п»ї 私はタイ通貨大暴落をこうして乗り越えた『ものづくり一徹本舗』第19回 | ニュース屋台村

私はタイ通貨大暴落をこうして乗り越えた
『ものづくり一徹本舗』第19回

7月 25日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

1997年7月に起きたアジア通貨危機に起因するタイバーツの切り下げは、対米ドル、対円に対してバーツの価値がほぼ半減するという大暴落であった。つまり、これまでの借金は2倍に膨らみ、貯金は逆に半減した。それも一夜(実際は数か月であるが、実感は一夜)にしてである。今回は、タイバーツの大暴落に直面した時にタイ現地法人の社長だった私の対応と、その時に得た教訓について紹介したい。

◆日本出張時に届いたバーツ切り下げの第一報

一昔前になるが、71年のニクソンショックによって金と貨幣の交換が停止され、金本位制が崩壊した。日本では戦後、1ドル=360円の交換レートだったがこれが1ドル=308円に一挙に切り上げとなり順次、変動制に移行していった。ニクソンショックはこのように円の大暴騰現象を起こしたが、そこに至るまで日米間で協議を重ねて施行された。しかし、タイバーツの急激な下落は、一般国民には全く寝耳に水の話であった。

タイバーツの切り下げが行われた97年7月1日に豊田合成本社(愛知県清須市)で海外拠点報告会があり、私は日本に出張してこの会議に出席していた。この会議の最中に、タイ現地法人の経理部長から電話で第一報を知らされたのである。

私はこの海外拠点報告会で「95年に立ち上げた豊田合成タイランドはこれまでに、当初作成した5か年計画をはるかに上回る売り上げを計上。利益も5年で黒字化を計画していたものが3年で黒字化を達成出来そうです」と発表する算段であった。タイからの連絡を受けて、会議もそこそこに直ちにタイへ戻り、状況把握に努めるとともに今後の対応を図ることにした。

タイに帰任してみると、これから大きく発展するであろうタイが、いきなり経済危機に直面してしまうことになり、国内はもとより、タイへ進出した多くの企業全てが大きな痛手を被ることとなり、全土が上を下への大騒動になっていた。

当時、豊田合成タイランドの従業員はまだ300人前後であった。タイの自動車生産台数は96年には56万台となり、100万台も夢でないとの声が聞かれるようになった時代である。私たちもそれに備えて、設備の増強や従業員の増員と着々と手を打っていた。しかし、98年には一挙に16万台に激減する。実にわずか2年間に3分の1以下の水準まで落ち込んだのである。日本本社からは増強対応の即時停止ばかりか、従業員の解雇や日本人出向者の減員まで指示が出された。タイに進出した日系企業の中でも耐え切れず、タイ撤退を余儀なくされるところも出たくらいであった。

◆設備や材料を現地調達し生産拠点を移す

そんな情勢の中でなんとかこの危機を乗り切る方法はないものかと思案をめぐらし、タイ国トヨタ自動車の村松吉明社長(当時、後にトヨタ自動車常勤監査役)に相談に行った。

「タイバーツが下落したということは、要はタイの人件費が日本から見れば半減したということです。また、設備や材料の現地調達が進めば、輸出競争力はさらに高まります。この未曽有の危機から逃れるためには、日本サイドでタイから買えるものがあれば積極的に買ってもらう必要があります。日本のトヨタ自動車から各サプライヤーに対してこのことを伝えていただき、ぜひ我々をサポートしていただけないか」と具申させていただいた。村松社長も全く同じ思いでおられたようで、早速行動を起こされ、トヨタ自動車本社調達部に出向き、タイ国内の状況やサプライヤーの窮状などを訴えられた。

数日後のことである。トヨタ自動車の調達部門担当役員だった近藤詔治取締役(当時、後に日野自動車社長)から、「タイ支援の観点から、タイから輸入出来る商品(品質、価格、量納期で安心できるもの)は現地発注を積極的に進め、当社宛てに申し出てもらいたい。トヨタ自動車も全面サポートする」旨の通達がすべてのサプライヤーの社長宛てに出されたのである。

これを受けて早速、豊田合成の堀篭登喜雄社長(当時)は全部門に対し「豊田合成タイランドを支援せよ。タイから輸入出来そうなものはすぐに検討すること。また製造拠点をタイに移せるものは速やかに移せ」と号令を掛けられたと伺っている。

 私はまず一番に、皮巻きハンドルをタイに移管していただきたいと申し出た。皮巻きハンドルは手作業でしか加工できず、しかも加工時間が40分から60分もかかる代物である(皮巻きハンドルの製造工程については2014年4月11日付の「ニュース屋台村」の拙稿第13回をご参照ください)。

さらにタイでは皮革の調達も出来たので、皮巻きハンドルの製造については日本に比べて絶対的に優位であった。豊田合成本社では当時、皮巻きハンドルを北米から多量に輸入していたので、その半分をタイに譲ってもらうことになった。

また私の古巣である尾西工場(愛知県一宮市)ではかねて、ダイキン工業の室内用エアコンの樹脂成形部品の生産を行い、中国や欧州に輸出していた。この一部をタイで生産するよう取り計らってもらった。ダイキン工業は当時すでにタイで手広く業務展開をされており、また同じ工業団地に立地していたよしみなどから、当社の事情をよく理解していただき、迅速に製造場所移管の許可をしていただいたと聞き及んでいる。今も同社のご厚情に深く感謝している。

◆多くの周りの人に助けられてきた

このようにしてトヨタ自動車ならびに我が豊田合成本社の温かいご支援のもと、豊田合成タイランドは一定の売り上げを確保。結果的に従業員の解雇や日本人出向者の減員も行わずに切り抜けることができた。

繰り返しになるが、こうした苦境を乗り越えることが出来た直接の要因は、通貨危機以降のトヨタ自動車ならびに豊田合成本社のご支援によるものである。しかしさらに遠因をたどれば、豊田合成のタイ進出時にトヨタ自動車やトヨタ車体の方から親切なご指導をいただいたことを抜きには語れない。

あの親切なご指導があったからこそ、アジア通貨危機発生時の豊田合成タイランドは、すでに日本並みの品質と日本に比べて30%以上のコスト低減を成し得ていた。これが出来ていなければ、タイ製品の日本向け製品輸出は間違いなく不承認になっていたはずである。

重大な危機を乗り越えるたびに、多くの周りの人に助けられて仕事が出来ていることに気づく。
   

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