は8%程度のようである。東京都23区(16.4%)や米ニューヨークマン・ハッタン市内(28%)に比べ圧倒的に少ない。更に近年は著しい自動車保有の増加である。これでは信号システムを導入しても渋滞解消に効果はないのかも知れない。

交通関連の話で少し脱線をしよう。20年前、私は運転手に言われて、通勤経路の交番に年末のつけ届けをしていた。安価な菓子や果物である。こうしたことをしていると交差点で比較的早く通過させてもらえる配慮があるというのである。本当にこうした特別な配慮をしてくれたかどうかかわからないが、いかにも人間関係の濃密であったタイ社会の象徴である。現在はそのような慣行もない。

タイの社会は一般的に、年末の贈り物(いわゆるお歳暮ような習慣)もかなり少なくなったような気がする。私が東海銀行に入行した40年以上も前は、日本の銀行の支店長宅にはお中元・お歳暮で家の中が贈り物でいっぱいになるという話を聞いた。今の日本はコンプライアンスで不用意な贈り物の受け取りは禁止されている。文明の発展とともに人間関係が希薄化していくようで何かさみしい気もする。(以下、次号に続く)

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