п»ї 森有礼と近代国家の精神医療行政の源流 『ジャーナリスティックなやさしい未来』第130回 | ニュース屋台村

森有礼と近代国家の精神医療行政の源流
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第130回

4月 19日 2018年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

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一般財団法人福祉教育支援協会専務理事・上席研究員(就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括・ケアメディア推進プロジェクト代表)。コミュニケーション基礎研究会代表。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般社団法人日本不動産仲裁機構上席研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。

◆明六社を興しながら

初代の内閣総理大臣、伊藤博文のもとで初代文部大臣に就任した森有礼(もり・ありのり)は近代教育制度の基礎を築いた人物として知られ、英米などで文化や法律、教育やキリスト教を学び、当時では最先端のグローバル観を持っていたとされる。福沢諭吉らと国民への啓もう活動を目指した「明六社」を設立したことでも有名だが、米国の資料によると、「日本で初めての精神科病院を設立」したことにも関係しているとされる。

しかしながら、森の思想は富国強兵を念頭にした国家に忠実な人士の育成が基本のようで、啓もう活動はすなわち強靭(きょうじん)な国家づくりのプロセスと理解されている。森が精神保健に関わる不思議さからか、後世、その部分が語られることは少ない。

明六社というメディアを興した森が、教育とともに精神保健にもう少し踏み込んでいれば、日本の精神保健の近代化は少し早かったのではないという気がする。

◆米国で教育調査

森は1847年に薩摩藩に生まれ、12歳で藩校造士館に入学。1865年、薩摩藩が秘密裡(り)に留学生として英国に送り出した15人のうちの1人に選ばれた。英国から米国に渡り、明治維新の知らせを聞いて、1868年に帰国。政府の幹部職員になったが、廃刀論の提言で辞任。鹿児島に戻ったものの1870年に政府派遣の初代外交官として米ワシントンに赴任、後に代理公使となった。

日本の教育に向けて米国の主要大学総長らに質問状を送り、教育現場を広く見聞した。帰国後の1873年に外務省勤務の傍らで、福沢諭吉らと明六社を結成し、講演や雑誌発行を通じて「国民開化」の啓もう活動を行った。

これは複合型メディアの原型であり、結成には、福沢諭吉、津田正道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)、杉享二(すぎ・こうじ)、箕作麟祥(みつくり・りんしょう)の10人がその名を連ねた。機関誌「明六雑誌」は1874年だけで25号、累計で10万部以上を発行したが、翌年の新聞紙条例の影響で解散することになった。(一部は「東京学士会院」に引き継がれ、メディアというよりは専門的な学術コミュニティーとして機能した)

◆米国に病院設置を報告

この森が精神保健の世界に名前を登場するのは、米国側資料で、米国の婦人慈善家、ドロティア・リンド・ディクスとの書簡のやりとりである。

ドロティア・リンド・ディクスは、南北戦争時に看護監督としてナイチンゲールとも看護の組織づくりに尽力した人物。1955年の「リーダース・ダイジェスト」では「ここ300年間に米国が生んだ恐らく最も卓越した女性、狂人病院の天使」と形容されている。

彼女が米欧だけではなく世界に精神疾患者への人道的な対応を広める活動に尽力しており、外交官の森にも日本での活動を働きかけたとされる。森が帰国後に彼女に送った手紙には、こう書かれていた。

「私事、其後多くの時日と注意とを、此問題に注ぎ、終に京都にて、一つの癲癇(てんかん)病院を首尾よく設立いたし、今また東京にて、更に一つ、設立中に有之」。

彼女の提言を受けて、京都と東京に癲癇病院(現在の精神科病院)を設立と設立予定の進展状況を報告したものと思われる。

◆啓もうされなかった精神保健

しかし日本で精神科病院の設立に関して、森が積極的に関わったことを思わせる記述もなく、森自身による積極的な記録もない。日本の国家教育の基礎を築いた森は、功利主義との批判があり、結果的に大日本帝国発布式典の日に刺殺された。伊勢神宮の暖簾(のれん)をステッキでめくり、土足で上がったという「不敬事件」が原因とされるが、真相はわからない。

キリスト教文化に触れ、精神疾患者への待遇を国家政策として考え行動した森の姿が見えず、結果的に後世に語られないことを、どう理解すればよいのだろう。

明六社という当時、最先端のメディア活動を通じて、精神疾患者に関する社会への啓もう活動が行われていれば、日本の精神保健に関する取り組みはもう少し早期に進んでいたかもしれない。その点、少し悔やまれる。

何故、森は精神保健に関する発信をしなかったのか、この謎を解き明かすことで、過去から今をつなぐ日本の精神保健の世界を支配する呪縛が見えるような気がしてならない。

※『ジャーナリスティックなやさしい未来』過去の関連記事は以下の通り
第124回 福祉ではなく、「教育」をやる覚悟について
https://www.newsyataimura.com/?p=7192#more-7192

精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/

■ケアメディア推進プロジェクト
http://www.caremedia.link

■引地達也のブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kesennumasen/

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