п»ї 二代目が会社の命運を決める―ホンダを世界企業にした河島喜好『山田厚史の地球は丸くない』第12回 | ニュース屋台村

二代目が会社の命運を決める―ホンダを世界企業にした河島喜好
『山田厚史の地球は丸くない』第12回

12月 13日 2013年 経済

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山田厚史(やまだ・あつし)

ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。

朝日新聞から河島喜好さんの「惜別」を依頼された。ホンダの二代目社長である。ベンチャー企業だったホンダを10年かけてグローバルな自動車会社に育てた人だ。ひらめきと独断、たぐい稀な個性で会社を興した本田宗一郎と正反対。柔らかな人柄、話をよく聞き、辛抱強くことを進める社長だった。ひらめき経営から集団指導へ。絶妙なバトンタッチがホンダを成功に導いた。

◆どんな時に社長は代わるのか

10月31日、85歳で亡くなった。社長を辞めてから30年。現役に河島社長を知る記者はいない。かつて自動車担当だった私にお鉢が回ってきた、というわけだ。

1982年秋のことだった。東京・石神井の河島邸に夜回りした。社長宅とは思えない質素はお宅で、周囲には畑が残っている。
 
「今日は遅いようです。上がって待っていて」と奥さんに促され、居間で帰宅を待った。深夜、戻ってきた河島さんは「今日、次の社長を決めてきた」とぼそりと言った。
 
「副社長の久米さんですね」と念を押すと否定しない。
 
「本田社長交代」の原稿を送ろうと腰を浮かすと、「止めとけ。すぐには代わらないから」と制止する。
 
「じゃあ、いつ交代するんですか?」と聞くと「社長はどんな時に辞めるんだろうねぇ」と問い返してきた。
 
「今日は仕事抜きだ。ゆっくり飲もう」

グラスにどぼどぼウイスキーが注がれた。社長交代が決まったのだから、いろいろな思いがあるのだろう、付き合うか、という気になった。

雰囲気を読んだ奥さんは我が家に電話した。「今日は相当遅くなりそうです。帰れないかもしれ知れません」と女房に話していた。
 
「どんな時に社長は代わるのか」

さあ、答えろ、といわんばかり。後任が育った、花道になる業績が出来た、健康悪化、不祥事、社員の離反・・・。

ありとあらゆるケースを挙げたが「いやぁ、まだあるぞ」と譲らない。明け方まで話は続いた。

1年後、すでに自動車担当を外れ、仙台支局にいた私は「河島退任」のニュースを知った。「社長は10年やろう、と決めた。10年が経ったので辞める」。

これが正解だった。あとから聞いた話だが、奥さんには「オレの言うことに誰も反対しなくなったら、辞めるよ」と言っていた、という。

10年という区切りで身を引いた河島さんは、以後経営に口出しをしなかった。自らを厳しく律したことには理由がある。「オヤジさん」と敬愛した本田宗一郎への済まなさである。

◆脱本田宗一郎の集団指導体制

本田はモノづくりの鬼だった。自分の考えを曲げず、妥協もしなかった。そのために会社が傾くこともあった。欧州に出かけた宗一郎はドイツで素晴らしい工作機械を見つけ、買い取る契約をした。当時の売り上げから見れば桁外れな買い物で、ホンダはたちまち資金繰りに窮した。倒産寸前で救ってくれたのが三菱銀行京橋支店だった。ホンダのメーンバンクは京橋支店となったという逸話があるほど、ホンダの経営はドラマチックだった。

モノづくりの現場でも、混乱が出ていた。意見が合わず「オヤジさん、それではダメだ」という技術者がいると「オマエなんて、会社に来るな」と怒鳴る。河島の後継者となる久米も、「来るな」と言われ、しばらく出社を拒否したほどで、会社が大きくなるにつれ、ワンマンぶりはリスクになっていた。

見かねた副社長の藤沢武夫が「若い連中に会社を任そう。オレは辞めるからあんたも辞めろ」と引導を渡した。工場に入り浸たる宗一郎に代わって経営を取り仕切っていたのが藤沢だった。ホンダがベンチャー企業から一皮むけるには、ひらめきの独断経営から脱しなければならない、と藤沢は考えた。社長の座は一番弟子である河島に回ってきた。

河島社長の仕事は、「脱本田宗一郎の集団指導体制」だった。大事なことは取締役で決める。手順を大事にする。情報は共有する。企業として当たり前のことである。

だが、退任してもモノづくりに執念を燃やす宗一郎は現場が気になって仕方ない。あれこれと注文をつける。その気持ちを察しながら、河島は「遮断」した。「経営はわれわれに任せてください」と。

そんな体験から、たとえ自分の思いが正しいとしても、現役のやり方を尊重する、という一線を守った。

天才的な創業者が一代で築いた会社が、もろく崩壊することは珍しくない。大事なのは二代目である。本田宗一郎のいないホンダを更に成長させるには新しい経営方針と異なる資質が必要になる。

河島は社長10年で本田の売り上げを5倍にした。二輪主体で後発の4輪メーカーだったホンダを、日本を代表する自動車メーカーに押し上げた。

◆技術動向を見誤らない

人材を大事にした。世界に生産拠点を広げるのは現場を仕切れる人材がたくさん必要だ。車種も技術の格段と広がる。メカ(機械)好きが集まるホンダでエレキ(電気電子)の人材を増やすことに力を注ぎ、電子系人材の大量採用に踏み切った。
 
「社長が決断しなければならないことは山のようにあるが、一番大事なことは技術動向を見誤らないことだ」

夜回りでそんな話をよく聞いた。魅力的な技術が次々を生まれる中で、何を選び、どれを捨てるか。限りある人材とカネをどんな技術に投じ、事業化するか。その見立てが企業の命を決める、と言っていた。

ホンダは早くからエンジンを前に置き、前輪で駆動するFF方式を採用した。床下を通るシャフトがなくなり、居住性は向上し軽くなる。小型車はFFしかない、と考えた。トヨタも日産も後輪駆動(FR)だった。

エンジンに集中投資して、高性能で燃費が良く環境にも優しいCVCCで企業イメージを高めた。

次は電子制御の時代と考え、日本で初の自動車用ナビを開発したのも河島時代だった。

電気を重視しながらも電気自動車には慎重で、燃料電池車をにらみ、過渡期はハイブリッドでつなぐ、という見立てである。

モノづくりの方向を決断する社長は技術が理解できなくては務まらない。だからホンダは技術屋から社長を選ぶのだ、と言っていた。

◆箱根の峠を疾駆した「オヤジさん」と「キー坊」

1928年静岡県浜松に生まれ、翌年に世界恐慌が起こり、日本が戦時体制に移行する中で育ち、浜松工業専門学校の機械科に在籍中の17歳で終戦を迎えた。卒業しても仕事の無い時代。病院勤務の父親がバイク工場を営んでいた本田宗一郎と知り合い「設計図面を描ける男を探している」と聞かされた。コタツで面接を受け、即採用。本田技研が誕生する前年のことだった。

仕事の鬼である「オヤジさん」に「キー坊」とかわいがられながら、丁稚(でっち)のようにこき使われ、一緒に深夜までオートバイの開発に当たった。その頃、箱根駅伝は始まっていたが国産のオートバイは箱根の山を越えられなかった。馬力のトルクも足らなかった。この壁を破ったのが146ccのホンダドリームだった。エンジンを設計したキー坊がハンドルを握り、峠を走破した。後からクルマで追った「オヤジさん」はどんどん引き離され、「後れを取ってうれしかったのは後にも先にもあの時ばかり」と後に語っている。

河島さんはバイクの開発から製造、試乗からレースチームの監督までなり、英国のマン島レースに参加し、1~5位を独占する快挙を成し遂げ、HONDAの名声を轟(とどろ)かせた。

企業の成長と共に歩み、モノづくりの真髄を味わい、経営まで引き受けたが、心残りがあった。ホンダが大きくなったことで、仕事が分業化し、頭から尻尾まで一人で取り組むことはできない。上司と口論したり、出社を拒否したりすることなどなくなり、従業員は組織の歯車として整然と働くことを求められる。自分がつくった経営システムが、ホンダの社風だった「わいわい、ガヤガヤ、わくわく」が入り込む余地を狭めているのではないか。それが気がかりだったという。
 
「楽しかったのは本田さんと一緒にオートバイに取り組んでいた頃だ、とよく言っていました。いまごろドリーム号にまたがって天国で本田さんや藤沢さんのところに行っていると思います」と照子夫人はいう。

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