п»ї 田中正造は何を考えたのか、を考えてみる 『ジャーナリスティックなやさしい未来』第90回 | ニュース屋台村

田中正造は何を考えたのか、を考えてみる
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第90回

10月 14日 2016年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

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 コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。

◆歴史的なたたずまい

栃木県佐野市にある日本キリスト教団佐野教会は、1888年(明治21年)に建てられた歴史的なたたずまいを見せている。板張りの床もアーチ型の窓枠も天井の梁(はり)もすべて当時のままで、人が歩くとその重みが板張りの床を伝わって会堂全体に響いてきて、人と共にいる空間を実感させ、それが、ちょっとした安心感のようなぬくもりとして伝わってくる。

同志社大学を設立した新島嚢の弟子である中山光五郎により佐野基督教講義所として設立された教会は、足尾銅山問題で有名な田中正造のゆかりの地としても有名だ。同教会によると「田中正造にキリストの愛を説き、足尾鉱毒事件解決の基本理念を提起し、かつ全国から佐野に集結した人々の精神的支援センターとしての役割も担ってきました」という。

そんな歴史に触れながら、私が訪れた日にはイエス・キリストの最初の殉教者とされるステパノに関する説法が展開されていた。田中正造とステパノ。どちらにも、揺るぎのない信念がある。

◆真の文明とは何か

長く白い髭(ひげ)が印象的な面持ちの田中正造は、1841年(天保12)年、栃木県佐野市小中町で旗本六角家の名主の長男として生まれた。17歳で名主となったが、領主と対立し入獄するなどの苦難を重ねた。

明治10年代から自由民権運動家として、栃木県議員、同議長となり、明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選した。国会では地元の渡良瀬川周辺の農作物や魚に被害を与えていた足尾銅山の鉱毒問題を取り上げたが、国の政策に改善が見られないため、明治34(1901)年12月10日に、田中正造の代名詞となった「天皇直訴」に及ぶことになる。

それでも鉱毒事件は解決に進まず、治水を理由にして消滅される予定の谷中村に居住し、地元農民と反対運動を繰り広げたが、目標は達成できないまま1913年9月4日に死去した。

明治国家が成立し近代国家の歩みとともに噴出した公害問題に立ち向かった社会運動家として知られる田中正造だが、その思想世界は寛容で広い。キリスト教にも学びつつ、同時に人間味あふれるユーモアと弱さもさらけ出しているから面白い。

「真の文明は 山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」

これは田中正造の文明観を示す象徴的な言葉。その立場として「百姓」を貫き、前述の名主や栃木新聞を設立したジャーナリスト、県議会議員、衆議院議員の立場は、役割であって、自分が大地に根差す百姓であることにこだわったのは、深い思想があってこそ。

同時に平和主義者としての主張も一貫していた。日露戦争後に大国ロシアに勝利した高揚感に浸ることなく、武力放棄を訴えた。オランダのハーグで万国平和会議が開かれたことに際し、明治41年に谷中村から東京へ赴き、「日本が世界の前に素っ裸になる、海陸軍の全廃だ、これが弱小国の口から出るのでは、折角の軍備全廃論も力が無いが、大戦勝の日本は軍備全廃を主張する責任がある、いや、権利がある」(田中正造文集、岩波書店)。

それは、18世紀ドイツの哲学者カントが生まれ故郷ケーニヒスベルク(当時の東プロセインの首都、現ロシアの町)に居続けながら「永遠平和のために」として、世界平和を訴えたことを連想させる。

◆聖人の出来損ない

佐野教会の空気は田中正造の威厳とともに、現在運営する方々の温かさがあってか、過ごしやすい雰囲気が漂う。ここで田中正造はどんな思いを巡らせていたのだろう。キリスト教の教えに本格的に接したのは、ある事件の公判中に大アクビをして官吏侮辱罪で重禁固刑を受け東京の巣鴨監獄に服役、新約聖書を初めて通読した1902年とされている。

儒教の思想とともに聖書に大きなインスピレーションを得ながらも、洗礼は受けなかった姿勢をどのように自己分析をしていたのだろうか。キリストの真理実践を求めつつも、自分を「聖人の出来損ない」と評価しているところと、民衆思想が結び付いて、権力に挑むエネルギーになったのではないだろうか。

この出来損ないの自覚は、田中正造の「弱さ」となって様々なエピソードとなって残っている。禁煙を目指しながら死ぬまでたばこをやめられなかった姿、質素な食事に努めながら、おいしいものについつい手を出してしまった反省の記録などはほほ笑ましい。そんな人間味あふれる一面に親近感を持って、この思想家のことを考えて、日本の社会を見つめなおしてみたい。

※『ジャーナリスティックなやさしい未来』関連記事は以下の通り
ソーシャルワーカーは誰でもなれる
https://www.newsyataimura.com/?p=5814

■精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/
■ケアメディア推進プロジェクト
http://www.caremedia.link

■引地達也のブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kesennumasen/

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