п»ї 思想は死んだのか『教授Hの乾坤一冊』第2回 | ニュース屋台村

思想は死んだのか
『教授Hの乾坤一冊』第2回

8月 02日 2013年 文化

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教授H

大学教授。専門は環境経済学および理論経済学。政府の審議会の委員なども務める。「知性は、セクシーだ」が口癖。趣味は鉄道(車両形式オタク)。

偉大な思想家がその後の信奉者たちによってどのように解釈され、継承されていったのか見るのは面白い。イエス・キリスト(仮に彼を思想家と呼ぶのが許されるのなら)は使徒たちに、そしてクリスチャンたちによって教祖化され、布教の対象となった。カール・マルクスはマルクス主義者たちによって学問化されると同時に政治思想化され、また闘争の武器となった。しかしもっと身近なところで考えると、吉本隆明が「吉本主義者」たちにどのように受け止められ、広められていったのかということの方がずっと面白いかもしれない。

幸か不幸か、私は「吉本教」の信者ではない。そういう人間から吉本教信者を見ると、興味深さとともにある種の違和感を覚える。クリスチャンがイエスをあがめるように、またマルキストたちがマルクスを崇拝するように、吉本教信者は吉本の一言一句を必死で読み取り、あがめるようにしてそれを人に伝えようとする。なぜなのか、これが不思議でならなかった。

◆「吉本教」の福音書を読み解く

鹿島茂の『吉本隆明1968』(平凡社新書、2009年)や加藤典洋・高橋源一郎の『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』(岩波書店、2013年)は、さしずめ吉本教の「福音書」であり、著者たちは「福音記者」である。この2冊を読んで吉本が信者たちにあがめられる理由がようやくわかった。この福音書では、吉本が戦前の自分の「誤り」を捨て去らず、むしろそれにこだわることによって過去の自分を戦後の世界観の構築に連続的につなげてゆくさまが弟子たちによって鮮明に描かれている。

 吉本は、理論だけの西洋思想をそのまま横滑りさせて日本の政治思想とすることに断固反対する。日々生きている生身の人間の生活とつながりのない、実態なき思想は、それがマルキシズムであろうがなんであろうが空理空論にすぎず、ものの役に立たないと言うのだ。

普遍化された世界観は自分の日々の生活と連続的につながることによって初めて生き生きとした「思想」になる。彼が既成の政治思想を切り捨てる一方で、なぜ全共闘に一定の理解を示したのかもわかる。自分の生活に即して問題をつかみ取り、それを自分の言葉で表現し、自分たちのやり方で造反の思想を示そうとしたからだ。

さらに吉本の逆説もこれでわかる。彼の反・反原発の態度やオウム真理教の「思想」に対する一定の共感的発言は、既定の正義感や思想にどっぷり浸かった人間には暴論に見えるかもしれない。だが、過去から将来へとつながる歴史の連続的な流れのなかでの生を認識し、地に足をつけて生活する生身の人間、すなわち吉本の目からすると一見異端に見えるものさえ受け入れる余地のあるものだと福音記者は言う。そうかもしれない。

◆すべての「思想」に投げかけたい問い

しかし吉本には憧れても吉本教徒になれない私にとって、共感はここまでだ。吉本教だけではなくすべての「思想」に投げかけたい問いがあるからだ。「それじゃあ、どうするんだ?」という簡単な疑問だ。

地球温暖化問題はどうするのか、所得・富の格差問題はどうやって解決するのか、財政破綻はどうやって切り抜けるのか、世界金融の安定化はどうやってもたらされるのか、という問題に吉本教はあるいは「思想」はどう答えてくれるのだろうか。こうした問題は生身の人間の生活に直結した深刻な問題なのだ。

今を生きる人間の実生活に重くのしかかる問題に「思想」とやらが答えてくれないとしたら、なぜ私たちは「思想」を論じなければならないのだろうか。「思想」の意味は何なのか。私が吉本教に折伏されない理由がここにある。具体的にすべきことは何なのか、その方向性が見えてこないからだ。

それにつけても思い出すのは次の言葉だ。「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変えることである。」(カール・マルクスによるフォイエルバッハのテーゼ)。世界を変えられないのだとしたら、「思想」は死んだのかもしれない。そんな考えがふと頭をよぎる。「そうではない!」という叫びを心のどこかに聞きつつも。


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