п»ї 記憶にとどめておきたい昭和戦後史『読まずに死ねるかこの1冊』第12回 | ニュース屋台村

記憶にとどめておきたい昭和戦後史
『読まずに死ねるかこの1冊』第12回

6月 27日 2014年 文化

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記者M

新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間120冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウオーキング

東京・新宿にある国立競技場の解体作業がこのほど始まった。正式には「国立霞ヶ丘陸上競技場」というが、ラグビー愛好者らは花園(大阪)、秩父宮(東京)と並ぶ「聖地」として、「こくりつ」と呼ぶ。僕のいくつかあるウオーキングコースの中の一つは、1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われたこの施設の脇を通るが、ここが完成したのが、僕が生まれた58年(昭和33年)だと知ったのは不勉強なことに、解体作業が始まる前に行われた今年5月の見学ツアーに参加した時だった。

◆神々しく輝いて見えた聖火ランナー

形あるものが消失してしまうのは、はかなく哀(かな)しい。自分と同い年のこの施設には、大学対抗陸上やラグビー日本選手権などを観戦するために何度か訪れたことがある。「ラグビーフリーク」と自他ともに認める大学当時の友人は、常にゲームの中心に絡み続けることが求められるポジション「ナンバーエイト」にちなんで息子に「英斗(えいと)」と名付け、大学卒業以来ほぼ毎年、大学選手権や日本選手権の決勝のたびに上京し「こくりつ」で観戦してきた。彼ほどの愛着はないにせよ、僕はいまも時折その脇を歩きながら、数々の劇的な名場面を生み、それを見つめ、大観衆の歓喜とため息を包み込んできたこの競技場に、いたわりのまなざしを送っている。

見学ツアーで競技場のシンボルともいえる聖火台のそばに立った時、いくつかの感慨がよぎった。

その中の一つは、いまも記憶に残る、上下真っ白なランニングシャツとランニングパンツで、聖火の紅色の炎と白い煙をたなびかせながら国道2号をひた走る聖火ランナーの姿だ。

僕は当時、6歳。町の小学校が遠いため近くの分校にたった1人入学した年の秋のことだ。祖父の自転車の荷台に乗って自宅から十数キロ離れた、岡山と兵庫をつなぐ県境のトンネル、船坂山隧道(ずいどう)(兵庫県赤穂郡上郡町梨ヶ原)の近くに行き、沿道の群衆に交じってその姿を見た。ほんの一瞬のことのように思い出すが、トンネルを抜けてきた聖火ランナーがまるで異次元から登場し神々しく輝いているように見えた。

◆「キューポラのある街」で造られた聖火台

国立競技場で間近に見た聖火台の誕生にまつわるエピソードも感慨深い。僕がいま住んでいる埼玉県川口市は、吉永小百合の主演映画「キューポラのある街」(1962年)の舞台になったところで、荒川を挟んで東京都との都県境にあるこの街は一時、「鋳物(いもの)の街」として隆盛を誇った。国立競技場の聖火台は、この街の職人が手掛けたものである。

いま街を歩いていても、キューポラ(鉄の溶解炉)を見ることはない。実際、2007年にここに移り住んだ僕の第一印象は「高層マンションと駐車場と理髪店が多い街」だった。「キューポラのある街」のDVDを何度か見たが、現在の街の姿からは、キューポラから立ち上る無数の煙の筋で空がいつもどんよりしていたという当時の様子は想像できない。

僕が07年に帰国してからずっと利用しているこの街の理髪店のご主人は、半世紀以上も前に製作されたこの映画のロケを実際に見たという、いわば街の生き字引である。彼は映画のシーンの一つひとつをいまも克明に覚えていて、映画に出てくる景色が現在もそのまま残っているのは、全編を通してわずか2カ所しかないと解説する。

その彼に、この街の第一印象を話したら、合点がいく説明をしてくれた。川口は戦後、鋳物工場が700以上あり、全国の鋳物生産の3分の1を占めた時期があった。しかし、73年をピークに受注が漸減。ここから一気に業者の数が減っていき、倒産したり廃業したりした鋳物工場の跡地は大半が高層マンションと駐車場になったという。

では、なぜ理髪店が多いのか。鋳物産業が盛んだった時代の名残で、鋳物工場で働く者のほとんどが毎日、仕事帰りに洗髪に立ち寄っていたからだという。当時はみなカネ回りがいいから毎日、仕事帰りに必ず飲みに行く。しかし、鋳物工場に一日いると、頭はススと鉄クズだらけ。髪の毛を洗うと、白い洗面台に鉄くずが黒い砂のようにたまったという。彼らは理髪店で洗髪してこざっぱりした後、赤ちょうちんへと繰り出して行ったのである。

この理髪店も当時は住み込みのお弟子さんを何人も抱え、昼ご飯を座って食べる時間もないほど忙しかったらしい。だが現在は、ご主人と奥さんが2人で昔からのなじみの客を相手に細々と営業しており、自分たちの代で廃業することを決めている。

僕が利用し始めてからこの数年で、この理髪店の周辺も道路の拡幅工事などで街並みがすっかり変わってしまった。国立競技場の解体作業開始によって、この地は今、聖火台を造った鋳物の街としてメディアでにわかに脚光を浴びている。だが、2019年に新国立競技場が完成し、20年にそこで東京五輪が開催される頃、「キューポラのある街」と呼ばれたこの街が人々の記憶のかなたへさらに遠ざかっているとしたら、さびしく哀しい。

◆「あの時」に思いをはせ、「ここで」を実感

『東京 あの時ここで-昭和戦後史の現場-』(共同通信社編、2008年、新潮文庫)は、共同通信東京支局が戦後60年にあたって企画した全40回の連載で、05年4月から加盟各社に配信された記事を一冊にまとめたものだ。戦後の首都で起きた事象を取り上げ、関係者の話を交えながら回顧するとともに、舞台となった街や場所の変遷を描いた昭和東京のスケッチである。

戦後69年。僕らの世代が誕生する前の出来事も多く含まれているが、写真でしか見たことのない終戦直後の焼け野原の廃墟(はいきょ)と化した東京といま歩く東京の劇的な変化、その一方で変わらぬもの、その名残を残すものがふんだんに盛り込まれ、「あの時」に思いをはせ、「ここで」を実感できる。

本書にはもちろん、国立競技場も一項目として取り上げられている。それには、マラソンで銅メダルを取りながらメキシコ五輪を半年後に控えた68年(昭和43年)に自死した円谷幸吉選手の悲劇も添えられている。

昭和の歴史を事件に限定し俯瞰(ふかん)してたどるなら、『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(佐々木嘉信著、産経新聞社編、2004年、新潮文庫)がおもしろい。警視庁捜査一課勤務30年の名刑事・平塚八兵衛が、昭和史に残る大事件の捜査現場を自らの語り口で極めて詳細に話している。徹底した捜査で誘拐犯を自供へ追い込んだ吉展ちゃん事件から、帝銀事件、下山事件、そして未解決に終わった3億円事件まで、名刑事平塚の貴重な証言と推理が盛り込まれており、報道によるバイアス(偏向)の恐ろしさも改めて実感する。

なお、東京オリンピック開催前年の63年に東京・下谷で起きた吉展ちゃん事件については、本田靖春の名著『誘拐』(1977年、ちくま文庫)がくわしい。文藝春秋読者賞と講談社出版文化賞をダブル受賞したノンフィクションの傑作の一つとされ、『不当逮捕』(1983年、講談社)と並ぶ本田の代表作である。

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