п»ї シャンゼリゼ劇場100年『タマリンのパリとはずがたり』第1回 | ニュース屋台村

シャンゼリゼ劇場100年
『タマリンのパリとはずがたり』第1回

9月 13日 2013年 文化

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玉木林太郎(たまき・りんたろう)

経済協力開発機構(OECD)事務次長。35年余りの公務員生活の後、3度目のパリ暮らしを楽しむ。一万数千枚のクラシックCDに囲まれ、毎夜安ワインを鑑賞するシニア・ワイン・アドバイザー。

今朝起きてみたらパリは秋になっていた。

ストラヴィンスキーは「ロシアの春は乱暴に、ある一時間で始まります。まるで大地が裂けて行くようです。少年時代、毎年最も素晴らしい出来事でした」と回想しているが、パリの春だって夏だってある日突然やって来て、ある日はっきりと次の季節にその座を譲る。

わがアパートの前の大通りのマロニエも、いつの間にか色づいた葉をはらはらと散らしている。

この大通りをゆっくり下ってセーヌ河に行き着くとアルマ橋で、少し入ったところにシャンゼリゼ劇場がある。このモンテーニュ街は、ずっと行くとシャンゼリゼ大通りにぶつかるのだが、劇場のある13番地はシャンゼリゼからはかなりの距離だ。今では最もパリらしい雰囲気の音楽会場の一つだが、ちょうど100年前の1913年3月末に開場した時は、鉄筋コンクリートという新しい技術を使い装飾をできるだけ排した新建築として驚きをもって迎えられた(今の改修されたサル・プレイエルやバスティーユと比べちゃいけません。古いガルニエ宮=オペラ座=に代表されるグラン・ブールヴァール界隈の華やかな社交界の根城であった劇場との対比です)。

◆ルーブル宮に放火した父親と挑戦的な劇場を設計した息子

この新劇場は、「非フランス的」でありむしろ(劇場文化の先進地域であった)ゲルマン的・ベルギー的であると言われたようだが、設計者のオーギュスト・ペレはたしかにベルギー生まれ。しかし、遡るとペレの父親はパリの石工でパリ・コミューンの時にルーブル宮に火を放って死刑判決を下され、それでブリュッセルに逃げたのだという。ルーブルに放火した父親と、40年後にパリで挑戦的な新劇場を設計した息子。フランスの伝統に楯突く一家だなあ。この第二帝政から第一次大戦前後にかけてのフランスは面白過ぎです。

劇場の主ガブリエル・アストリュックもご紹介しよう。バレエ・リュスのディアギレフの(しょっちゅう喧嘩しているが)盟友で、彼らのパリでの初公演(1912年)をプロデュースした際、会場のシャトレ座の一番目立つ二階正面に美しい女優52人を、それもブロンドとブルネットを交互に座らせるという(素晴らしい!)アイデアで世間をあっと言わせた。今も劇場のプルミエ・バルコン席をコルベイユと呼ぶのはこれが由来とか(コルベイユはかごに生けた盛り花のこと)。

自称「外国人好き」のアストリュックは、ルービンシュタインをはじめとして、たくさんの外国人音楽家をパリに連れて来た。昔はこういう「興行師」がいたんですねえ。そのアストリュックが念願のシャンゼリゼ新劇場の?(こけら)落としにした公演が、バレエ・リュスによる13年5月の『遊戯』(ドビュッシー)と有名な騒動になった『春の祭典』である。

◆シャンゼリゼ劇場に通っていた2人の日本人

5月29日の『春の祭典』初演に居合わせた日本人がいたとは寡聞にして知らないが、その頃シャンゼリゼ劇場に通っていた日本人が2人いる。姪とのスキャンダルでパリに逃れていた島崎藤村とモスクワ芸術座などを歴訪した後パリに寄った小山内薫である。

2人は6月に入ってシャンゼリゼ劇場に『牧神の午後』などを見に行っている。最上階の角型の窓のある桟敷で観劇したとあるから、一番安い席である。私も昔、この席からリヒテルの演奏を聞いたことがあるが、すごい距離感と小さな窓越しに聞こえてくる貧弱な音に呆れたことがある。それでも2人はニジンスキーの舞踊に強い感銘を受け、すぐに『ダフニスとクロエ』を見に行っている。藤村は、翌年あの河上肇を誘ってサル・ガヴォー(ガヴォー音楽堂)でドビュッシー自身のピアノ(『子供の領分』など)も聴いている。すごい情景だと思いませんか。

14年7月には第一次世界大戦が勃発し藤村もリモージュに疎開するが、15年には帰国してしまうので、大戦が欧州を如何に変容させたかを目の当たりにすることは無かったが。

日の長いパリの6月、エッフェル塔越しの夕陽を浴びながらアルマ橋を渡っていく古びた服を着た藤村と長髪の小山内薫。パリが最後の輝きを見せた時代に、新しい芸術の誕生と受容(と抵抗)の現場に立ち会った先達に思いを馳せながら、この秋もせっせと100歳の劇場に通うことにしよう。

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