п»ї 70年後の「帰還」『アセアン複眼』第8回 | ニュース屋台村

70年後の「帰還」
『アセアン複眼』第8回

7月 03日 2015年 国際

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佐藤剛己(さとう・つよき)

企業買収や提携時の相手先デュー・デリジェンス、深掘りのビジネス情報、政治リスク分析などを提供するHummingbird Advisories 代表。シンガポールと東京を拠点に日本、アセアン、オセアニアをカバーする。新聞記者9年、米調査系コンサルティング会社で11年働いた後、起業。グローバルの同業者50か国400社・個人が会員の米国Intellenet日本代表。公認不正検査士。

栃木県のJR宇都宮駅から北へ20キロほど行ったところに、関東では珍しいリンゴ栽培の地、石那田(いしなだ)の集落がある。1944年のインパール作戦を戦い、24歳で亡くなった旧日本兵、半田進(はんだ・すすむ)さんの生家があるところだ。先月、ここに半田さんの日の丸が70余年を経て還(かえ)る、という稀有(けう)な出来事に立ち会うことができた。今回は個人的体験をお許しください。

◆インパール作戦と半田さん

本人が戦地から送った手紙などによると、半田さんの所属はインパール作戦(日本軍「ウ号作戦」)を戦った3個師団のうち、第33師団歩兵第214連隊6823部隊。第33師団は、南北のインド・ビルマ(当時)国境に沿うアラカン山脈を流れるカバウ河谷(かこく)から西側へインド制圧を狙った師団で、英軍第4軍(インパール)と戦った。

河谷の山道は同年3月からの作戦の中でも激戦地で、日本軍はここで4か月の間に3万人近い死者を出した。地元の町タム(Tamu/Teimu)からカレミョウ(Kalemyo)などを通るそこは「白骨街道」と呼ばれた(註1)。「敗走し、力尽きた日本兵の死体が累々(るいるい)と横たわり、戦いの最中の五月から始まった雨季は、死体をまたたく間に白骨化させた」(註1)。今でも、まだおびただしい数の遺骨が埋まったままだという。

数か月にわたる作戦のどこで、半田さんが亡くなったのかは定かではない。遺族によると、最初は足を銃弾で撃たれて野戦病院へ入院、治ったと思ったら腕の指を負傷し再入院。傷は治らぬまま再度の出撃命令が下り、それで亡くなったらしい、という。

◆英兵が持ち帰った日の丸

「白骨街道」のタムに英側増援部隊として1944年7月に入ったのが、英領から動員されたアフリカ人主力の第11東アフリカ師団である。そこでの戦闘はすでに集結していたが、街道はとにかくおびただしい数の日本兵の遺体だったという。あまりの惨状に上官は「この戦いと、ここで死んだ日本兵を生涯忘れないように」と、死んだ日本兵が身につけているもの、何か一つでも持って帰るよう指示した。そこにいたのが、若きイギリス人、ロナルド・マーシャル(Ronald Marshall)さんだった。

マーシャルさんは志願兵ではない。徴兵されるまではサックスの演奏で身を立てることを夢見ていたという。第2次大戦から帰還して結婚。妻にもほとんど戦争のことを口にしなかった。戦争中に妻に宛てた手紙にも、戦闘のことが書いてあったのは一度だけ。このタムでの経験だけだった。

そのマーシャルさんが上官の命を受けて持ち帰ったのが、半田さんの日の丸だった。出陣に合わせて親族、知人が寄せ書きした旗には、右上に「半田進君」、右側に「二荒山(ふたあらやま)神社」、複数の半田姓の名前などがあった。しかしこれも、76年にマーシャルさんが亡くなるまで、否、亡くなって以後もほとんど人目に触れることはなかった。

◆転機

日の丸に「転機」が訪れたのは2014年2月。マーシャルさんの妻も亡くなり、旗を受け継いだ息子のアンドリュー・マーシャル(Andrew Marshall)さんに第1子ができた時だった。51歳。「自分が父親になったことの意味を考えると、自分の父親に思いを巡らすことを止めることができなかった」

加えて今年は「戦後70年」。歴史を振り返り、未来を塑性(そせい)する試みはNGOやメディアで盛んになり、それを見ながら考え、父から一度も聞いたことのない戦争を想像した。そして、日の丸を保管してある箱を開け、「これは自分が持っているべきものではない。遺族に返さなければ」と閃(ひらめ)いたという。

それから早かった。友人の筆者を含め、在京の知人らに連絡を取り始めたのが3月下旬。4月に入る頃には宇都宮市石那田町を特定した。彼も筆者も元はジャーナリスト、調べ方は知っていた。

5月23日土曜日朝、筆者とアンドリューは、待ち合わせの都内のホテルで4年ぶりの再会を喜び、そして宇都宮行きの新幹線に乗り込んだ。彼は米国から、筆者はシンガポールから、という感慨深い再会だった。彼は、大きさの割に比較的軽い、黒いビジネスバッグを持っていた。

「この中にあるんだね?」

彼は何も答えずにほほ笑みながら、バッグを2回、軽くたたいた。

宇都宮駅から、半田家を継いだ則夫(のりお)さん(進さんのおい)の車に揺られながら30分。夏は激暑、冬は雪が降る石那田に近づくにつれてリンゴの農園が見えてくる。「僕の父の故郷もリンゴの木が沢山あった」。アンドリューはぽつりと口にした。

◆旗、還る

畑が広がる山間の集落。旧家とお墓で待っていたのは、進さんと15歳違いの末妹、木村マサさんだった。東京で暮らすマサさんは79歳。腰を悪くしたのをおして、宇都宮までやって来た。

半田家には相当量の写真、手紙が残っていた。どれも端はすり切れ、赤茶けていたが、画像も文字も鮮明だった。そうした遺品を前に、涙なしに話はできない。が、話が途切れることはなかった。マサさんもアンドリューも目は真っ赤だった。マサさんにとって最後の兄の思い出は、3歳の時、軍服姿の進さんと一緒に写真を撮った時のことだという。その写真も家に残っていた。

「そろそろいいかな」と訊(たず)ねるアンドリュー。筆者がうなずいたのを確認し、バッグからおもむろに銀色の厚紙製の箱を取り出した。重い空気が部屋の隅々を包む中、彼はゆっくりと旗を広げた。途端、マサさんが泣き崩れてしまった。ハンカチで押さえた口からかろうじて声を振り絞った。

「おかえり」

言葉の重みが、八畳の和室にいる一人ひとりにのしかかった。

半田進さんが亡くなって70年余り(註2)。63歳の則夫さんにも戦争の記憶はない。それでも遺品を目にした遺族の緊張と興奮に満ちた表情は、あの戦争で亡くなった命の尊さを伝えていた。

筆者にとっても、第2次大戦を身近に触れることができた、貴重というにはあまりにも鮮烈な体験だった(註3)。

(註1)『太平洋戦争 日本の敗因4 責任なき戦場 インパール』(NHK取材班編、角川文庫、1993年)。

(註2)進さんの墓には死亡日が「昭和二十年二月十八日」と記されている。遺族によると、軍からの知らせの記録に基づいている日ではないか、ということだが、実際に進さんが亡くなった日付は定かではない。

(註3)アンドリューは筆者の米調査系コンサルティング会社時代の元同僚。今回は、案内兼通訳で筆者を日本に呼び寄せてくれた。また、半田家の皆様にも、余りあるお心遣いをいただいた。双方に、心からの感謝とお礼を申し上げます。

70年ぶりに遺族の元に戻った半田進さんの日の丸。右端がアンドリュー・マーシャルさん=筆者撮影

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