『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(3) 「植民地帝国」
『視点を磨き、視野を広げる』第9回

10月 04日 2017年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに

現在の私たちが抱える諸問題の原点は、日本の「近代」の始まりにあると考え、この春に出版された三谷太一郎氏の『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(岩波書店、2017年)を読んでいる。同書は、日本の「近代」の概念把握の試みであり、その視点として「政党政治」「資本主義」「植民地帝国」「天皇制」の四つが示される。本稿では、「植民地帝国」の視点から、日本近代を考えていきたい。

欧州の難民問題にみられるように、旧宗主国にとって、過去には繁栄の象徴であった植民地は、現在では負の遺産となっている。日本にとっても、現在の中国や韓国との関係の背景に、こうした負の遺産の存在を意識せずにはおられない。本書は、日本は近代化の過程でなぜ、どのようにして植民地帝国となったのかの分析をテーマとしている。日本の「近代」の意味を問い直し、現代の私たちにつながる論点を見出したいと考えている。

◆「植民地帝国」の要点

●日本はなぜ植民地帝国となったのか

日本の植民地帝国への出発点は、日清戦争の勝利(1895年)によって手にした台湾、澎湖諸島植民地化であったが(*注1)、まだ「無自覚の植民地帝国」であった。しかしその後の独露仏の三国干渉(*注2)によって、国民全体が深い挫折感を経験し、その反発から自覚的な植民地帝国(植民地を増やしてヨーロッパ列強に伍していく)となっていく。原点は「ナショナリズムと結びついた植民地帝国」であり、そのナショナリズムが国民国家の基盤となる国民意識を形成していく。日清戦争勝利と三国干渉が1895年であり、その少し前の1890年には明治憲法が施行され初の帝国議会が開催されている。内には立憲主義の確立が見られ、一方、外では帝国主義国として植民地帝国を築いていくという近代がもつ「二面性」の始まりであった。

本書では、そうした日本が目指したのは、欧米型の「非公式帝国」ではなく「公式帝国」であったとする。すなわち、物理的に植民地を支配せず、不平等条約と自由貿易で支配するのが「非公式帝国」であり、条約によって関税自主権を剥奪し、政治的経済的優位を背景に自由貿易を強制する「自由貿易帝国主義」が特徴であった。そのメリットは植民地獲得・経営のコストが不要であったことである。しかし後発国である日本は、地理的条件もあり植民地を獲得する「公式帝国」を目指したのである。欧米列強はアジアの植民地に経済的利益線を引いていたが、日本は軍事的な意味が強い利益線(生命線)であった。19世紀末の日本の「利益線の焦点」は朝鮮半島であり、日露戦争によりその植民地化は始まる。

ちなみに、日本がメンバーとなることを渇望した当時の国際社会は格差社会であり、植民地帝国である「一等国クラブ」が牛耳っていた。例えば大使の交換は一等国相互間だけの特権であり、日本が一等国の証である大使交換(それまでは公使)を認められるのは日露戦争後である。中国の場合は1934年であった。

●日本はどのようにして植民地帝国となったのか

植民地とは「特定の国家主権に服属しながらも、本国とは差別され、憲法その他の法律が行われていない領土」と定義される(※注3)。そして植民地だけに適用される特殊な立法は、帝国議会ではなく枢密院と現地の出先機関(台湾総督府、朝鮮総督府)によって作られた。こうした出先機関は軍部の強い影響下にあったため、枢密院と陸軍が植民地経営を巡って主導権争いを繰り広げた。例えば、枢密院議長であった伊藤博文は、維新の元勲としての威光もあり、朝鮮統治において軍の統帥権の独立を崩すことに成功する(文官である朝鮮統監の下に軍隊統率権を持つ)。しかし、すぐに陸軍が巻き返し、伊藤の死もあって最終的に陸軍主導が確立する。その後大正デモクラシー期の原内閣においても「文官イニシアチブ」の確保を目指した。台湾においては文官総督を実現したが(※注4)、朝鮮ではついに成功しなかった。植民地経営は、官僚機構としての軍部の権益拡大と強く結びついており、軍部は統帥権を盾に枢密院や内閣の介入を排除していったのである。

1920年代の普遍主義的国際主義の時代は終わり、’30年代の世界は地域主義の時代を迎える。満州事変を契機に国際連盟を脱退した日本は、孤立化を恐れて日本版の地域主義概念の導入を志向する。それが「東亜新秩序」であり、「大東亜共栄圏」構想に発展していく。その立場は反帝国主義であり欧米の帝国主義を批判し、対英米戦争を正当化する論理となっていく。しかし、自らの帝国主義的政策への批判は微弱な、いわばダブルスタンダードであり、欧米列強の侵略への恐怖から明治維新を経て国民国家を形成した日本が、アジア諸国に対して欧米列強と同じ植民地帝国として振る舞うことの自己矛盾を示していた。

日本は、同じアジアの中国や韓国のナショナリズムを否定し、自分が作り出した既成事実を地域主義概念で正当化しようとしたのである。日本の大陸政策は帝国主義的拡張主義であったが、公式帝国であるがゆえに利益線と生命線の不明確さが生じ、同じ帝国主義国であった英国との妥協の余地を奪っていった。また、中国に大きな権益を持たなかった米国は、中国のナショナリズムを選択し、日本は中国を巡って米英と決定的に対立していくのである。

◆本書を読んで考えたこと

●公式帝国と非公式帝国/日本と英国の負の遺産

植民地帝国のありかたとして、本書では「公式帝国」と「非公式帝国」という耳慣れない言葉を使っている。物理的に植民地を支配するのが「公式帝国」であり、不平等条約と(先進国にとって有利に作用する)自由貿易で支配するのが「非公式帝国」である。本書では、英国が「非公式帝国」の代表であり、日本は地理的要因により「公式帝国」とならざるを得なかったとする。

非公式帝国の英国のほうが、よりスマートに見える。実際、旧植民地を英連邦として組織して現在も良好な関係を維持している英国と、韓国、中国との関係に苦しむ日本とを比較した場合、英国の経験値と知恵が勝っているように思える。しかし、英国も隣国のアイルランドを植民地として支配し、民族主義運動を長年にわたって弾圧してきたという公式帝国としての歴史をもっているのである。

私がロンドンで暮らした時、アイルランド人をステレオタイプ化してジョークのネタにしているのを耳にするたびに差別を感じた。イングランド人にとってアイルランド人は「短期で陽気で歌がうまくて、酒好きで子だくさんの下層の人々」である。また当時(1980年前後)は、北アイルランドの独立を目指すカトリック過激派IRA(アイルランド共和軍)(*注5)の対英国テロが激しさを増していた時期であったので、さらに「テロリスト」というイメージが加わる。英国では階級による差別が基本にあり、そこに宗教と人種による区別が重なり、複雑で重層的な差別構造がすべての人々の上にのしかかっていた。アイルランド人に対する差別は、その格好のはけ口でもあった。

ここでアイルランドについて簡単に説明しておきたい。アイルランドは、スコットランドやウェールズと同じゲール(ケルト)人の国である。ゲール語という固有の言語を持っていたが、イングランドの植民地統治時代の同化政策によって失われ、現在は英語が公用語となっている。宗教はカトリックでありプロテスタントの英国国教会と異なる。植民地支配の始まりは、12世紀のノルマン人の侵入を契機としたイングランド支配とされる。「800年の恨み」(*注6)といわれる所以(ゆえん)である。その後アイルランド側の勢力が回復した時期もあったが、17世紀のオリバー・クロムウェルの侵略以降は本格的な植民地化(土地の没収とイングランド人の入植)が進んだ。農産物は輸出用に育成・輸出されたため、19世紀の「ジャガイモ飢饉」では多くの餓死者を出して米国への移民が急増し、人口は半減したといわれる。こうしてイングランドへの恨みは累積され、アイルランドは英連邦内の共和国であったにも関わらず第2次世界大戦では中立を選択した(*注7)。

米国に移民したアイルランド人たちも、先にたどり着いたアングロサクソンたちに差別された。アイルランド系移民の多かったボストンで、祖父が港湾労働者から身を起こして成功し、自身は初のアイルランド系大統領となったジョン・F・ケネディ政権を題材とした『ベスト・アンド・ブライテスト』(*注8)では、アイルランド人差別の理不尽さや根深さが描かれている。

1970年代から90年代前半までのIRAは、テロ組織の代名詞的存在であり、サッチャー首相暗殺未遂やオフィスビルの爆破といった過激なテロを繰り返していたが、英当局はIRAと水面下での交渉を継続していた。そして、ついにクロムウェルの侵攻から数えて約350年ぶりに歴史的和解が成立した(和解合意は1998年)。その象徴が、1997年トニー・ブレア首相による、アイルランドでの19世紀の「ジャガイモ飢饉」に関する謝罪演説とされる。

歴史的背景に違いがあり、日本にそのまま当てはめることは出来ないが、英国の「議論による統治」の歴史が生み出した成果であると考え、教訓とすることができる。それは、時間をかけて議論と妥協を積み重ねていくことが重要であるということだ。嫌なことを言われるからといって、対話を避けるということが最悪の選択なのではないだろうか。近隣諸国と議論を粘り強く継続することの大切さを教えてくれる例と考えたい。

●多国間秩序の遺産をどう生かすか

本書では、前稿「資本主義」でみたように1920年代の国際資本主義の時代を肯定的に評価している。ここから日本の将来の選択肢として当時の「多国間秩序の遺産をいかに生かすか」を模索すべきという主張が導かれる。

本書では、まず現在の国際的な状況を、冷戦の終結によって米ソの二極的覇権構造の解体と国際政治の多極化、あるいは無極化の時代が到来したとする。それと同じ現実として第1次世界大戦後の国際政治の状況をあげる。当時は英国の覇権が終焉し、多極化の時代を迎えており、それに対応した新しい国際政治秩序が形成された時期であった。その東アジア版であるワシントン体制(*注9)に注目するのである。

ワシントン体制の特質として、それまでの二国間関係から政治的軍事的コミットメントがより小さい多国間関係に変化した点を挙げている。さらにそれが平和を志向する軍縮条約を基本枠組みとしたこと、国際的金融協力関係が構築されたことを特質として挙げている。日本もその重要な構成メンバーとして参加し、特に米国との国際金融提携が重要な要素となっていた。日本にとって平和(軍縮)と政党政治(大正デモクラシー)の時代であった。

そのワシントン体制の崩壊の直接的原因は、中国ナショナリズムを巡る国際協調の亀裂であった。本書では、「日本は中国ナショナリズムとの協調よりも、英米との協調を優先し、それによって中国ナショナリズムを凌(しの)ごうとした。一方、中国に権益を持たない米国は中国ナショナリズムとの協調を優先した。また、巨大な権益を有した英国は、日本との帝国主義的協調を選択肢としながら、結局中国における権益維持の立場から、中国ナショナリズムとの協調を優先した」としている。

日本は米英両国と妥協するという選択肢があったと考えられるが、それができなかったのは国内で高揚するナショナリズムを押さえられず、国際関係における妥協の余地を狭めていったからである。そして、かつての明治国家の指導者たちがもっていた政治的リアリズムを、その後継者たるべき人々は失いつつあり、国民に日本が置かれた状況を正しく伝え、説得する勇気を持たなかったということだと思う。その結果が戦争であった。

現在の国際情勢においても、中国をめぐる問題が今後の日米関係を大きな影響を与えるものと考えられる。日中・日米・米中関係を各々の二国間関係としてではなく三カ国関係の視点から見直すことで選択肢が広がるのではないかとし、ワシントン体制の教訓を生かすべきだというのが、著者の主張である。

しかし、米国のトランプ政権は、オバマ前大統領の多国間関係を重視した政策から、二国間取り決めへのシフトを表明し、経済面での多国間秩序を目指したTPP(環太平洋経済連携協定)から離脱した。一方中国は「一帯一路」構想やアジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立といった中国中心の多国間取り決めの枠組みを提示して動き出している。戦後の対米従属構造の中で内向きに安住してきた日本にとって、こうした国際環境の変化は従来方針の大きな不安定要因として作用するであろう。日本は変わらざるを得なくなるだろうが、日米関係だけではなく、日中、米中関係を含めた枠組み作りを模索していく必要があるだろう。また同時に、日米中の安定的関係を望むアセアンを含めた東アジア全体を包摂する多国間秩序の形成を志向していくことが、日本にとっての歴史の教訓なのではないだろうか。

●「バンコクナイツ」と非公式帝国

非公式帝国という言葉から、数か月前に見た「バンコクナイツ」(*注10)という映画を思い出した。日本の独立系プロダクションが制作した映画で、バンコクの歓楽街を舞台にしている。映画のテーマは、タイ国内の貧しい東北地方と大都市バンコクの経済格差や、日本とタイとの経済格差という重層的格差構造が生み出す、歓楽街の女たちとそこに群がる日本人の男たちという社会構造の矛盾への柔らかな批判である。さらに、メコン川を越えてラオスに見るベトナム戦争の傷跡が暗示する、現在も続く大国の支配構造への静かな批判である。

本書では、「太平洋戦争後、米国は冷戦構造を背景に、日本をアジアの地域的中心軸として位置づけたが、こうした防共イデオロギーと日本を中心とする垂直的国際分業はかつての「大東亜共栄圏」を連想させ、脱植民地化を目指す各国の経済的民族主義と抵触した」としている。映画「バンコクナイツ」の背景にこうした支配構造を読み取り、インドネシア時代の経験を思い出した。

私は、1980年代前半から半ばにかけてインドネシアに駐在した。第2次大戦中も独立を維持したタイと違い、インドネシアは他の多くのアジア諸国と同じように日本軍の占領を経験した。駐在当時は、旧日本軍司令部のあった建物など戦争時代の痕跡が多く残っていた。また、日本の敗戦後、戻ってきた宗主国オランダに対しての独立戦争に身を投じた旧日本軍人で、その後帰国せずインドネシア人として住み着いた人たちがまだ存命中であった(*注11)。

当時、インドネシア人の対日感情を悪いと感じたことはなく、それは日本の経済援助がインフラ整備に大きな貢献をしていたこと、日本企業が多数進出し、雇用の増加や輸出に貢献していたことが大きかったと思う。ただ、ある人から「戦争中は武力で占領して結局失敗したが、今度は経済的に支配することで同じ効果を得ているのではないか」と言われて共感する部分があった。本書にでてくる「非公式帝国」より、いっそう洗練され平和的な形であるが、実質的には経済的「植民地化」ではないかという自省がそこに含まれていた。

当時の経済的植民地構造は、その後のアセアン各国の急速な経済発展により、変化したといえるのであろうか。私の仮説は、経済環境の変化が(植民地)構造の変化をもたらしたのではないかというものだ。変化とは、アセアン域内の水平貿易の拡大であり、背景には域内分業の進展と各国の消費市場としての成長がある。さらに、アセアンと中国との垂直的貿易の増加が相互関係を深め、中国の経済的・政治的影響力の高まりが顕著である。そうした構造変化の中で進出日本企業は巧みに対応しているように見えるが、日本のプレゼンス自体は相対的に低下していると思われる。また、日本がアジアで唯一近代化に成功したという「神話」が、各国の経済発展で崩壊したことと、それに伴うアセアン各国の自信の高まりが、日本の影響力の低下を招いている面もあるだろう。映画は、そうした構造変化を十分消化するに至っていないのではないかと感じた。アセアンに駐在されている方々のご意見はどうであろうか。

私たちはこうした状況を日本の凋落として悲観的に解釈する傾向にあるが、反対に日本は同じ地域の中で、少し先行して走っているに過ぎないと自覚する機会と捉えてはどうか。日本は明治維新以来、ずっと欧米を目指してアジアの先頭を走ってきたのであるが、その自負が傲慢を招いて、アジアを仲間として対等の目線で見たことがなかったのではないだろうか。近代化への着手の時期の差はあったが、アジア各国の経済発展によって、今初めて地域全体の枠組みを同じ土俵で議論できる出発点にたったと考えたい。その場合、日本にとって鍵となるのはアセアンである。それぞれの国と良好な二国間関係を維持しているアセアンとの関係深化なくして、地域の大国である中国を牽制(けんせい)しながら枠組みの中に取り込んでいくことはできないからだ。それは経済的及び政治的な関係にとどまらず、文化的な関係を含めたものとなるべきであり、そうした総合的な関係構築の中に日本の存在理由を見出していくことが、アジア唯一の植民地帝国であった日本の使命なのではないだろうか。

<参考図書>
『日本の近代とは何であったか———問題史的考察』三谷太一郎著 岩波文庫、2017年

(*注1)日清戦争(1894〜1895年)の結果、「日清講和条約(下関条約)」が締結され(1895年4月)、清國から日本に対して台湾、澎湖列島、遼東半島が割譲され、賠償金支払い(2億両)などがきめられた。

(*注2)三国干渉とは、1895年に独仏露の共同対日勧告によって清國から一旦割譲された遼東半島を還付したこと。

(*注3)憲法学者の美濃部達吉(1873〜1948年)は、立憲政治の適用されない植民地を「異法区域」と呼んだ。

(*注4)原敬(当時内務大臣)は政治的手腕を駆使して1909年台湾総督に文官の田健治郎(貴族院銀、逓信大臣歴任)をあてることに成功し、以降9代にわたって文官が任命される。一度も文官総督がなかった朝鮮とは好対照をなす。

(*注5)IRA(アイルランド共和軍)は、アイルランドの英国からの独立、独立後は分離された北アイルランドの独立と全アイルラインド統一のために戦う武装組織。

(*注6)英国の冒険小説家ジャック・ヒギンズの『鷲は舞い降りた』(1975年)に出てくる言葉。同書は、第2次世界大戦中のドイツ軍によるチャーチル首相誘拐作戦を描いており、作戦チームにはドイツと協力するIRAの工作員が重要なメンバーとして入っている。アイルランドと英国の関係がわかっているとニヤリとする人物像である。なお、ヒギンズは英国人であるが、このIRAの工作員を非常に魅力的に描いている点はさすがである。

(*注7)アイルランドは1938年に英国から独立を承認され英連邦内の共和国となったが、アイルランド人の英国に対する恨みは深く、第2次大戦中はチャーチルの参戦圧力にも関わらず、中立を維持した。大戦後、英連邦も離脱している。

(*注8)『ベスト・アンド・ブライテスト』は米国のジャーナリストであるディビット・ハルバースタム(1934〜2007年)の1972年のノンフィクション名作。

(*注9)ワシントン体制とは、第1次大戦後の国際秩序を言い、欧州ではベルサイユ体制、東アジア版がワシントン体制。ワシントンで行われた会議(1921〜22年)では、中国に対する権益の機会均等(「9カ国条約」)や海軍の軍縮(「海軍軍縮条約」)がとり決まられた。国際協調の時代を象徴する体制であった。

(*注10)「バンコクナイツ」は、“作りたい映画を勝手に作り勝手に上映する”映像制作集団「空族(くぞく)」製作の映画。2017年2月公開。音楽が強く印象に残った。

(*注11)残留日本兵の代表的存在であった乙戸(おつど)さんとお会いしたことがある。同氏を描いた『二つの祖国に生きる』(草の根出版会)と題した本が出版されている。

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