п»ї 13 | 12月 | 2013 | ニュース屋台村

Archive for: 12月 13th, 2013

二代目が会社の命運を決める―ホンダを世界企業にした河島喜好
『山田厚史の地球は丸くない』第12回

12月 13日 2013年 経済

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山田厚史(やまだ・あつし)

ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。

朝日新聞から河島喜好さんの「惜別」を依頼された。ホンダの二代目社長である。ベンチャー企業だったホンダを10年かけてグローバルな自動車会社に育てた人だ。ひらめきと独断、たぐい稀な個性で会社を興した本田宗一郎と正反対。柔らかな人柄、話をよく聞き、辛抱強くことを進める社長だった。ひらめき経営から集団指導へ。絶妙なバトンタッチがホンダを成功に導いた。

◆どんな時に社長は代わるのか

10月31日、85歳で亡くなった。社長を辞めてから30年。現役に河島社長を知る記者はいない。かつて自動車担当だった私にお鉢が回ってきた、というわけだ。
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こんな企業は海外進出の資格がない
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第10回

12月 13日 2013年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住15年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

タイは今や日本にとって一番近い国のようである。韓国や中国の方が地理的には近くても、気持ちの面ではタイが最も近い国だと思われている。確かにタイから日本への観光客は急増中だ。最近では、日本の地方の中規模都市に行ってもタイレストランを見かける。

しかし、今の日本人がどれくらいタイのことを知っているだろうか? 「国民に慕われている王様がいる」「首相は美人の女性」「多くの日系企業がタイに進出」「車の渋滞が激しい」「洪水が頻繁に起こる」「政治が不安定」……。あなたはこれ以外に、タイについていくつ挙げられるだろうか?
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日産スプリング(タイランド)
日系進出企業紹介『おじゃまします』第6回

12月 13日 2013年 経済

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バンコク週報

1976年10月創刊のタイで発行する日本語新聞。在タイビジネスマンに向けてタイの政治・経済・社会ニュースから人物紹介まで多彩なコンテンツを提供している。

◆従業員の定着率向上に資格制度導入も

「ダントツ品質宣言! 目指せ、世界一品質」をスローガンにかかげる精密バネメーカー「日産スプリング」の創業は1951年12月。それから半世紀を経た2005年5月、同社は海外初となる子会社「日産スプリング(タイランド)」をタイ・ラヨン県のイースタンシーボード工業団地に設立した。社名に「日産」を冠しているが、日産自動車の系列会社ではなく、創業者が〈日々産ずる、またお客様に日参(ニッサン)することから付けた〉(同社HP)とのことだ。

タイ工場の製造品目は、線ばねと板ばねだ。線ばねは、ブレーキのマスターシリンダー、シートのスライド部、コンソールボックス開閉部、ドラムブレーキ用など自動車での使用が中心となる。一方、板ばねは、カーオーディオ、プリンターなどに用いられる。取引先は在タイ日系企業が8割という。
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異文化を受容する優しいまなざし
『読まずに死ねるかこの1冊』第7回

12月 13日 2013年 文化

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記者M

新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間100冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウオーキング。

もう30年以上も前の話だ。ルー・フィン・チャウという女性アイドル歌手がいた。谷村新司作詞・作曲の「スター誕生」という曲で1982年12月24日のクリスマスイブにデビューし、翌年12月に芸能界から突然姿を消した中国系ベトナム人の難民出身の歌手である。

彼女は、両親と弟とともに80年に来日し当時、神奈川県大和市に開設された大和難民定住促進センターで生活を始めた。父はサイゴン(現在のホーチミン)の高級クラブ、マキシムの舞台芸術監督、母は舞踊家。そんな環境もあってか、チャウは来日してまもなく、日本の芸能界に憧れを抱くようになった。
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パリの街散歩―上を向いて歩こう
『タマリンのパリとはずがたり』第2回

12月 13日 2013年 文化

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玉木林太郎(たまき・りんたろう)

経済協力開発機構(OECD)事務次長。35年余りの公務員生活の後、3度目のパリ暮らしを楽しむ。一万数千枚のクラシックCDに囲まれ、毎夜安ワインを鑑賞するシニア・ワイン・アドバイザー。

「建物は所有者に属するが、その正面(ファサード)は全ての人のものだ。」とはヴィクトル・ユゴーの言葉らしいが、パリの街を歩けば建物の壁にはめ込まれたプレートがやたらに目につく。先日も場末の変哲もない道の変哲もないホテルの壁に「周恩来が1922年から24年までこの建物に住んだ」と彫像入りで立派なプレートがあるのを見つけた。当時この建物に在欧州の中国人青年の共産主義組織(旅欧中国少年共産党)の本部が置かれ、その機関誌の印刷を若き鄧小平が担当して「ガリ版博士」とあだ名をつけられていたそうな。

パリに来てすぐのころ、パンを買いにサン・ジェルマン・デ・プレ界隈を歩いていたら、とあるバールの脇の扉に小さめのプレートがある。近寄ってみると≪リシャール・ヴァグネールここに住む、1841年10月30日から1842年4月7日≫と読める。おお、ワグナーの失意のパリ滞在(1839年から)の最後の住処(すみか)はここか、と大いに感じ入った。
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