『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(1)政党政治の成立
『視点を磨き、視野を広げる』第7回

8月 08日 2017年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに

今年の春、萩(山口県)を訪れる機会があった。世界遺産に登録された幕末期の反射炉跡や造船所跡(*注1)を見学した際に、「2018年 明治維新150年」というポスターを目にした。「明治維新150年」という「区切り」と産業革命の萌芽といえる遺跡は、明治維新がもつ「断絶(非連続)」と「連続」を象徴している。

明治維新は、「江戸時代という旧い時代(前近代)が終わり、新しい時代(近代)が始まった時」と理解されている。1868年に「前近代」と「近代」の歴史の「断絶」があったという見方である。一方、近代化の象徴である「産業革命」は、長州藩だけでなく他の雄藩においても、幕末期に既にその萌芽が見られたという事実は、歴史の「連続」を示す例といえる。明治維新による国民国家の誕生と産業化は、日本の「近代」の始まりを告げるものであったが、それはまた歴史の「連続」と「非連続」の交錯の中で展開されていったのである。

前稿まで資本主義がもつ問題点を「近代」という時代背景の中で考えてきた。本稿では、日本の「近代」がもつ意味を考察したいと思う。なぜなら、私たちが所与のものとする現代の「豊かな社会」は、日本の「近代」の成果であり、その「近代」の意味を問い直すことが、現代社会の問題点の解決の糸口を知る方法ではないかと考えるからだ。

◆本書について

今回のテーマの道標とするのは、岩波新書から今春出版された『日本の「近代」とは何であったか―—問題史的考察』である。著者の三谷太一郎氏(*注2)の専門は日本政治外交史であり、本書の「あとがき」にあるように、「日本近代の総論」を意図して書かれたものだ。

実際、「総論」というにふさわしく、概念的把握は明快で一貫性があり、論点は納得性に富んでいる。しかしながら副題として「問題史的考察」とあるように、一般的な日本の近現代史の説明とは少し異なる視点が提示される。一筋縄でいかない本なので、何回かに分けて考えていきたいと思う。

◆本書の論点

本書は書名の通り「日本の近代の特質を明らかにすること」を論点としている。「近代」とは、産業の機械化・大規模化を基盤とした民主主義と国民国家の形成であり、それにともなって生じた政治・経済・社会全体の変化をさす。「近代」をいち早く達成したのはヨーロッパである。明治維新の指導者たちが、日本の近代化を目指したときに、当時の最先進国であったヨーロッパをモデルにしたのは当然である。

当時のヨーロッパは、産業革命から一世紀たち、「近代とは何であったか」という理論的省察(せいさつ)が始まっていた。歴史の省察という知的活動は、「歴史は発展する」と考えるヨーロッパ近代文明の特質を表していると思う(*注3)。そうした中から福沢諭吉も大きな影響を受けたとされる19世紀後半の英国のジャーナリスト、ウォルター・バジェット(*注4)に焦点を当て、彼の「近代」概念の核である「議論による統治」を本書の分析のための基本概念とする。

◆バジェットの視点としての「議論による統治」

バジェットは、ヨーロッパの「近代」を分析し、言論の自由のもとでの「議論による統治」の確立を基本的な「近代概念」とした。そして「近代」と「前近代」の断絶と連続を重視する。断絶される「前近代」の要素とは、「慣習の支配」であり「議論による統治」とは相いれない。一方、古代ギリシャには「慣習の支配」と対立する「議論による統治」の先駆的形態が形成されており、それは権力の分割による「自由」によって成立し得た。これが「近代」における「議論による統治」を生み出す「自由」と歴史的に連続していると考えるのである。本書は、日本の「近代」は、この「議論による統治」を実現し得たのかを基本的論点としている。

本書は四つの章「政党政治」「資本主義(貿易)」「植民地帝国」「天皇制」から構成される。本稿では、最初の「政党政治(なぜ日本に政党政治が成立したのか)」を見ていきたい。

◆「なぜ日本に政党政治が成立したのか」の要点

論争的な表題である。なぜなら、戦前の政党政治は短期間(*注5)しか続かなかったことから否定的評価が一般的であるのに対し、「なぜ他の東アジアでは形成されなかった複数政党制が日本に成立したのか」という視点に重点を置いているからである。明治憲法下の立憲主義を肯定的に評価し、「立憲主義」は明治憲法下の体制原理であったとするのである。なお、立憲主義とは、「議会制、人権の保障、権力分立制による政治権力の恣意的行動を抑止しうる制度的保障に基づく政治原理」と定義される。

重要と考えるポイントを本書に基づいて以下まとめてみた。

●なぜ日本に「近代」概念の象徴ともいうべき「立憲主義」が成立したのか

幕藩体制には、「権力抑制均衡メカニズム」が備わっていた。それは「合議制」であり、「権力分散」の制度化である(*注6)。従って明治維新を期に「立憲主義」がヨーロッパから新たに導入されたのではなく、既に幕藩体制下の「合議制度によって支えられている分権体制」という基盤があったのであり、それによって初めて「立憲主義」が成立し得たとする。

さらに、幕府による「権力分立」と「議会制」の提案にみられるように、支配の正当性は、幕末期に次第に「公儀」から「公議」に移行していった(*注7)。これがその後の「立憲主義」成立の土壌を形成していく。

●なぜ明治憲法は分権的性格を持つのか

明治維新の理念は「王政復古」である。これは、江戸時代のような「幕府的存在」を排除することを意味した。そのための装置が、憲法上の権力分立制であった。分立制のもとでは「いかなる国家権力も単独では天皇を代行し得ない」とされたのである。

明治国家の設計者であった伊藤博文は、議会が幕府化して権力を持つことを恐れ、明治憲法の制定にあたり、議会制を基盤とする政治勢力の台頭抑止を考えた。これは米国の憲法起草者たちが至高の価値とした「自由」を、議会多数派の脅威から守ろうとしたのと同様の「反政党的」問題意識であった。(*注8)

なお、伊藤の「覇府排斥」(*注9)は、他の国家機関に対しても適用され、軍部も例外ではなかった。従って、「統帥権の独立」も権力分立性のイデオロギーであり、軍事政権正当化のイデオロギーではなかった。

●天皇主権の意味

明治憲法下の天皇主権は一見集権的、一元的に見えるが、実態は分権的で多元的な国家機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動していた。従って、権力分立制は、立法と行政を連結する政党内閣制を、本来的に排除する志向を有した。

●明治憲法の分権的性格の欠陥

明治憲法には、権力を統合する制度的主体が無いという欠陥があった。なぜなら、各国務大臣は天皇に直結(大臣は天皇を輔弼〈ほひつ〉)しているため内閣総理大臣の統率力は弱く、また議会によって選出されていない(天皇が任命)ので、議会の支持が万全ではなかったのである。

従って体制を統括する非制度的な主体(幕府的な存在)を必要とした。この役割を担ったのが「藩閥」であった。藩閥のリーダーたちが事実上天皇を代行する元老集団を形成して、権力主体間の均衡をつくり出したのである。

しかし、「藩閥」の体制統合機能は、衆議院を掌握できないという弱点を有していた。一方、衆議院を支配する「政党」の勢力拡大には限界があった。こうして19世紀末ごろには両者の相互接近が起きる。この過程で藩閥組織の希薄化が起こり、藩閥の政党化が進むとともに、政党の藩閥化が進む。

この結果、政党の幕府的存在化が起きるのである。これが日本における政党制成立の意味である。明治憲法の分権的性格が、政党政治を生み出したとするのである。

●なぜ政党政治は終りを迎えたのか

政党政治は1930年代初めの諸事件(満州事変、5・15事件)により権威が揺らぎ、国民の支持を失っていく。こうした「デモクラシーの危機」を前に、蝋山政道(*注10)による「デモクラシー」なき「立憲主義」としての「立憲的独裁」という概念が登場する。これは、「立憲主義」の枠組みを前提としながら、議会に代わって「権威を持って決定しうる組織」(専門家支配の組織)をつくり出すための概念である。

本来「反政党的」分権主義の明治憲法下、非制度的統合機能(藩閥)との融合により図らずも成立した政党政治は、「立憲主義」概念の変質とともに終焉(しゅうえん)を迎えたと解釈するのである。

◆本書を読んで考えたこと

●日本の「近代」の成果としての立憲主義を歴史の「連続」に見る
本書は、歴史の「連続」に焦点を当てた歴史把握が特徴である。歴史の「連続」とは、歴史上の出来事を時代の「断絶」として「非連続」的にとらえる見方に対し、その前の時代との関連性・連続性に焦点をあてることで、歴史上の出来事を過去から続く流れの中でとらえ直す。

例えば、本稿「はじめに」で述べたように、明治維新は、江戸時代という旧い時代が終わり(非連続)、新しい時代(近代)が始まったという一般的認識は、出来事の歴史的意義を、より明確に理解するのに適している。これに対し、江戸時代の社会に明治維新を準備する要素を見いだすことは(*注11)、「連続」を重視した歴史把握といえる。

本書においては、後者の視点から、幕藩体制の中に明治期の立憲主義への「連続」を見るのである。幕藩体制には「権力抑制均衡メカニズム」としての「合議制」と「権力分散」の制度化があった。また、文化面では、権力分立制と議会制の概念の基盤となる知識人たちのコミュニケーションネットワークが、ヨーロッパと同じように江戸期の日本に存在したとする(*注12)。

こうした政治的・文化的基盤の上に明治期の「立憲主義」が成立し得たのであり、そこから政党政治が生み出された。本書では、これを日本の「近代」の最大の成果と評価している。他の東アジア諸国の近代化との決定的な違いを歴史の「連続」に見いだすのである。

歴史とは、「もう決まってしまったことをいうのではなく、ある出来事を選び出し、他の出来事と関連付けながら伝えること」(*注13)という言葉を思い出した。歴史は「連続」の中に「非連続」の要素を内包し、「非連続」の背景に「連続」が隠されているが、何と何を関連つけるかで歴史の認識は大きく違ってくるのである。時として、都合が悪い部分を意図的に忘却するために「非連続」を強調し、あるいは実体を失ってしまった「連続」を正当性の根拠としてきたのだ。それゆえに歴史を認識する難しさを常に念頭に置いて、疑いながら思考する姿勢を崩してはならないと思う。

●政党政治の終焉がもつ意味と立憲主義の危機

日本の「近代」の成果である政党政治は、なぜ終わったのか。一般的な説明は、「政党の無能、腐敗により民衆の離反を招いて政治不信が広がる。そこに民衆が求める清新で力強いイメージを持った軍部が台頭し勢力を拡大していく」(*注14)というものだ。政党は自壊し、代わりに軍部が登場したという解釈だ。

しかし本書の答えは、明治憲法は本来「反政党的」であり、立憲主義概念の変質とともに終わったとする。日本近代の「概念的把握」という本書の目的に沿った「解」である。本来非制度的存在であった政党政治は、それを生み出した立憲主義が、自由な議論に立脚しない「立憲的独裁」に変質していったことによって存在基盤を失ったと考えるのである。

では「立憲的独裁」とは何か。それは議会制を否定した立憲主義であり、「もはや立憲主義ではない」としつつ、「(蝋山は)ナチス・ドイツ、英国の挙国一致内閣、米国のニュー・ディール政策を含む1930年代の欧米先進国共通の現象だと考えていた」とする。本書ではこれ以上詳しい説明がされていないのであるが、いわゆる「総力戦体制」(*注15)に通じる概念だと思う。

本書は、日本近代の「概念」としての立憲主義分析を目的としており、立憲主義に反する性格を持つ「総力戦体制」の問題を論じていない。ただ、立憲主義的な明治国家を日本近代の成果と評価する著者の立場は、立憲主義の変質を企図する立憲的独裁に対しては批判的であると言っていいだろう。それは、本章の最後の部分で、現在の日本の政治状況の延長上に、専門家集団による「立憲的独裁」の危険の可能性を見て警鐘を鳴らしていることからも明らかである。

そうした立憲主義の危機という観点から現在の世界を見ると、バジェットの母国の英国でのEU(欧州連合)離脱国民投票、米国のトランプ政権誕生といった現象は、「議論による統治」というデモクラシーの本質が失われつつある兆候ではないかと思えてくる。それはまた1930年代に見られた経済ナショナリズムの台頭による国家主義の時代と同じ状況が再び現出されるのではないかという懸念に通じる。この点については、次稿の「資本主義」でさらに考察したい。

次回は、『日本の近代とは何であったか』の第2回として「資本主義」を見ていきたい。

<参考図書>
『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』三谷太一郎著 岩波新書、2017年

(*注1)萩藩の反射炉(1856)と恵美須ヶ鼻造船所跡(1856)は「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されている。萩反射炉は、佐賀藩の築地反射炉(1850)を模して造られた。(出所:萩市観光協会公式サイト)

(*注2)三谷太一郎(1936〜)は、日本学士院会員、東京大学名誉教授(政治史)。同氏は「立憲デモクラシーの会」で「なぜ日本に立憲主義が導入されたか」と題して本書の要約を講演している(http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/activities 参照)。

(*注3)「歴史は発展する」と考えるヨーロッパ近代文明に対し、中国文明においては「歴史は繰り返す」ものとして認識され、理想は常に過去(尭・舜の時代)にあると考える。

(*注4)ウォルター・バジェット(1826〜77)の代表作は福沢諭吉が大きな影響を受けたとされる『英国の国家構造』(1867年)、『ロンバート・ストリート』(1873年)など。英国の金融市場を分析した『ロンバート・ストリート』は、前稿でご紹介した松原隆一郎氏(東京大学教授)の『経済政策』の中でも紹介されている。

(*注5)政党政治は「政治の運営において、政党が主導的な役割を担う政治のあり方」(出所:コトバンク「世界大百科事典」)をいう。本書では、日本の政党政治は、選挙で多数派となった三派連立の加藤高明内閣の成立(1924)から犬養毅首相(1855〜1932年、立憲政友会)が「5・15事件」で暗殺された1932年までの約8年とする。

(*注6)江戸期の「合議制」とは、老中、若年寄といった主要ポストが複数の要員によって構成されたことを指す。目的は特定勢力への権力の集中の抑制であった。「権力の分散」の制度化は、身分、地位といった名目的権力と実質的な権力の制度的分離をいう。また、福沢諭吉は、幕藩体制の儒教イデオロギーを批判したことで知られているが、その福沢が、幕府の権力分散メカニズムを高く評価していたということが紹介されている。

(*注7)本書では、幕臣で徳川慶喜のブレーンであった西周(にし・あまね)が、欧米を範として「三権分立案」を提案したことを取り上げる。また「議会制」は、諸大名の意見を「衆議」として取り込むというものであった。これによって支配の正当性の根拠が、「公儀」から「公議」に移行していったとする。

(*注8)本書では、米国の憲法(1788年憲法)は高度に権力分立的であったが、日本と同様に非制度的な体制の統合機能を必要とし、政党がその役割を担ったとしている。

(*注9)「覇府排斥」とは、天皇制という権威のもとで、実質的な権力を掌握した江戸幕府のような存在を排斥することを指す。

(*注10)蝋山政道(1895〜1980)は政治学者・行政学者、政治家。社会民主主義の提唱者。(出所:Wikipedia)

(*注11)山本七平(1921〜91)は『日本資本主義の精神』において日本的プラグマティズムの起源を江戸期の思想家石田梅岩(いしだ・ばいがん)の「石田心学」(石門〈せきもん〉心学)に求めた。

(*注12)本書では、幕末期の権力分立制と議会制の観念の母胎となった政治的コミュニケーションのネットワークは、市民レベルでの文芸的公共性のネットワークから発展したとする。そしてそれは、森鴎外の「史伝」といわれる江戸期の文人・学者を題材にした作品群に描かれているとして丹念に紹介している。

(*注13)成田龍一著『戦後史入門』参照。成田龍一(1951〜)は日本女子大学教授で近現代日本史専攻。

(*注14)成田龍一著『大正デモクラシー』参照。

(*注15)「総力戦体制」とは、「近代戦争は国家の総力をあげた戦争(総力戦)であり、全国民と物的資源を有機的に組織,統制,動員し,一元的戦争指導体制構築(国家総力戦体制)が必須」(コトバンク「世界大百科事典」から要約)とする思想である。蝋山は、議会の権限を制限し政府に国民動員の権限を付与するという意味で、ドイツも英国も米国も同じだという考え方をしているのである。

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