п»ї 成長がすべてではない『時事英語―ご存知でしたか?世界ではこんなことが話題』第19回 | ニュース屋台村

成長がすべてではない
『時事英語―ご存知でしたか?世界ではこんなことが話題』第19回

3月 04日 2016年 文化

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SurroundedByDike(サラウンディッド・バイ・ダイク)

勤務、研修を含め米英滞在17年におよぶ帰国子女ならぬ帰国団塊ど真ん中。銀行定年退職後、外資系法務、広報を経て現在証券会社で英文広報、社員の英語研修を手伝う。休日はせめて足腰だけはと、ジム通いと丹沢、奥多摩の低山登山を心掛ける。

わが国の経済が昔日の勢いをなくしてから久しい。今回は偶然目にした米誌フォーリン・アフェアーズの日本経済へのコメントを紹介したい。同誌3月/4月号電子版に掲載された、ザッカリー・カラベル(Zachary Karabell)氏の「不景気に馴染むこと 成長がすべてではない―日本に聞いてみるといい」と題された一文である。

一言でいえば、デフレはモノの価格を引き下げるので暮らし向きには悪くないはず、というのが要旨であり、経済の停滞、格差拡大、巨額な国家債務などの事実がありながら、日本の社会は何も影響を受けず実に平穏ではないか、というものだ。

確かに、わが国は中東、北朝鮮、欧州での様々な展開に対して決定的な影響力を行使する気力、能力を持ち合わせない。また一般的に我々には実は深刻な脅威と捉えるだけの想像力も切迫感も正直言ってない。

それを、端的にしかし間接的に表している記事と理解すべきかもしれない。日本人の暮らしは別段変わっていないといわれても、今後もそれでいいとは言われていない。コストを下げる技術革新は評価されて国内外を問わずモノの売り上げに通じるはずであり、ここで著者が評価してくれる技術とは、日本人が日本国内だけで便利に、安全に、快適に暮らすのに役立つだけで世界に普遍的な価値を認めさせる迫力のある内容のものではない、ということであろうか。

◆グローバル経済をめぐる悲観論

いずれにしても、将来の日本経済について単純に明るい気持ちにさせてくれる記事ではなさそうだ。皆さんのご意見はいかがしょうか。以下に全文訳を紹介する。

ウォールストリート(ニューヨーク)からKストリート(ワシントンDC)までグローバル経済をめぐる悲観論で満ちている。世界経済は2008年の金融危機からようやく回復したようであるが、一般論としては、一つことが起きればまた危険にさらされるような脆弱(ぜいじゃく)さと不安定さを抱えたままであるとされている。

国際通貨基金(IMF)は2015年10月に、世界が力強い成長に戻ることが難しい状態にとどまっている、と警告している。しかし他はもっと暗く見通している。米国の前財務長官ラリー・サマーズ氏は、世界は忍び寄る長期不況―すなわち、低成長、低インフレそして低金利が根強く続く時期―に直面しつつある、と述べた。これは先進各国がデフレの罠(わな)に陥り、中国が先の見通せない消費牽引(けんいん)経済への転換に苦労し、さらに途上国が資源価格の崩落とグローバルな信用縮小のショックで動揺するとみるものである。

また、多くの人々が声をそろえて所得格差の危機について警告を発している。:そして、当然米国においては中間層の賃金が30年間停滞する一方で、上位1%の人々の富は増え続けている。

この話には広まっているのと同様な程度において基本的な理論的欠陥がある。それはこのデジタル時代にあってそぐわない国内総生産(GDP)のような経済成長の測定基準に頼る一方で、決定的な(新展開の)事実を無視していることである。:世界中の多くの地域で生活費が下落している事実である。世界中の経済および政府機関はGDP成長の極大化を重視しがちであるが、実は、経済成長が低位で推移する将来は大概の人々が想像するほど悪くはない。ただし、同じように生活費も下がり続けるならば、の前提であるが。

この議論は単に視点の違いの問題と片付けられない。成長が停滞しているとの見方は政治家たちを、成長を高めるための施策を採用させる危機対応メンタリティーへと追いやるからである。:消費刺激策、減税および高等教育への投資などの施策などへ向かわせるのである。一部は有益であろう。しかし、それらはより有益な他の行動選択を締め出すことになりうる。:つまり、効率化投資、より引き締まった官僚組織、そして何よりも人々の最低生活水準の確立と維持のための行動を、である。これら手順を実行する社会のほうが長い目で見た場合うまくいくであろう。(続く)

◆GDPを超えて

計測基準のGDPが生み出されたのと、たまたま時を同じくして起きた大恐慌以来、一貫してほとんどの人々がGDPを経済の健康度の最も重要な指標と考えてきた。政府は生産高と所得の増減によって測られる彼らの繁栄最大化能力によって評価されたり、けなされたりしてきたのである。(生産高と所得には賃金とともに配当のような他の収入原資も含まれる。)

もちろん、所得とは平たく言って生活に必要とされるものを手に入れる手段である。:食料、衣服、住み家、健康管理、教育それに娯楽である。昔から収入と賃金の上昇は生活の質の向上と密接に結びついてきた。昨年のノーベル経済学賞の受賞者であるアンガス・ディートン氏は収入が上がればより長い寿命、より少ない社会暴力とより大きい自己達成感につながることを示し、この関連性を強い説得性をもって論じたのである。

しかし、人は理論上、生活に必要なものすべてを収入以外から得ることができる。それは共産主義が約束したことである。例えば:モノの共同所有は集団全員の繁栄につながることになる。共産主義は実践においては失敗したが、GDPの拡大が集団的繁栄あるいは幸福を生み出す唯一の道ではないと説いたことは真実であり続けるのである。事実、モノやサービスの価格を増加させるインフレは、何世代もの社会保障給付の受給者たちが生活費にスライドさせる給付調整が家計費の伸びに追いついていないことに気づいたように、所得が上昇してもその果実を損なうことがある。

その一方で、大事なモノやサービスの価格が下がり続けるならば、賃金の伸びが停滞する間でも生活水準を維持することあるいは引き上げることさえ可能にできる。これらの事実を前にしてもこんにちの経済を運営する機関とそれらが依拠する施策は所得サイドの数字に、より傾注しコスト面を考えることを無視するのである。一方で学者エコノミストおよび政府エコノミストの両方とも生活費指標と購買力の推移に目をむけるが、GDP、所得そしてインフレに関しては二次的な注意を払うだけである。ディートンと彼の同僚でノーベル賞受賞者のアマルティア・センたちのようなより鋭い注意力で経済成長の過去を追跡する人たちも同様なこだわりを示している。

20世紀の大半においてモノとサービスの価格は賃金と同じ速さ―あるいはしばしばそれを上回る速さで伸びた。こんにちではこれらのコストが世界中で下がっている。2010年来グローバルに捉えたインフレ率はほとんどの期間3.5%付近を上下して、実質世界成長率に大体見合い、2010年に先立つ20年間に経験された5%と比較して相当に低い水準であった。

一方で先進国世界においては、インフレはさらに低く2%を下回った。その流れに技術進歩が果たした貢献は大きい。生産の自動化が賃金の伸びを蝕(むしば)み、多くの形態の職を脅かしているのは真実である。;マッキンゼー・グローバル・インスティチュートは最近次のような推定を行った。ロボットは現在ヒトが行う年間賃金ベースで評価して2兆米ドルに達するすべての労働の45%をいずれ代行できると見積もった。しかし、テクノロジーは同時に生産工程の効率化によって、ハンバーガーから自動車の生産に至るまで世界中のあらゆるモノのコストを引き下げている。そして、フラッキングにみられるような技術革新はエネルギーや原材料資源のコストを削減している。

テクノロジーはまた、多くの欠かすことのできないサービスの価格も押し下げている。例えば、伝統的な高等教育の費用はインフレ率よりもはるかに速いスピードで上昇してきたが、オンライン教育についてはコンピューターを介する大規模開放オンライン授業(MOOCS)などによりはるかに安くなっている。― しばしば無料のこともあるほど。

GDPは一国において産出されるあらゆるモノとサービスの価値を単純に測るものなので、対応するコストが下がればその値も減少する。;モノの高価格によるGDPに(政策上で)依存する経済は逆に価格が下がると(数字面では)縮んでしまう。このことは価格変動とインフレ効果を調整して算出する実質国内総生産(Real GDP)とそれをしない同名目数字の両方についてあてはまる。さらに、(価格下落による)GDP縮小はサマーズ氏のようなエコノミストだけでなく、自分の存続がGDPの押し上げ能力次第という首輪につながれている大概の政府高官をも脅かすのである。

しかし、GDP成長はもはや経済の健全度を測るための特に有用な手法ではない。今の経済における多くの最も重要な展開も公式なGDPの数字にはほとんど影響を与えない。ウィキペディアを拾い読みし、ユーチューブでビデオを見て、グーグルで情報をあさることができる便宜は人々の生活に価値を与えている。しかし、それらはデジタル世界でのものであり価格はゼロで、公式GDP数字上では常に効果を過少評価される。

コスト削減につながる効率改善はGDP算定にはネガティブ効果となる。:太陽光パネルの例を考えよう。それらを導入する最初の時点ではGDP効果はある。しかし、その後実現する石油やガスの節約は逆にGDPを減らす。低コストと低成長の組み合わせは高コスト・高成長と最終結果は同じである。しかし多くのエコノミストと中央銀行当局者はインフレよりもデフレを恐れる。彼らはデフレの罠を不安視するのである。:価格が下がれば人々は明日になればさらに安くなると期待し待つことができるので今日カネを使う気にならない。このように消費者が財布を閉じてしまえば経済は音を立てて急停止し、さらに価格下落し悪循環が続く結果となる。

さらに悪いことにデフレは借り入れコストを増加させ、それがさらに消費を抑制するのである。そして、デフレはしばしば需要が弱い兆候と捉えられ、さらにそれがまた消費者が消費力を欠いている兆候とみなされるのである。

しかしこれらの不安のいくつかは正しい理論根拠に基づいていない。デフレが負債を抱える人々にほとんど救いを差し伸べないのは真実であるが、それは所得と同様に人々の豊かさと生活の質を左右する限りにおいて問題となるだけである。デフレと低需要は成長を阻害する恐れはあるが必ずしも繁栄を危機にさらすものではない。このことを大抵の国よりもよく知っている国が一つある。:それが日本だ。(続く)

◆日本シンドロームってなんだ?

1991年に日本の巨大な不動産と資産バブルがはじけ、成長が急減速して以来ほぼ30年の間、世界のあらゆる政治の世界にいる識者たちは注意喚起のための事例として日本を登場させてきた。巨額の国家負債、ゼロインフレ、そして微小あるいはゼロ成長の苦難に陥った日本のようになってはいけないと引き合いに出してきた。”Japan Syndrome (日本シンドローム)”と入力してネット検索してみれば、日本が同じ運命を回避するよう念じて他の社会に対して提供する、広く知られている沈滞と教訓について論じる多くの記事や論文を目にすることができるであろう。

しかし、事実は日本には何ら問題がないということだ。マイナスの実効金利、過小評価された通貨、GDPの250%にも達する国の借金、そして過去10年間の平均GDP成長が1%に満たない事実は全部本当であろう。でもまだ彼らは世界で最も豊かで最も安定した国の一つなのだ。

異なる社会が個人と集団の幸福度を測定するためのほとんどあらゆる基準に照らして日本は最上位に近くランクする。平均寿命は世界最上位のなかの一国である。;犯罪率も最も低い。日本人は優れた健康管理と教育制度を享受している。国連の人間性開発指数、レガタム繁栄指数 (Legatum Institute’s Prosperity Index) ならびに経済協力開発機構(OECD)の“より良い暮らし指数”などはそれぞれ常に日本に高得点を与えている。

日本における所得格差は世界の大半がそうであるように過去10年間で広がっている。しかし、その変化は日本人全体の目立った数の人たちの暮らし向きにとりたてて影響を与えているとは認められない。さらに、日本の非常に多額の公的債務は財政崩壊につながってはいない 端的に言って、経済の停滞は日本の一般人の高度な生活の質にはほとんど影響を与えていない。この認識によって日本では〝反成長“とかポスト成長モデルが強調され所得や生産高ではなく暮らし向きを重視する傾向が生まれた。

幸せな気分になろうと、むやみにどんどんモノを増やすのではなく自分の持ち物をいかに減らすべきかを説いた近藤麻理恵氏の著作のすごい成功は新しく登場した日本モデルを物語っている。そして彼女の本が世界中で200万冊以上も売れた事実は、氏のメッセージが日本をはるかに超えた異国の地でも人気があることを物語る。(続く)

◆値段以上の価値を得たい

一方、米国において、最近のギャラップ世論調査によると不平等さと所得の伸びの停滞が投票権者の感じる最も緊急な不安の一つであるという。経済の権威者であるジェームス・ガルブレイス、ポール・クルーグマン、ブランコ・ミラノヴィッチ、トマ・ピケティ、ジョセフ・スティグリッツの諸氏はすべて口をそろえて所得と富の不平等が国の民主主義の根幹を脅かすと主張する。

中間層の賃金が伸びなくなったのは30年以上前であるが、それが緊迫した経済上の不安となったのは金融危機が起きてからのことである。危機以前では株ブーム、価格上向きの住宅市場とふんだんな信用供与が問題の深刻さを見えなくして、人々に所得が停滞したまま消費を続けることを許容したのである。

しかし、危機が襲って信用が引き締められたときその所得原資の余剰分は蒸発した。でも、賃金が横ばいになってもコストも同様増加することはなかった。―それにより生活水準が低下するのを防いだのである。何百万もの世帯がもちろん失業と収入減に直面し、そしてまた何百万世帯が基本的な生活ニーズを満たすことができなくなった。;そのような話が当然大衆の議論を席巻した。

しかし、実際の多数を占める人々にとって全体で考えれば低下したコストと幅広いモノとサービスが入手し続けられたことで所得の落ち込みによるマイナス効果を相殺したのである。ここで、家庭で一番重要な家計費項目の一部について考えてみる。:食費、光熱費、住居費である。1950年、米国の平均的世帯は収入の30%を食費に費やしていた。21世紀に変わるまでにその数字は13%にまで下がり、2013年ではわずか10%となった(もちろん、その比率は貧しい世帯ではうんと高くなるがフードスタンプ配給〈スーパーなどで使える食料購入用商品券〉やほかの政府支援策が費用を軽減する)。

大都市での住宅関連費は20世紀半ばと比べて収入に対する比率は高い。しかし、全土でみればその割合は一般的に高くない。さらに、光熱費は車の燃費改善と住宅の断熱性アップ、そして最近では石油とガスの安値によるエネルギー効率の向上のおかげでエネルギー関連費出が縮小している。家庭と企業が消費するモノに関してはグローバル化されたサプライチェーンが技術革新のもたらす効率向上と相まってそれらの相対価格を引き下げた。米国労働統計局によると、中国から輸入される低価格商品さえも―過去3年間の間に2%以上―さらに安くなりつつある。

電化製品や家庭用器具の値段は何年にもわたって下がり続け、家具、衣料や多くのほかの品物がいま安くなってきている。そして残るのは家計費に占めるウェイトがずっと上がり続けているサービスの価格である。

ここで話は複雑になる。高等教育のようなサービスのいくつかはインフレ率よりもうんと速いスピードで高騰し続けている。医療関連費用は全体的には過去数年穏やかに上昇してきているだけであるが、薬代とか保険料のような一部費用は跳ね上がった。医療制度の非効率性と複雑さは人口のかなりの部分を占める人々に厳しい財政負担を強いている。しかし、学費、医療費の両方についてはメディケア、メディケイド、ペルグラントおよび巨額の学生支援プログラムなどを通じた政府や公的あるいは私的な機関による援助によって、人々が強いられる費用負担を軽減している。

さらに、既存の技術を根底から覆す革新的技術が近時多くのサービス価格を押し下げている。例えば、車を呼ぶウーバー(Uber)はタクシー乗車の料金を大きく引き下げ多くの運転手に収入をもたらした。スカイプ(Skype)などのソフトを使ってインターネット経由で電話を使えるようになったことで電話通話料が限りなくタダに近づいた。それにとどまらず、医師による往診料はそれを受けるのが不可能なほど高くなってから何十年も経過するが、様々なスマートフォンを使うビデオソフトが仮想の往診を安価かつたやすく受けられるようにした。(続く)

◆すべての鍋にチキンを

減速成長にエコノミストが不安を抱くのは米国に限ったことではない。ほぼ10年近くの間、グローバルな次元の成長が中国の目覚ましい勃興(ぼっこう)とそれに伴う加速度的に新興した市場によって牽引されてきた。しかし、これらの原動力は今や停止しつつあるように見受けられる。中国の経済成長率はかっての二ケタから7%ないしはそれ以下に下落した。

一方で、中国の成長が点火した資源とエネルギーブームは、ブラジル、ロシアから南アフリカに至るまで多くの国に痛い影響を残して終わりを告げた。しかし、日本と米国においては中間層がモノとサービスをこれまでになく安く入手できるので生活水準の向上を実体験している。

次にインフレについてみてみよう。経済が活況である割には、中国は驚くべき低インフレであり、少なくとも公式数字によれば過去3年間の間3%以下にとどまっている。インドではインフレ率は5%内外。そういう中にあってブラジルは目立った例外ともいえインフレは10%程度である。低インフレはまた世界的な超低金利情況に付随するもので、このような低金利は歴史的にも個人、政府双方にとって重い負担の一つであった借金をたいへん安価なものとしている。その結果、新興のグローバル中間層は低コストの資本がかってないほど安く手に入れられる。(続く)

◆基本に立ち返る

1970年代の経済低迷期には、資本主義と経済成長の価値に対し深い猜疑心(さいぎしん)を抱く預言者たちは声をそろえて深刻な将来への警告を発していた。例えば、ローマクラブと称する専門家集団は1972年、いくつかの経済と環境の崩壊シナリオを予測した「成長の限界(The Limits to Growth)」というタイトルのレポートを発行した。もちろん彼らの予測ははずれ、1980年代にはグローバル成長が起きたのである。

こんにち、“成長の限界”という言葉は以前比較相当に小さな不安しか掻(か)き立てないはずである。成長はこれまで長い間、繁栄への主要な道筋ではあったが、それしかないというものではない。緩やかな成長が資本主義と消費を分解させてしまう蓋(?)然性(がいぜんせい)はない。低コスト実現に向けた努力の大部分は、企業が利潤と市場シェアを維持しようとするなか、資本主義的競争の直接的成果なのである。その結果得られる効率性向上が過去には想像もできなかった水準で集団的豊かさを許容することになった。技術革新がヒトの労働を代替することが続き、複合材料のような産業手法が単なる原材料よりも重要になるにつれて、何十億もの人々がより多くの基本的欲求が満たされるようになっていくのである。

グローバルに中間層が繁栄したことによる環境面への影響は深刻ではあったが最悪の時期は脱した。:2015年には炭素排出量が実際に減少した。しかし、金融界と政治の領域においてはGDP成長が最も重要な古いモデルに頼り、それゆえ低コスト、低速拡大が政治家と中央銀行家たちを引き続き不安に陥れるのである。

もし低コストから得られる利益を明快に測る手段がなく、低成長の弊害を評価する手立てだけがあるならば世界中の政府と経済機関は世界経済の過度に悲観的な見通しだけを強調し続けることになり、自ら誤った経済成長の追求に基づいた政策の処方箋(せん)をつくり続けるだろう。

政治家は成長のみが経済的安定に全員で到達できる可能な道と仮定して出発するのではなく、究極的にどこへたどり着こうとしているのかを最初に考えなくてはならない。おそらくそれはまず少なくともすべての人々に十分な栄養、住み家、医療、教育、衣料、道具および人々が置かれた状況を改善するためのいくばくかの基本的な機会を、与えることを意味する。これは今さら新しく思いついた考えではない。国連が1948年に明記した世界人権宣言の内容に近いものである。

上記を念頭に、政治家たちは生活水準の向上策にもっと注意を払うべきである。―たとえそうすることがGDPを下げることになるとしても。それは企業や個人に対して効率向上のためのテクノロジーを取り入れるインセンティブを与えることが含まれ、それは電池が長持ちするスマホとか光熱費消費をモニターできる家庭用計測器などを指す。―すなわち、GDPを下げるかもしれないが広く大衆にとって良いもののことである。成長は以前より低くても、かつてないほど多くの人々が日々の暮らしに必須のモノが手に入る世の中になることが悲惨な筋書きなどとはとても言えない。実際はその逆であろう。世界は成長の限界に近付いているが、繁栄の終わりはまだ見え始めてはいない。(全訳終わり)

※今回紹介した英文記事へのリンク
https://www.foreignaffairs.com/articles/2016-02-15/learning-love-stagnation

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