『日本の「近代」とは何であったか―—問題史的考察』(5)「総論」
『視点を磨き、視野を広げる』第11回

11月 14日 2017年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに―—明治150年か、戦後73年か

来年福井県で開催される国民体育大会(以下国体)の名称が、「明治150周年記念 第73回国民体育大会」に決まったことに反対が出ているという新聞記事(*注1)を目にした。識者の見解として「国体は戦後の日本社会にふさわしい国民のスポーツの祭典として創設された。明治を冠すると戦後のシンボルとしての国体の意味が吹き飛んでしまう」と紹介している。国体が生まれた経緯を考えて、よりふさわしい名称にすべきという意見は理解できる。しかし、名称論争の背景には、明治という時代に対する基本的な考え方の相違があるようだ。この記事によると、県労連や県高教組などが主張する反対理由は「明治は当初から対外膨張的な志向を強く持った時代であり、それがアジア太平洋戦争の惨禍に結びついた」としている。この150年を戦前と戦後に分け、戦前を戦争と結びつけ否定的に評価する一方、戦後は民主主義と平和と豊かさの時代として肯定的に捉える考え方である。

しかし、暗いイメージの戦前と明るい戦後という二項対立的理解は、歴史の連続性という視点をぼやけさせてしまうのではないだろうか。『日本の「近代」とは何であったか―問題史的考察』(三谷太一郎著)という本を題材にして、前稿まで4回に分けて日本の近代を考えてきたが、そこではより連続性を重視した概念把握が提示されている。例えば、幕藩体制下の「合議制度によって支えられている分権体制」という基盤の上に明治の立憲主義が成立し得た、あるいは大正・昭和の複数政党による政党政治の伝統があって、戦後の政党政治の復活と民主主義の発展が可能となった、という視点である。労組の主張の根底にある「史観」に基づく歴史解釈とは一線を画している。もっとも、国体の名称議論に関して言えば、戦後の象徴である国体に「明治150年」を冠する政府・自民党の側にも「(保守派の)史観」の存在が見え隠れするのも事実である。

来年を「明治150年」と見るか、「戦後73年」と見るかという左右両派の「史観」の対立という次元で議論をするのではなく、日本における「近代」とは何かという問題意識にたち、論点を掘り下げていく作業が必要である。そしてその分析においては、時代背景の慎重な考慮と国際的視点への目配りが不可欠であり、本書は、そうした近現代史の「歴史化」の試みだととらえるべきだ。

◆本書が提示する「明治150年」の視点

日本の近代化とは、モデルとしたヨーロッパからの機能の導入を基本とした。政治においては、立憲主義を打ち立て、アジアで初の政党政治の確立に成功する。その背景に、江戸時代の権力分立と合議制の定着という歴史の連続性があることを忘れてはならない。経済においては、国家主導の資本主義発展を成し遂げる。国民国家の建設を至上命題として外国資本を排除した自立的発展から出発し、欧米列強と伍(ご)して国際協調時代の主要国メンバーとしての地位を固める。著者は、日本近代の成果としての立憲主義(政党政治)と資本主義(国際協調)に立脚する国民国家建設を肯定的に評価するのである。

その一方で、なぜ植民地帝国を形成するに至ったかを考える。国民国家建設にいち早く成功した日本は、欧米列強に倣い植民地帝国の道を歩むが、その背景に国民国家を形成する原動力としてのナショナリズムの高揚をしっかりとらえるのである。しかし、欧米の帝国主義を批判しつつも他のアジア諸国のナショナリズムには鈍感で、自らは帝国主義国として行動し植民地を拡大する日本のダブルスタンダードには批判的な目を向ける。植民地拡大の結果として、中国での権益を巡って英米との利害対立が発生するが、ナショナリズムの高まりを背景にした国内的要因で外交的妥協ができず、その後の日本は、なし崩し的に対英米全面戦争に傾斜していく。

本書が提示する日本の「近代」は、政党政治と国際協調という成果と、植民地帝国という負の側面を併せ持つが、それらを対立的要素としてではなく国民国家建設における不可避的要素としてとらえるのである。起点にこそ日本近代の本質を見るべきという本書の問題意識が強く表れている。そしてその起点に、成功と失敗の要因が内包されていたとするのである。

◆日本の蹉跌

さて、戦前の日本が近代化の成果を手にしながら、最終的に失敗したのはなぜかを整理しておきたい。私は、最大の原因は世界的な環境の大変化に対応できなかったことにあると考えている。環境変化とは、世界恐慌で顕在化した資本主義の行き詰まりとそれを背景にした列強による植民地のブロック化・保護主義の時代への変化、帝国主義的植民地化に対抗する民族自立への動きの高まり、などである。これに対して日本がとった選択は、生命線と考えた中国での権益の一層の拡大であったが、それは巨大な中国市場を巡る欧米列強との利害対立を激化させるとともに、高揚する中国のナショナリズムと直接衝突することになった。

当時の日本にとっての問題は、選択肢の有無にあるのではなく、国内要因によって選択の柔軟性が極度に失われていたという点にある。海外植民地は軍部の影響下にあって利害が直結していたため縮小や撤退は軍部が抵抗したこと、政党政治が政争に明け暮れ国民の不信感が増していたため、不人気な政策を説明して理解を得るという政治の本来の機能がマヒしていたこと、世界恐慌の影響で国民の生活が窮乏し不満のはけ口として排外主義的ナショナリズムが刺激されやすい状況にあったことなどによって、外部要因の変化に合わせた柔軟な対応力を失っていったのである。

軍部の影響力が高まったのは、権力分立の仕組みの一つであった「統帥権(軍隊の作戦・用兵の最高指揮権で天皇大権)」を盾に軍部が適用範囲の解釈拡大で勢力を伸ばしたことによる。本来、政党政治はそれを牽制する役目があったはずであるが、逆に政争のために利用するに及んで歯止めが効かなくなっていった。その最たる事例がロンドンの海軍軍縮条約調印を巡る1930年の「統帥権干犯(かんぱん)問題」(*注2)だ。野党の立憲政友会が、浜口雄幸内閣(立憲民政党)が海軍の同意なしに軍縮条約に調印したのは「統帥権干犯」だとして政府を攻撃したのである。日中戦争へとつながる満州事変勃発が翌年であり、「統帥権干犯問題」は、日本の近現代史のターニングポイントを象徴する出来事であった。

統帥権の拡大が問題なのは、軍隊は典型的な官僚組織だからだ。現在の各省庁をみれば分かる通り、官僚組織は自己増殖本能を持ち、省益優先で動いている。そこに政府も議会も口出しできない聖域を作ると、聖域の保持・拡大に走って組織を増殖させていく。現在でも同じ状況を作ると、どこの省庁にも起こりうることである。官僚組織に対しては、政府と議会のチェックが不可欠であることは今も昔も変わりがない。辞任した稲田朋美防衛大臣のように、そうした資質に欠ける人物に軍隊組織を管轄する大臣を任せる安倍首相の安易な姿勢に不安を覚える。

前稿「天皇制」で見たように、日本の「近代」を推進した機能主義的・合理主義的思考様式が、「近代天皇制」という非合理的制度を創出した。そしてその矛盾の間隙(かんげき)を縫って「統帥権の独立」という制度の瑕疵が顕在化し、それを盾に軍部は自己増殖していき最終的に国家の破綻(はたん)を招いたのである。日本の機能主義的思考様式は、戦後の高度成長の推進にも大きな貢献をした。しかし経済が成熟期に入って企業の関心が内向きになったとき、機能主義の徹底による効率性の追求は、過度の管理主義を生み、そこに生きている人間を苦しめる原因となるとともに、大きな環境変化への対応における柔軟性を失わせる原因となっているのではないだろうか。

◆「戦後73年」の原点

来年は明治維新から150年であるが、その半分の期間を費やして「近代」を達成した日本は、戦争によって膨大な人命、国富、誇りを失った。その後、敗戦から再び70数年かけて、世界有数の豊かで民主的な社会を築き上げた。現在の日本は、経済的豊かさだけではなく、政治的安定と社会保障、治安のよさを誇る「富国」となった。明治時代に目指した「近代」がヨーロッパ化であるとすれば、戦後の日本の目標はアメリカに変わったが、先進モデルを設定して機能を導入するという意味で2度目の「開国」を行い、「近代」の導入に改めて成功したといえるかもしれない。

本稿では、戦前・戦後を明暗の二項対立的に把握する歴史理解を「連続性」の観点から批判して「明治150年」の視点から日本近代を再評価する試みを検証した。次は敗戦によってもたらされた2度目の開国における歴史の断絶と連続に目を向けなければならないだろう。それは「戦後73年」という視点の再検討を伴うものとなるかもしれない。また、左派の「55年体制」を引きずった「戦後史観」や、「伝統回帰」の名を借りた右派の「歴史修正主義」といった「史観」による歴史認識を離れた「敗戦と占領」の「歴史化」が必要だ。

現在の日本は、戦後の成功の結果として、モデル追求型ではなく自分であるべき社会を模索していかなければならない時期に入っている。にもかかわらず、方向感を見いだせないため「ぼんやりとした不安」にとらわれているように思える。そうした現在の日本社会の「不安」を突き詰めていけば、「豊かさと平和の両立は中長期的に維持可能なのか」という点に要約されるのではないか。明と暗という戦前・戦後の単純化、対立化という歴史把握では、こうした現在の日本の政治・文化状況を正確に捉えられなくなっているのだ。敗戦によって何が断絶し、何が継続されたのか。それは「戦後73年」の原点である占領期において、どう決定され、あるいは取捨選択されたのか。それを検証することで現在の私たちの立ち位置と進むべき道筋を見いだせるのではと考えている。以上の理由で、次回は占領期を考えてみたい。

<参考図書>
『日本の近代とは何であったか———問題史的考察』三谷太一郎著 岩波文庫、2017年

(*注1)2017年11月8日付朝日新聞朝刊記事『国体に「明治150年記念」の冠、なぜ』参照。なお、この記事によれば、政府は2018年に国が行う行事に「明治150年記念」の冠を付ける方針を決定。それを受けてスポーツ庁が福井県に冠の検討を依頼し、最終的に福井県が決定したとしている。

(*注2)国際協調時代を象徴した1930年のロンドン会議において米・英・日の3カ国で補助艦保有量の制限を協議し妥協を見た。しかし、海軍(軍令部)は兵力量の決定は統帥事項だと拡大解釈して反対を表明した。これを野党の立憲政友会は政治的に利用し、浜口雄幸内閣(立憲民政党)が海軍の同意なしに調印したのは「統帥権干犯」だとして政府を攻撃し大論争となった。浜口内閣は反対を押し切り条約を批准したが、直後に首相は狙撃されて重傷を負い(後に死亡)、内閣は総辞職した。

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