п»ї 人生に彩りを与えてくれた名作の数々『えいがと私』第2回 | ニュース屋台村

人生に彩りを与えてくれた名作の数々
『えいがと私』第2回

7月 04日 2014年 文化

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マレーの猫

エネルギー関連業界で30年以上働いてきたぱっとしないオヤジ。専門は経理、財務。実務経験は長く、会計、税務に関しては専門家と自負。2012年からマレーシアのクアラルンプールに単身赴任中。趣味は映画鑑賞、ジャズ、ボサノバ鑑賞、読書。最近は浅田次郎の大ファン、SF小説も

マレーシアでの単身駐在期間が長くなるにつれて、最近は趣味や自分の過去について時々思い巡らすことが多くなってきた。これから書く話は、私の全く個人的な趣味の話であり、映画が自分の人生にどのような影響を与えたかということについての回想録のようなものである。今回は「えいが(映画)と私」の第2回として、私の大学生時代から30代半ばごろまでの間に見た映画について、私の思いを書かせていただく。

◆サラリーマン社会に通底する「仁義なき戦い」

大学入学後は、高校時代とは通学ルートが変わってJR(当時は国鉄)新宿駅経由となったため、渋谷に行く機会が減ったことや、映画以外の多くのことに興味を持つようになったためだったと思うが、映画を見る回数は高校時代と比較してかなり減っていったように思う。

無論全く見ないということはなく、ヒットした作品だけは見ていたが、洋画については当然ロードショー館ではなく、新宿に2軒ほどあったロードショー落ちの洋画を2本、3本立てで上映していた映画館に見に行っていた。ただ当時でも料金は渋谷の東急名画座や全線座ほど安くはなく、ロードショーに近い金額であった。大学時代に見た洋画で今でも強く印象に残っている作品は「ゴッドファーザー」「エクソシスト」「ジョーズ」「ダーティーハリー」などであった。

大学時代は今までほとんど見なかった邦画、それも東映の「仁義なき戦い」のようなやくざ映画を見るようになった。同映画は1973年に公開されたが、確か1本立てではなく何か別の邦画との2本立てで公開されたと記憶している。

この作品は従来の鶴田浩二や高倉健などが演じる義理人情に厚いやくざが、弱きを助け悪いやくざや悪人を懲らしめるという内容の作品ではない。実話に基づいた映画であり、決して義理人情に厚いやくざが主人公というわけではなく、とんでもない親分に仕えることとなったやくざを、菅原文太が好演している作品である。

この映画は通常日本の暗黒社会の一戦後史として捉えられているが、青春映画であるとも言えるし、またある意味、殺し合いの部分を除けば、一般社会でも見られる様々な人間模様を描いた作品とも言える。

この映画は広島に実在したやくざ、美能幸三氏が服役中に自分自身の行動に関して事実と違ううわさを立てられたことに憤慨し、広島で起きた抗争事件の経緯を克明に刑務所内で書き上げ、その手記を基に作家の飯干晃一氏が「週刊サンケイ」に連載した「仁義なき戦い」を映画化したものであった。

そして深作欣二監督がメガホンを取り大ヒットしたので、彼の出世作とも言える作品でもある。その後数年間で「仁義なき戦い 広島死闘篇」「仁義なき戦い 代理戦争」「仁義なき戦い 頂上作戦」「仁義なき戦い 完結篇」が連続して制作され、五部作となる。

ただ私が初めてこの映画を見た時は、今まで見慣れていた洋画と比較して何となくスクリーン全体から受ける印象が汚いというか、内容についてもやくざを題材にはしているが、アメリアカ映画の「ゴッドファーザー」などから受ける印象とはかなり違うものを感じた。また正直言って、見終わったあとに無駄な金を使ってしまったという後悔の念を持ったのも事実であった。

ただ良く考えれば、「仁義なき戦い」は敗戦後の日本の広島が舞台であり、また「ゴッドファーザー」のアメリカと情景や登場人物が極端に違うのは当然なのだが、洋画ばかり見てきた私にとっては、俳優が西洋人ではなく日本人であるため、映画全体から受ける印象が洋画と極端に違っていた。また日本が舞台なので余りに洋画と比較して現実味があり、洋画のように別の世界へ旅したような気持ちにはなれず、暗澹(あんたん)とした印象だけが残る映画であった。

その後連続して5本全て見たが、見終わるたびに何だか無駄金を使ってしまったと思ったものである。これは洋画と邦画のロードショーの料金が全く同じなのに、見終わった後の感動といったものが、私自身は邦画の場合洋画と比較して弱いというか、あまり強く感じられない場合が多かったのでそのように思ったのである。ただこれは私の全く個人的な趣味嗜好(しこう)なので、洋画より邦画の方が好きでより感動を受けるという方もいらっしゃると思う。

ただ、この「仁義なき戦い」シリーズは、私自身が学生時代は人生経験が極端に少ないためそのように感じたのであるが、長ずるに及んで作品に対する印象も変わり、今では内容的にはとても示唆に富んだ作品であるという印象を持っている。

なぜかというと、駄目な子分や子分の裏切りで苦労する親分の話は良くあるが、親分自身に問題がある(敵対する悪役の親分は別にして)ために子分が苦労するというか命まで失いかけるという作品はそんなに多くないのではないだろうか? つまりそれまでの日本の任侠(にんきょう)映画では、親分は人間的にも能力的にも優れているので親分になっているという先入観があったのだと思う。これは一般社会でも同じことが言えると思うが、いかがであろうか?

社会的に地位が高い人は、人物、能力、識見共に卓越したものがあるのでその地位にいると考えられるのが一般的であるし、確かにそういう人も多い。だが、人間性や能力に問題があっても高い地位にいる人間も散見され、サラリーマン社会においても同じようなことが言えると思う。ただその場合、各人の立ち回り方がとても重要で、立ち回り方によって結果が大きく違ってくるということを強く示唆している映画だと、私自身は深く感じたのである。

就職直後の2年間は地方に勤務したが、当時赴任した地方の映画館では東京と違って洋画でも邦画でもロードショーは一本立てということはなく、2本立てで上映されていることに驚いた。現在は地方もシネコンになっているので、2本立てということはないと思うがいかがであろうか?

◆アル・パチーノとロバート・デニーロ

学生時代から30代半ばごろまでに見た洋画の中でとにかく深く印象に残っているのはフランシス・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザー PartⅡ」の2作品である。

アル・パチーノは両作品に出演しているが、ロバート・デニーロは「ゴッドファーザー」のマイケル(マーロン・ブランドの息子役でアル・パチーノが演じた)役の募集に応募したが落とされたそうである。

「ゴッドファーザー」は1973年のアカデミー賞で作品賞を受賞(同時にマーロン・ブランドが主演男優賞、また映画の脚色賞も併せて受賞)したが、続編の「ゴッドファーザー PartⅡ」も75年に再度アカデミー賞作品賞を受賞した。現在に至るまで続編が再度作品賞を受賞したのはアカデミー賞史上唯一のことであり、それだけアメリカ国民にも強い感動を与えたと言えるのではないだろうか? 私自身は「ゴッドファーザー PartⅡ」の出来栄えを見ると、むしろこの続編の方がより優れていると感じるのだが、そのような感想を持ったのは私だけではないと思っている。

2人ともこの作品をきっかけにスターダムにのし上がっていく。ロバート・デニーロは「ゴッドファーザー PartⅡ」での好演でアカデミー賞助演男優賞を受賞し、76年の「タクシードライバー」を経て80年に「レイジングブル」でアカデミー主演男優賞を受賞し、その後も順調な俳優人生を送っていくのである。

それに引き替え、アル・パチーノは「ゴッドファーザー」後脚光を浴び数々の作品(「狼たちの午後」や「スカーフェイス」など)で主役を演じていくが、徐々に評価が下がっていき、その後80年代に入ると約10年近い低迷期を経験するのである。

ただその後復活し、92年に「セント・オブ・ウーマン」で念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞する。アル・パチーノはロバート・デニーロよりは数歳年上で、2人ともイタリア系アメリカ人ということで比較されることも多いが、両者とも優れた俳優であり、存在感のある俳優であることは皆さんも認められることだと思う。

ただ私としては、アル・パチーノは西洋人としては背が低いが、とにかくその表情が素晴らしく、また若干ダミ声であることが相乗効果を生み、ハンサムではあるがその表情には哀愁が漂い、スクリーンに現れるだけで強く引き付けられる魅力を強く感じる。

それに比べると、ロバート・デニーロは表情から受ける印象という面ではアル・パチーノより弱いものを感じる。しかし、出演作品のために体重を減らしたり増やしたり、また「ゴッドファーザー PartⅡ」に出演する時にはイタリア語を完璧にするために長期間イタリアに居住したりと、演じる人間に近づくための努力は尋常ではなく、それはそれで役者魂を強く感じるのである。これは私自身の2人に関する個人的な評価なので、私と全く違う印象を持っておられる方もおられるかもしれない。

30代半ばまでに日本で公開された作品で、その他記憶に残っている作品は84年公開の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」であり、「ジョーズ」「ロッキー」「レイダース(失われたアーク)」「ポセイドンアドベンチャー」「オーメン」「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「ターミネーター」「エイリアン」「E.T.」などである。

ただ、私は82年(昭和57年)夏から86年(昭和61年)春ごろまでの約4年間海外駐在をしており、その間に日本で公開された映画は帰国後ビデオで見ることになった。個々の作品に関しての私の感想などを書き始めるととても短時間では書ききれないので、今回は差し控えることとしたい。

◆邦画と宮崎駿の独自の世界

邦画について今思い起こすと、72年(昭和47年)~88年(昭和63年)の間に見た映画で記憶に残っているものは前述の「仁義なき戦い」シリーズや「砂の器」「幸福の黄色いハンカチ」以外はあまりなく、「人間の証明」「八つ墓村」「悪魔が来たりて笛を吹く」なども見たが、やはり洋画と比較すると、どうしても印象が薄いのである。

なお、私が海外駐在していた84年(昭和59年)に、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」が日本で公開されてヒットしたが私は見ることができず、帰国後ビデオで見ることになった。ただこの時点で宮崎アニメは評判にはなったが、それほど大きなものではなかったそうである。

その後「魔女の宅急便」で邦画興業成績第1位を獲得してから以降、宮崎駿は国民的映像作家としての地位を確立して、その後更に世界的映像作家の地位を不動のものにして現在に至っている。私自身は、宮崎アニメはいわゆる邦画の範疇(はんちゅう)には入れておらず、世界的に考えても独自の宮崎ワールドを築いたと考えており、日本が生んだ世界に誇れる映画であると思っている。作品によって若干の出来不出来はあるにせよ、宮崎アニメを見ると私自身は別世界へ旅ができるのであるが、皆さんはいかがであろうか?

長々と私の趣味である映画について書いてきたが、これ以後の映画とのかかわりについては改めて書いてみたい。

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