п»ї 昔の栄華が残る街 イポー『マレーシア紀行』第7回 | ニュース屋台村

昔の栄華が残る街 イポー
『マレーシア紀行』第7回

5月 22日 2015年 国際

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マレーの猫

エネルギー関連業界で30年以上働いてきたぱっとしないオヤジ。専門は経理、財務。実務経験は長く、会計、税務に関しては専門家と自負。2012年からマレーシアのクアラルンプールに単身赴任。趣味は映画鑑賞、ジャズ、ボサノバ鑑賞、読書。最近は浅田次郎の大ファン、SF小説も

マレーシアでの単身駐在期間が長くはなってきた。それでもこの国のことをあまり知らない私があれこれ書くのは気が引けるが、旅行記第7弾を書くことをお許しいただければと思う。

今回紹介させていただく場所は、マレー半島の中ほど、首都クアラルンプールから約200キロ北の西海岸近くに位置するペラ州の州都イポーという街である。実は業務上のことで昨年11月から約半年以上国内旅行を控えていたが、業務も一段落したため、半年振りに旅行に行くことにした。ちょっとした旅行で気分転換が図れるということ、また一人旅もそれはそれで楽しいものであることを再認識したのであった。

クアラルンプールからイポーまでは、バスと高速列車の二つの交通手段があるが、今回は近代的な高速列車に乗ってみたくて利用した。行き帰りとも出発時間も到着時間も1分の遅延もなく、また車内はとても清潔な感じで、快適な旅だった。マレーシアに来て以来、公共交通機関の運行時間に関して1分の遅延もなかったという経験は初めてで、このことに何だかとても深く感動したのであった。

◆スズで栄えた街

今からさかのぼること30年以上前になるが、私は新婚時代にインドネシアのジャカルタに駐在していたことがあった。当時、現地で休暇を取って夫婦でスマトラ島のメダンとトバ湖に3泊4日の旅行に行ったことがあった。その時のツアーのメンバーの中に華人系マレーシア人のカップルがおり、マレーシアのイポーからスマトラ島へ観光旅行に来ているとのことで、その時初めてイポーという地名を聞いた。

当時はマレーシアに行く機会は全く無かったし、私自身インドネシアもマレーシアも同じような土地柄なのだろうと勝手に思い込んでいたので、マレーシアへ行きたいという気持ちがあまり沸かなかったのも事実である。

イポーの街はスズの採掘が盛んになって以降発展し、20世紀初頭には国内最大のスズ鉱山開発地域となったのである。マレーシアのスズ産業は1848年、ペラ州のラルートという場所で開発が行われたのが最初で、イポーにあるキンタ渓谷からクアラルンプールのクラン渓谷にかけての一帯はマラヤン・ティン・ベルト(Malayan Tin Belt)と呼ばれ、世界最大のスズ生産地として名をはせたそうである。

マラヤン・ティン・ベルトは1850年代に開発が始まり、キンタ渓谷はその中で最大の産地だったという。イポーは1920年代から30年代に鉱山の街として急速に発展し、1980年代半ばまでスズの生産を続けていたといわれる。マレーシアは85年まで世界のスズ生産量の4分の1を産出していたとされ、世界最大のスズ生産国だった。ただ、85年に国際スズ市場が大暴落したため、マレーシアのスズ産業は壊滅的な打撃を受け、翌年には生産量が半減し、その後生産中止へと至ったようである。

イポーの街はキンタ川を境にして、旧市街と新市街に分かれるが、旧市街のイポー駅周辺には、駅舎を含めイギリス統治時代の影響が色濃く残る白亜の建造物が多く残っており、市民が暮らす街中は中国・福建系の伝統的な建物がそのまま残っている。それに対して新市街はショッピングモールや高層ビルもあり、旧市街とは違った趣になっている。ただ新市街にも福建様式の店舗兼住宅は多くあり、やはり華人の影響を強く感じたのであった。

その経緯は分からないが、89年3月に福岡市と姉妹都市になり、昨年姉妹都市25周年のお祝いの行事がイポーであったという。姉妹都市となっている関係でイポーには日本庭園が整備されているそうだが、今回は時間がなく行くことはできなかった。もし機会があれば、今度は見に行くつもりである。

ところで、「イポー」という街の名前は、かつてこのあたり一帯にたくさん生えていた木の名前「Ipoh」「Epu」「Upas」に由来するそうである。この木の樹液には毒が含まれており、原住民が狩りをする際にこの樹液を吹き矢の矢じりに付けて狩りをしたという。昔はごく普通に生えていたそうだが、現在この地にはほとんどなくなったという。私は旅行中、イポー駅前の広場でその木が生えているのを見た。

◆華人の街

実際に来て見て感じたのだが、とにかくやたら華人が多い街である。訪問した時期がこちらの連休中であったためか、中国本土からの観光客や、イポーをルーツにしている華僑が集まって来ていたということもあるとは思うが、とにかく華人だらけという感じであった。

翌日のホテルの朝食のビュッフェの食堂も華人だらけで、何とか席を見つけて座ったテーブルにいたのはシンガポール人の一団だった。聞いたところ親戚がイポーにおり、シンガポールから遊びに来ているとのことであった。

その一団に明らかに華人とは違う容姿の中年女性がいたので、華人とマレーシア人との混血かと聞いたところ、自分はインドネシア人であり、その一団の中にいた高齢のシンガポール人女性の介護のためにシンガポールで働いており、今回ファミリーがイポーに旅行するので、自分も介護のために同行してきたとのことであった。中国語を流ちょうに話しているのでどうして中国語をしゃべれるのかと聞いたところ、シンガポールで勉強してしゃべれるようになったとのことであった。

また英語も結構流ちょうにしゃべるし、シンガポール人の英語よりうまい感じで、3か国語がしゃべれることに正直驚いた。マレーシアにはインドネシアから3K仕事をするために多くのインドネシア人が出稼ぎに来ており、ビルやホテルの掃除婦、またマレーシア人家庭のお手伝いはほとんどインドネシア人である。彼女らの多くは英語が話せないが、マレーシア人と会話するには不自由しない(マレー語とインドネシア語は若干の違いはあるがほとんど同じである)ため、マレーシア人はインドネシア人を必要としているのである。

話を戻すが、イポーのホテルの朝食時にいたインドネシア人はメイドという雰囲気は全く無かった。お抱え看護師としてシンガポールの華人に雇われているということだったので、決して安い給料ではないだろうと勝手に思い、納得したのであった。

とにかく華人が多いせいか中国料理屋が多い。B級グルメで有名なチキンとモヤシを使った料理を提供する有名店が数軒あるのだが、連休中に行ったためか全て満席状態。1時間近く数軒の店を見て回ったが空いた席が見つけられず、有名料理ではないが中国系海鮮料理の店でやっと座ることができた。ただ、座った後に華人の一団が入ってきたため、私は更に奥の小さなテーブルに追いやられたのであった。

◆ペラ・トン寺院とサン・ポ・トン寺院

市の北側にある石灰岩の洞窟の中に造られたペラ・トン寺院という仏教寺院がある。中には何体かの仏像が安置されているが、結構立派な仏像ばかりで、スズ鉱山で富を得た華人系実業家達の寄付によって造られたことが強く感じられた。

寺院の中には山頂まで登れる階段がある。かなり急峻であるためあまり人が登って来ず、私は山頂からは市街全体をゆっくり展望することができた。

一方、サン・ポ・トン寺院はイポー最古の洞窟内に建てられた仏教寺院である。最古と言っても1800年代後半に建造されたものなので120年ぐらいしか経っていない。中には中国庭園もあり、まあまあ趣のある寺院であった。

◆タクシー料金は交渉制

イポーにはさほど観光資源はないが、ぶらりと来てB級グルメを楽しんでのんびりするにはいい街だと感じた。ただ、流しのタクシーが極めて少なく、ペナンなどと同じようにタクシーにはメーターがないため、利用する時はそのつど交渉しなければならない。

私はイポー駅からホテルに行く時に利用したタクシーを、市内観光をするため2時間貸し切ったが、移動距離から考えると、クアラルンプールのタクシー料金の3倍以上の感じであった。ただ他に移動手段も無く、事前にホテルのコンシェルジェに聞いた2時間貸し切りの標準料金ともあまり差が無かったので、利用することにした。

タクシーの運転手はインド系マレーシア人であったが、普段何語を使ってしゃべっているかを聞いたところ、家庭ではタミール語で、業務上はマレーシア語とのことであった。インド人は皆英語をしゃべっていると自分自身勝手に思い込んでいたので、タミール語の存在について再認識したのであった。

イポーのペラ・トン寺院内の仏像=筆者撮影

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