п»ї データが溢れる世界を折り畳む「局所無作為化」『住まいのデータを回す』第10回 | ニュース屋台村

データが溢れる世界を折り畳む「局所無作為化」
『住まいのデータを回す』第10回

3月 20日 2018年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

前稿『住まいのデータを回す』第9回ではWHO(世界保健機関)のICF(国際生活機能分類、※参考1)を紹介した。日常生活に関連する1424の分類項目はチェックリストとして十分に網羅的であるかのように見える。しかし、加齢とともに発症確率が高くなる慢性疾患、例えば認知症の生活機能をICFモデルでデータ化しようとすると、そもそもICFでは「生きること」に焦点が当たり、「老化」や「死」については「生きること」のネガティブな側面となってしまって、予防医療やリハビリテーションとの相性が良くない。認知症に関する予防医療やリハビリテーションという考え方は未来志向の話で、老化を遅らせ若返る可能性を認めるという、相当無理な状況設定なのだから、現実的・実際的なICFとは相性が悪いのは当然かもしれない。本稿では「データ」の力を借りて、慢性疾患の予防もしくは治療に「気長に」取り組む方策を考えている。庶民(富裕層ではない生活者)が「気長に」取り組むためには、その方策が経済的であることが最重要課題であることは言うまでもない。現在の医療技術の進歩をオプチミスティックに評価したとしても、家族や社会の経済が許す範囲で認知症と共に生きるためには、ICFが現実的・実際的と考えている生活のありかたから見直さざるを得ない。

「データ」の力を借りるとき、若者であればコンピューターゲームを想像するだろう。AI(人工知能)技術はゲーム理論と相性が良いので、健康ゲームを楽しみながら、AIが慢性疾患の予防もしくは治療のアドバイスを行うといった具合だ。しかし、多くのゲームは短気だ。主人公が死んでもリセットしてしまう。そこで、本稿ではもっと深いところで、老人が「死」を迎える宗教的な課題に「気長に」取り組むときに、「データ」の力を借りることを想定している。「死」を迎える前に、日常生活の「データ」を共通言語として「老化」について考えるときにも宗教家の力を借りたい。その宗教家が実はAIプログラムであったとしても、認知症の予防や治療に役立つのであれば、何の問題があるのだろうか。老人とコンピューターともに「独立性」が高まる方向を見定めること、それは老人にとってQOD(Quality of Death)やQOA(Quality of Aging)の向上として、AI技術にとっては認知症の予防や治療における予測精度の向上として、その両者が同時に向上する方向となるはずだ。

本稿の主題からは外れるけれども、ぜひ主張しておきたいことがある。近未来の医療技術は外科と内科の区別を無意味にする。それはMRI(磁気共鳴画像)技術であることを筆者は深く信じている。MRIはNMR(核磁気共鳴)という量子力学的な現象を応用した医療技術で、X線の発見とは比べものにならないほど医療の本質を変える技術といえる。日本には東芝や日立という、世界的にもユニークで先進的なMRI企業があった。現在は欧州のシーメンスと米国のゼネラル・エレクトリック(GE)が世界のMRIをリードしている。日本は長い間1.5テスラ(テスラは磁場〈磁力〉の強さを示す単位)という磁場強度の安全性基準にこだわった。その保護政策が国内企業の技術開発意欲を鈍らせ、原子力技術などに向かわせてしまったのだから、国策は恐ろしい。MRIは未来に開かれた技術なのだから、まだチャンスはあるはずだ。なりふり構わず、国策としてMRIを開発してもらいたい。AIやスーパーコンピューターなどは軍事技術としては必要不可欠であっても、医療技術としてはMRIにはるかに及ばない。医薬品産業はMRIが変われば、再度チャンスが訪れるだろう。世界最高水準の医療技術を有する国家は、軍事技術に依存しなくても、外交的に安全保障で優位に立てるはずだ。軍人も権力者も生き延びたいのだから。現在の日本には、残念ながらそのような魅力はなくなってしまった。

◆ICFとQOA 、QOD

ICFでは生活における「生きること」をコード化している。ICFには含まれない「老化」や「死」はどのようにコード化できるのだろうか。生物において、「生」「死」「老化」はDNAにコーディングされていて、プログラムのようにそれぞれのプロセスが遂行される。
WHO(世界保健機関)のHealthy Aging(2015―2030)は“as the process of developing and maintaining the functional ability that enables wellbeing in older age”と定義されている。WHOにとってはfunctional abilityが重要で、その内容が詳細に議論される。本稿の文脈では「プロセス」としての老化の理解が本質的であって、「老化」のプロセスも「生きること」のプロセスと対等に扱いたい。QODは英エコノミスト誌とシンガポールのLien 財団が協力して発表している(2010年、2015年)国別の指標で、死を迎えるプロセスの充実度を評価している。麻薬を使った緩和ケアが中心的な課題となるので、麻薬の管理を行う国家システムとして取り組むことになる。

大脱線して、「プロセス」と「システム」の違いについて考察したい。特に政治・社会の文脈では「システム」組織体制に興味が集中して、「プロセス」と「システム」を明確に区別しない論述が目立つ。自然科学においても複雑系というシステム論が先行して、確率論的プロセスの研究は遅れている。産業界においては、プロセスは品質管理の基本として理解されている。品質管理では「粗悪な品質」の製品やサービスとならないための最低基準を確実に達成することが目的となる。高邁(こうまい)な理想を追求するシステムを使うときにでも、最低な結果とならないように守るべき手順(procedure)が不可欠で、教育を含む多くのプロセスが関与している。一般的に言って、システムは平均的な品質の向上を目指し、プロセスは品質の分散(ばらつき)に注目している。哲学では歴史的にシステムが優先され、プロセスはアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド (1861~1947年)が論及しているが理解者は少ない。データ論の立場では圧倒的にプロセスが重要で、コーディング辞書というシステムであっても、そのメンテナンスのプロセスが機能しなければ実用にはならない。

生物にとって、「生」「死」「老化」はそれぞれ独立なプロセスであって、社会的なシステムでコントロールできるようなものではない。「生」「死」「老化」をコード化する場合にも、これらの対象のプロセスとしての性質をよく理解して、局所的(個人的であり一過的な出来事の範囲)にコーディング辞書を修正・適合(adapt)するプロセスをあらかじめ工夫しておく必要があるだろう。

◆認知症にやさしい環境デザイン

具体的に認知症患者のための施設を設計するチェックリスト『認知症にやさしい環境デザイン』(C・カニンガム、M・マーシャル、鹿島出版会、2018年)を見てみよう。施設監査のためのチェックリストなのでプロセス志向になっている。11のカテゴリーそれぞれに必須事項と要望事項があり、合計345のチェック事項が列記されている。例えば「7.寝室」の7-2はカーペット・床の色が壁の色とはっきり対比している(このことにより、床がどこで終わり、どこから壁が始まるのかがわかりやすい。)といったチェック事項である。こういったチェック事項をICFの項目にマップすれば、認知症患者で特に重要な生活支援のありかたが可視化できるとともに、こうしたチェックリストを認知症の予防や治療が進歩することに合わせて、修正・適合できるようになるだろう。

上述の本には介護施設だけではなく、市街全体のデザイン、社会システムを認知症患者にやさしく設計するための研究が含まれている。臨床試験ではアダプティブデザインの研究が盛んにおこなわれている。データを取得しながらデザインを変更することを、最初の設計段階で十分に検討しようという考え方だ。残念ながら、こういったアダプティブな考え方は紹介されていなかった。欧米の実務的な研究では、認知を「区別」などの論理的操作に還元する傾向がある。本稿では住まいと住人の関係がスムーズに「回る」ように、習慣や性格も含めて「データ」からアダプティブに対応しようとしている。認知症にやさしい市街デザインは、単純な格子状ではなく、不規則格子で複数の目印があることが好ましいとされている。英国郊外都市における研究であるため、東京タワーや六本木ヒルズのようなどこからでも見えるランドマークについては言及されていない。かつて東京には冨士見坂がたくさんあった。老人が市街を散歩するとき、周遊コースを各人なりに決めているはずだ。日本人は周遊コースでの季節感を大切にしている。散歩する時間帯によっては、学童や犬たちもいる。このような人それぞれの動的な目印を見いだすことは容易ではない。相当数のデータを解析して、文化的背景などにも注意を払いながら、研究を進めてゆく必要がありそうだ。その時には防犯カメラが役立つのだろうか、GPS付きのスマホのほうがよいのだろうか。Google Street Viewのような移動する動画画像を集積して、老人向けの周遊コースを整備したり、リコメンドしたりするサービスに期待したい。

本論稿はAI技術などの延長にあるので、論理的操作よりもさらに技術的な世界観といえばそれまでかもしれない。しかし、論理的操作の場合はシステム志向になりやすく、本論では一貫してアダプティブなプロセス志向を目指している。生活関連のデータ活用においてシステム志向となれば、近未来的にシステムの暴走が避けられず、生活の基盤そのものが破壊されかねないという危機意識から、生活のデータを回す別の世界を模索している。

◆技術、科学と科学技術

「データ」の世界をどのように理解して、いかにつきあうのかというテーマは、いつどこでも本稿の断片的または間接的な記載の中に、もしくは行間にただよっている。「データ」は通常、情報技術などの技術の文脈で理解されている。しかし、時々言及しているように、筆者にとってデータサイエンスは、データはコンピューターにとっての「自然」であるというテーゼから始まっているので、自然科学の文脈で理解している。「データ」の世界を、ビッグデータやAI技術として近未来的に考えると、科学技術の文脈がふさわしい。

哲学的な技術論を読んでみると、例えばフランスの哲学者ベルナール・スティグレール(1952~)の『技術と時間』(1、2、3ともに法政大学出版局)はギリシャ神話に技術の起源を見いだす。数学を技術や科学に含めるのか、技術や科学の基盤として、もしくは論理の延長として、特別な地位に位置づけるのかという判断に依存するとしても、科学は技術よりも後の時代、近代以降に大きく発展したことは疑いようがない。データサイエンスにとって、数学は理論としては「自然」を超越した特別な存在であるとともに、数字は「自然」の構成要素でもあるという2重性を持っている。

哲学は別として、筆者のように実務的な背景で考えると、少なくとも現時点での技術と科学の区別を単純に理解するとすれば、技術的な発明は特許に発表し、科学的な発見は科学雑誌に発表される。特許の場合は審査および特許訴訟により内容が確認され、科学の場合は専門家の査読により内容が確認される。iPS細胞のように、科学的な大発見が科学論文を投稿する前に特許出願されることもある。ところが先端科学を軍事技術に応用した場合、原子爆弾や暗号解読技術など、特許出願や科学論文による公開は期待できそうもない。筆者は軍事技術に限らず、科学を技術に応用して、情報公開されない特殊な技術を科学技術と考えている。科学技術ジャーナリストは、公開されている科学や技術の行間を読んで、科学技術のリスクを議論する仕事だと思う。

AI技術の顔認識は治安や軍事応用が容易に想定される。軍事技術だから反対するというつもりはない。筆者としては、軍事技術を積極的に評価して、平和技術として展開することで実質的に技術公開し、軍事技術としての可能性を限定する戦略を推進したい。典型的な成功例はインターネットだろう。インターネットが平和技術なのか産業技術なのかということは別としても、軍事技術として始まったにもかかわらず、軍事利用は大きく制限されている。テロリストによるインターネット利用もネット企業が制限している。

戦争における科学技術の有用性は明らかだろう。軍事費とはいっても、戦争を避けるための努力も含まれるので単純ではないかもしれないけれども、より積極的に戦争で破壊された平和を回復するための努力に科学技術は役立っているのだろうか。生活関連のデータ活用は、認知症の問題だけではなく、難民の生活実態を明らかにして、平和からほど遠い現実を生きている子供たちを支援することにも役立つ。平和技術においては技術公開だけではなく、積極的に技術移転することも重要になる。平和技術としての科学技術が、産業技術とは別の次元で発展することを期待したい。

◆宗教とAI技術の共生または共謀

現在のAI技術は汎用の思考機械ではなく、自動化したデータベース作成技術・データ処理技術の段階でしかない。思考機械の先には、「意識」を持った人工知能の可能性すらある。AI技術の民間応用としては「技術」の範囲内だけれども、軍事応用としては最先端の「科学技術」でもある。従ってAI技術は暴走するリスクとともにある。コンピューターは計算機または情報処理装置であり、AI技術はデータ処理装置なのに、なぜAI技術のほうがコンピューターより危険なのだろうか。その危険性は、AI技術はコンピューター技術の特殊な応用であって、その特殊性は「データ」という世界認識の特殊な形態であるとともに、コンピューターにとっての普遍的な世界認識でもあるという二重性にある。AI技術が軍事技術となることで反人間主義の極限に到達し、軍事的暴走が全人類の破壊となりうるからだ。コンピューターに膨大な軍事データを与えて、自動的にデータ処理を行う場合、軍事データの反人間主義的な性格をAIプログラムが機械学習して、データ処理結果が全人類の破壊を含意していても軍人は理解でないだろう。結果として得られた軍事戦略が初期条件として与えられた軍事目的と一致して実行されてしまう確率を無視できないだろう。

特に戦争などの特殊な状況下では、軍事技術としてのAI技術のリスクは必要悪とみなされるのだろう。しかし、宗教がAI技術を使う場合は必要悪とは言えない。宗教を科学主義により否定することは自由だけれども、科学を軍事技術に使うことを止められないのだから、AI技術を宗教が利用することを止めることはできない。常識的な感覚では、AIが「神」のようにふるまうことを快く思わないだろう。一方で、筆者は宗教家がAI技術について、真剣に考えることを望んでいる。従来の宗教的な構図では、神の次席に人間がいた。神が死んで人間が神のようにふるまうのかと思いきや、「機械」、特に金融を支配する特殊な機械が神の座を狙っている。いくら拝金主義の現代であっても、さすがに「お金」が神様だとは思わない。新興宗教では集金システムのために神を利用することがあるかも知れないけれども、集金システムに使われる「機械」が神となることは想定していないはずだ。AI技術が宗教に利用されると、それはとんでもない共謀となるかもしれないし、人とコンピューターが共生する生存戦略への工程図となるかもしれない。

データの世界は遺伝子のようなもので、折り畳みやコピーが容易にできる非線形な世界だ。データを折り畳むと、政治的な右翼と左翼が重なり、人間主義と反人間主義が重なる。AI技術により進化した機械は、確率論的な、すぐれてアダプティブな動作により正確な未来予測を行い、個人主義者が想像する世界よりも個別的で局所的な世界において最適化を行う。この近未来は、全体主義のように分かりやすい世界ではなく、よほど頑張らないと、ウイルスのように無生物を装いながら、人間(心と身体、そしてコミュニケーションのネットワーク)を機械化してゆく。AI技術によって機械が人間化するのではなく、人間が機械化するという逆説こそ、本稿の折り返し地点にふさわしい。

参考1;ICF 国際生活機能分類 ―国際障害分類改訂版―(世界保健機関〈WHO〉、〈翻訳〉厚生労働省、中央法規出版、2008年)

※『住まいのデータを回す』過去の関連記事は以下の通り
第9回 日常生活のデータは私とあなたと世界を変える、進化論的にまたは運命論的に
https://www.newsyataimura.com/?p=7142#more-7142

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