п»ї 純白の八重桜と歴史のパノラマ『読まずに死ねるかこの1冊』第10回 | ニュース屋台村

純白の八重桜と歴史のパノラマ
『読まずに死ねるかこの1冊』第10回

4月 11日 2014年 文化

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記者M

新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間120冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウオーキング

東京・永田町の国会議事堂の正面左手に憲政記念館がある。憲政の功労者である尾崎行雄(1858~1954)を記念して建設された尾崎記念会館を吸収して、衆議院が1972年に開館したものだ。尾崎といえば、アメリカのポトマック河畔の桜並木は彼が東京市長当時の1912年に贈ったソメイヨシノなどを元にしているが、憲政記念館の庭園にもこの春、39種類の桜の木が花をつけた。都心の一等地にありながらこれだけ多くの種類の桜が楽しめるのはここだけである。しかも、いつ訪れても人はまばらで、都心の観桜の穴場と言っていいだろう。

すべての種類の桜が一度に満開になることはないが、ソメイヨシノが散った後も「兼六園熊谷(ケンロクエンクマガイ)」や「八重紅枝垂(ヤエベニシダレ)」などが見事に咲き誇り、移りゆく最後の春を楽しむことができる。東京の桜の季節が幕を閉じようとしている4月初め、僕はこの庭園の高台に立ち、そこから見渡せるところで起きた歴史的な事件を思い起こし、まさにタイムスリップしたような不思議な感慨にとらわれた。

◆「桜田門外の変」を一望する

内堀通りが見渡せる庭園の高台の一角に、ちょうど満開の時期を迎えた、日本さくらの会が2008年に植樹した「白妙(シロタエ)」の木があった。図鑑によると、オオシマサクラ系サトザクラの園芸品種で、東京・荒川の堤(つつみ)で発見され、「白妙」と命名され広がった、青空にことのほか映える大きな純白の八重桜である。

この小さな木の傍らに立つと、正面に皇居とお堀がパノラマのように見える。内堀通り沿いの桜並木の歩道を大勢の花見の人が行き交い、その間をかき分けるようにして皇居ランニングの人たちが走ってゆく。

少し右手に目をやると、大きな電波塔がある。通称「桜田門」。首都の治安をあずかる警視庁の庁舎だ。この中にある記者クラブに籍を置き、抜かれに抜かれ、特ダネならぬ特オチを何度もやらかしたわが身には懐かしさよりも、何者もまったく寄せ付けないような厳然たる威圧感を感じさせる建物だ。

この高台に立って、いかにも重厚そうなあの建物をながめると、苦々しい思いの中で唯一、「度胸をつけてもらった」という気持ちが湧いてくる。取材の修羅場というものをほとんど経験せずに地方支局から上がってきた僕が、曲がりなりにも社会部記者として「一皮むけた」と自分で思えるのは、警視庁詰めだった、あのがむしゃらな2年間があったからこそだと。ただし、当時は気力も体力もあったからで、いまなら当然願い下げである。

さて、「白妙」の桜木のそばから見える警視庁庁舎の正面の交差点付近。ここが、明治維新への大きな分岐点となった「桜田門外の変」が起きたところである。

「桜田門外の変」とは1860年3月24日、尊王攘夷(じょうい)派の水戸浪士らが、大老・井伊直弼(いい・なおすけ)を江戸城桜田門外で襲い、殺害した事件である。この事件の2年前、井伊は天皇の許しを得られないまま日米修好通商条約に調印。これに対し朝廷は、幕府の条約調印は遺憾である旨を記した勅諚(ちょくじょう)を水戸藩へ下した。この前例のない事態に直面し、幕藩権力の解体の危機を感じた井伊は、尊攘派の公卿や志士、水戸藩士などの反対勢力に徹底した弾圧を行った。世にいう「安政の大獄」である。

吉村昭の『桜田門外ノ変』(新潮社、1995年)は、吉村の真骨頂ともいえる徹底した歴史的資料を基に史実を丹念に積み上げたノンフィクションタッチの大作である。『私の文学漂流』(筑摩書房、2009年)など吉村のエッセイの中にもたびたび登場するこの作品は、吉村が原稿用紙20枚ほどを書き進めたところで時代設定に疑問を持ち、執筆途中で焼却してしまう。改めて資料点検をして執筆するが、当時の社会思想を把握できていないことに自分で納得がいかず、今度は252枚書いたところで原稿を再度焼却炉に投げ入れたといういわく付きのもので、吉村にとって特に思い入れが深い作品といえる。

さて、事件の舞台となった桜田門外が見渡せるこの高台。憲政記念館のパンフレットを見て、思わずゾクッとした。僕が立つここにはかつて、彦根藩の上屋敷(江戸時代に諸国の大名が江戸市中に設けていた住まい)があり、あの大老・井伊が住んでいた、まさにその跡地だったのだ。つまり、「桜田門外の変」の当日、井伊は高台にあるこの場所から駕籠(かご)に乗って江戸城に登城しようとし、ここから見渡せる桜田門外で水戸浪士らに襲撃され、首をはねられたのである。僕は吉村の作品を思い浮かべながら、ここから一望できる桜田門外での154年前の冬の日の異変を、まるで動画のように立体的に想像することができた。それは、なんともいいようのない不思議な感覚だった。

◆憲政記念館で改めて考えたこと

僕のような、吉村昭のにわかファンが言うのはまことにおこがましいが、憲政記念館には吉村昭の作品を読んだことのある人にはまさに宝のような貴重な史料が惜しげもなく詰まっている。

『海の史劇』(新潮社、1981年)、『ポーツマスの旗』(新潮社、1983年)、『ニコライ遭難』(新潮社、1996年)などに出てくるロシア皇帝ニコライ二世に関する史料は、2階(第1展示室)にある憲政史映像選択コーナーでモニターを使って映像で見ることができ、これらの作品への理解をさらに深めることができる。

また、憲政歩みのコーナーの展示品の中で特に目を引いたのは、『ポーツマスの旗』の中に出てくる初代韓国統監・伊藤博文の射殺事件(1909年10月26日)で、犯人の朝鮮独立運動家、安重根(アン・ジュングン)が発射した弾丸の実物である。安をめぐっては、中国政府が今年1月、伊藤博文の暗殺現場となった黒竜江省ハルビン市のハルビン駅に記念館を開館。安をテロリストだとする日本政府に対し、中国は韓国政府に同調する形で「著名な抗日の義士であり、中国人民の尊敬を受けている」と反論するなど、日本と中韓の不仲を助長するものとして報道された経緯がある。

本で読み知った史実を、実際に当時と同じ場所に立って頭の中で画像としてイメージしたり、歴史的な事件に使われたもの言わぬ弾丸をじっくり観察したりすると、時間の流れを超えてその史実の深みをさらに味わうことができる。ただし読む者がそうした楽しみ方をできるのも、史料を丹念に積み重ね、私情を極力排除し写実的に描き上げた吉村のなせる技であるというほかない。

【写真説明】 憲政記念館の高台にある「白妙」の木のそばから望む。
内堀通りの向こうに左から皇居、桜田門、警視庁などが見渡せる=筆者撮影

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