п»ї 自動運転車は何馬脳なのか 『データを耕す』第1回 | ニュース屋台村

自動運転車は何馬脳なのか
『データを耕す』第1回

1月 31日 2017年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

在野のデータサイエンティスト。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。職業としては認知されていない40年前から、データサイエンスに従事する。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。

電気自動車は500馬力とか1000馬力のものまであるらしい。騎馬民族は、紀元前から1馬力、1「馬脳」を乗りこなしてきた。4頭立ての駅馬車は、馬の自由度を制限しているので、4馬力1馬脳程度だろうか。2020年には実現するという、加速・操舵・制御を全てシステムが行い、システムが要請したときにはドライバーが対応する「レベル3自動走行システム」の頭脳は、馬の頭脳(馬脳)の何頭分に相当するのだろうか(「戦略的イノベーション創造プログラム自動走行システム研究開発」〈2016年10月20日、内閣府〉、下線は著者)。コンピュータにとっての自然は「データ」であるという、強いデータ主義者の立場から、AI(人工知能)技術の将来展望について考えてみたい。

私はロジャー・ペンローズ(英国の数学者、宇宙物理学・理論物理学者)の『皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則』(みすず書房、1994年)に強い感銘を覚えた。いわばペンローズの味方だけれども、ペンローズのような数学的プラトン主義者ではなく、AIの可能性について真偽を議論するつもりもない。AIは技術思想であって、ゲーム理論を実装したビジネスだと考えている。要するに勝ち負けの問題なのだ。AIが優れた軍事技術であることは確実であり、さらにほぼ全ての知的労働においてヒトがコンピュータに勝てなくなる時代となりつつある。AI技術の将来展望として、真偽や勝敗に限らず、より一般的な意味で「データ」を2値化することの功罪を、肯定的に結論することが「データを耕す」シリーズの着地点となるはずだ。

自動運転車の馬脳を数値化するためにAIの観点から考えてみよう。
(1)目的地を理解する能力は、すでにカーナビで実現されている。クラウドコンピュータに集積されたデータから、さらに高度なリモートコントロールが可能であるとしても、馬脳というからには車に搭載されたコンピュータの自律的な能力を評価したい。GPSの情報は強力で正確だ。しかしこれは感覚器官であって、脳の機能とは言い難い。「データ」に依存している部分を除けば、目的地を理解する能力としては1馬脳以下で十分のように思える。もちろん、「データ」を利用する能力はコンピュータと馬では比較しようもない。「データ」はコンピュータにとっての自然であって、馬に人参を与えるようなものだ。

(2)車を操縦する能力は、馬も多くの筋肉をミリ秒単位で制御していることを考えると、車に搭載されているコンピュータと馬ではいい勝負のように思われる。雪道で急ブレーキを踏んでも、熟練ドライバーのような正確なブレーキ操作をするABSなど、すでに大きな進歩が認められるが、やはり1馬脳程度で十分のように思える。

(3)危険を察知して回避する能力は、今後急速に鍛えなければならない。2025年の市場化をめざす最高性能の「レベル4完全自動走行システム」では、事故の責任はシステム責任となるらしい。しかし私見では、この反射神経こそ動物が進化の過程で研ぎ澄ませてきた、脳の重要な能力であるのに、AIでは重要視されていない。問題は何を「危険」と判断するかということだ。レベル3自動走行システムで下線を引いた部分「システムが要請したときには」は、危険を察知するのではなく、容易に自動走行ができない状況のことを言うのだろう。システムの責任は製造企業の責任ということで、結局保険会社の査定がどうなるかというだけの問題で、AI技術として本気で取り組んでいるようには思えない。そもそも自動走行システムは米国の軍事技術とした誕生した。危険を察知して回避するのではなく、危険を顧みず目的地に進行し、敵を殺害する能力が求められていた。AI技術により交通事故死が激減するという期待を込めて、現状は0.1馬脳程度と評価したい。

「データ」はコンピュータにとっての「自然」そのものであり、「神」はプログラムを正当化するアルゴリズム(計算手順)と考えることで、デカルト、スピノザ、ライプニッツの時代までさかのぼり、「データを耕す」ことにしよう。

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