п»ї 中国寺院を通して社会主義・共産主義を考える『マレーシア紀行』第3回 | ニュース屋台村

中国寺院を通して社会主義・共産主義を考える
『マレーシア紀行』第3回

4月 04日 2014年 国際

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マレーの猫

エネルギー関連業界で30年以上働いてきたぱっとしないオヤジ。専門は経理、財務。実務経験は長く、会計、税務に関しては専門家と自負。2012年からマレーシアのクアラルンプールに単身赴任。趣味は映画鑑賞、ジャズ、ボサノバ鑑賞、読書。最近は浅田次郎の大ファン、SF小説も

マレーシアでの駐在期間が比較的短く、この国のことをあまり知らない私があれこれ書くのは気が引けるが、旅行記第3弾を書くことをお許しいただければと思う。今回紹介させていただく場所は、現在私が住んでいるクアラルンプールであり、その内容は旅行記とは言えないかもしれないが、中国寺院を題材としたレポートをお読みいただければと思う。

◆華人の宗教観

私がなぜこのようなことに関して書こうと思ったかといえば、こちらで旧正月2日目の2月1日にクアラルンプールにあるマレーシア最大の中国寺院・天后宮(てんごうきゅう)を訪れたのがその理由である。当日はとにかく多くの華人たちが参拝しており、その様子を見ていて彼らの宗教に強く関心を持ったからである。ただ、私は専門の研究者でもなく、浅学非才なためかなり偏った理解になっているかもしれないので、その点についてはご容赦いただければと思う。 

華人の宗教については、全く関心のない方などは仏教だと思っておられる方も多いのではないだろうか。シンガポール人などは自分の宗教を仏教と答える人が多いようであるが、実ところで、横浜中華街などで「関帝廟(かんていびょう)」や「媽祖廟(まそびょう)」を訪問された方は、仏像ではない別の像が祭られているため中国寺院は何だか仏教ではないな、という印象を持たれたと思う。

簡単な解説書によると、華人の宗教は「儒教・道教・仏教」が合わさった「3教複合宗教」であるとのことである。つまり(孔子の)儒教、道教、仏教が混合したものであるとのことであるが、現在の華僑の社会では年齢が下のものは上の者を敬うなどの儒教思想はあるにしても、中国本土から海外へ出た華僑たちに上流階級出身の人間は少なく、儒教はそれほど強い支持を受けていたわけではないようである。そのためか、私自身マレーシアの中国寺院の中で孔子を祭っている寺院は今まで見たことがないような気がする。

また、道教というと皆さんもあまりなじみがないと思われるが、いかがであろうか。私自身調べてもよく分からないが漢民族の土着的、伝統的な宗教であり、媽祖は道教の女神として媽祖廟で祭られているし、財の神として名高い三国志の武将「関羽」なども関帝廟に祭られているようである。

また、老子も道教とは深く関係しているようであるが、必ずしも老子を祭っているのが道教の寺院であるとも言えないそうである。日本人にはよく分からないというのが、正直なところではないだろうか。

ただ全てに言えることは、華人の宗教観は「現世の利益を願うこと」であり、それが基本的な宗教観であるそうだ。つまり今お祈りすれば、これからの商売がうまくいくとか病気が治るとか、現世の利益を求めることが第一の目的であると言えるようである。

◆中国本土の宗教

私が大学生だった時、選択科目で講座名ははっきり覚えていないが「近代中国史概略」を受講した記憶がある。

その中で、今でも印象に残っているのは文化大革命時の「批林批孔運動」である。つまり毛沢東の後継者と目された林彪(りんぴょう)を批判し、孔子(儒教思想)を批判するというものであり、その運動はとても激しかったといわれている。

なぜ儒教思想を批判するかというと、儒教が世の中をどうしたらうまく治められるかとか、支配者階級の立場からどのように行動すべきであるかを示唆しているものであり、労働者階級の立場に立っていないからだと教えられたことが強く記憶に残っている。

私の通った中学・高校では中学から漢文の授業があり、論語などで述べられていることは実に示唆に富んでいて、論語から学べることは多く私自身はとても好きな教科であった。また対極にある(?)老荘思想も「全て空しい」といった虚無的な面に当時とても興味があり(と言うか勉強をしない口実に)、「受験勉強を頑張っていい大学に入って何の意味があるのか? 社会で活躍して何の意味があるのか」などと考えつつ、「いやいや、やはりそれではまずいのではないか?」などと揺れる時期があったことも懐かしい。

中国国内では最近まで儒教だけでなく、道教、仏教など全ての宗教が禁止されていたし、また文化大革命時には数多くの中国寺院が破壊され、関係者が逮捕されたそうである。現在はだいぶ状況が変わり、ある程度宗教は認められているそうであるが、その時の政権の状況により今後も変わる可能性は否定できないと思う。

◆社会主義・共産主義

社会主義・共産主義は理想としては素晴らしいものであると思う。皆が平等で貧富の差も無く文化的に暮らしていける社会があれば、それは理想郷だと思うし、住んでみたい気はする。ただ、現実には絶対に存在し得ない社会であるがために、世界のどの社会・共産主義国家を見ても、現実と理想は乖離(かいり)してしまって、かえっていわゆる民主・自由主義国家より住みにくい国家になっている国がほとんどというか全てであると思う。

なぜ存在し得ないかということを、私自身若い頃は精神的な面から考えて納得していた。つまりどうしても他の人より優位に立ちたいという人間固有の欲望があるため、平等な社会ができないのではないかと考えていた。

ただ、よく考えると国家を含め、組織というものは命令を出す者がおり、その下にそれを受け、更に下に伝える者がいるという統治組織があって初めて組織として機能するのである。国家であれば無政府状態では国家として機能しないし、企業であれば社長がいてその下に担当業務を担う部下がいる組織があって初めて企業として機能するのである。

このため、上に立つ者とその下で働くものとが存在して初めて組織として活動できるわけであり、国家も同じことが言えるわけである。そのため社会・共産主義国家でもトップがいてその下に本部政治局員がいるという組織にならざるを得ない。そうすればどうしても階級が生じてしまい、一般民衆より政府関係者の地位は上になることになり、自由な発言や行動が制限される分、一般民衆にとっては民主・自由主義国家よりはるかに住みにくい国家となってしまうのである。

中国寺院の話からだいぶずれた話をしてしまったが、少なくとも東南アジアにいる華僑たちと共産主義とは相いれないものがあるのは事実であるが、商売のために中国本土との取引を行っている華僑が多いのも事実である。私自身日本を離れ、こちらで生活してみると、商業主義中心の華僑たちのたくましさには、ただただ驚くばかりの今日この頃である。

【写真説明】
クアラルンプールにあるマレーシア最大の中国寺院・天后宮=筆者撮影 

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