п»ї 人は何を記憶し、何を忘れるか『教授Hの乾坤一冊』第7回 | ニュース屋台村

人は何を記憶し、何を忘れるか
『教授Hの乾坤一冊』第7回

10月 11日 2013年 文化

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教授H

大学教授。専門は環境経済学および理論経済学。政府の審議会の委員なども務める。「知性は、セクシーだ」が口癖。趣味は鉄道(車両形式オタク)。

この8月のことだ。イスラエルの元高官が広島と長崎の平和記念式典についてとんでもないコメントをフェイスブックに書き込み、物議をかもした。2つの都市への原爆投下は「日本による侵略行為の報い」であり、犠牲者追悼の平和記念式典は「独善的でうんざりだ」というのだ。この問題外の発言に日本政府は抗議し、この高官は停職となっているという。

この部分だけを見ると、「問題外」と一刀両断に切り捨てて当然のコメントだ。だが、コメントの最後にどうしても切り捨てられない部分がある。それは、「日本が追悼すべき相手は、(日本の)帝国主義や大量虐殺の犠牲となった中国人、韓国人、フィリピン人らだ」という一文である。

日本人は広島と長崎の原爆や東京大空襲の悲惨さを胸に刻み込み、忘れることはない。ひめゆり部隊によって象徴的に記憶されている沖縄の犠牲も決して忘却のかなたに追いやることはない。戦闘員・非戦闘員合わせて犠牲になった尊い命の数が300万人を超えることも語り継がれるだろう。だからこそ核廃絶に向かって心からの叫び声を上げ、いかなる戦争にも反対する底力を持っているのだ。

だが、日本との戦闘によって犠牲になった人々、日本軍の残虐行為によって命を絶たれた人々の記憶はどこにあるのだろうか。もしかすると、私たちはそうしたことを忘れ去ろうとしているのではあるまいか。核兵器への断固たる反対やいかなる戦争行為への糾弾の声も、戦争によってもたらされた日本人の犠牲だけではなく、日本人の手によってもたらされた犠牲について私たちが向き合ってはじめて、世界に対して説得力を持つのではないだろうか。

◆表裏一体となった敗北意識と犠牲者意識

そんな折りも折り、一冊の浩瀚(こうかん)の書に巡り合った。ジョン・W・ダワー/著、外岡秀俊/訳の『忘却のしかた、記憶のしかた 日本・アメリカ・戦争』(岩波書店、2013年)である。ダワーは日本近現代史研究の碩学(せきがく)で、日本の歴史家や知識人に大きな影響を与えている研究者である。ベストセラーになった『敗北を抱きしめて』(岩波書店、三浦陽一・高杉忠明/訳、2001年)の著者と言えば、あああの人かと思う人も多いだろう。

ダワーは言う。「だが日本において、戦後の被害者意識は必然的に、打ち砕かれた敗北という精神的外傷をあたえる記憶と一対になっている」「敗者におよそ英雄はいない。戦死者自身、そしてほとんどすべてのふつうの日本人は、『被害者』か『犠牲者』であるということが、きまり文句になった」。つまり、戦争に負けたという意識は、自分たちが犠牲者であるという意識と表裏一体になって生き残るのだ。そして敗北意識とともに犠牲者意識・被害者意識だけが記憶に焼き付けられる。

それとは正反対に、「日本によるアジアの犠牲者たちの苦境は、そうとわかったときですら遠くに離れた、抽象的なものに映った」とダワーは言う。遠い地で起きた日本による犠牲はどこかぼやっとしていて、記憶しがたいものとして映る。また、日本だけが悪いわけではない、戦争とはそういうものだ、という精神的態度が日本によってもたらされた犠牲を記憶の片隅に追いやる。

◆忘れてはならない加害の歴史的事実

犠牲者・被害者意識は生き延びる一方で、加害者意識は都合良く忘れ去られる。ダワーはこう指摘する。広島と長崎の原爆体験は「日本人の戦争の記憶を、日本でおきたことだけに固定し、同時に日本人が他者にあたえた加害の記憶を覆いかくすことができるような、非を認めない国の財宝のようなものになった。広島と長崎を思いおこすことは、南京やバターン、泰緬(たいめん)鉄道、マニラなど、これらの地名が日本人以外の人にとって意味する無数の日本人の残虐行為を、容易(たやす)く忘れさせる方法になったのである」

これが敗者の忘却のしかたであり、記憶のしかたである。しかし、ダワーによれば勝者もそれと全く同様のことをするという。アメリカは広島・長崎で行った戦争犯罪行為を都合良く忘れようとする。スミソニアン航空宇宙博物館にエノラ・ゲイ(広島に原爆を投下したB29爆撃機)を呼びものとした展示を行うという案は、批判勢力による圧力によって放棄されてしまった。ベトナム戦争に関しても状況は似たり寄ったりだ。ワシントンにあるベトナム戦争慰霊碑の壁に「敬意をささげにくる訪問客は、その悲劇のうちに死んだ数百万のベトナム、カンボジア、ラオス人を想像することから、文字通り、壁で隔てられているのだ」。

もし日本人が加害の歴史的事実を忘却し、犠牲と被害の歴史的事実のみを記憶するのであれば、世界にいくら平和への貢献をアピールしてもそれはどこか説得力の欠けたものとして映るに違いない。ジョージ・サンタヤナ(スペイン生まれのアメリカの哲学者)が言うように、「過去から学ばないものは、同じ過ちを繰り返す」からである。ダワーのような日本をこよなく愛す知日家の言葉に耳を傾けられないとしたら、それは日本が世界から孤立することを意味する。今、心を込めて向き合うべき本がこの一冊である。

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