п»ї 美濃焼探訪 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第134回 | ニュース屋台村

美濃焼探訪
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第134回

12月 21日 2018年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住20年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

海外生活が長く、また、仕事に追いまくられていた私は日本の美術や芸術に目を向けている時間などなかった。否、時間はあったのだろうが、少しでも時間があれば、その時間をクラシック歌唱やサックス演奏など西洋音楽に振り向けてきた。妻は日本舞踊やお茶、はたまた写経など日本的なものが大好きである。端から見ていて、とても面白そうなのだが、残念ながら私には時間がない。

◆美濃焼の窯元を訪ねて

ところが、大野耐一さんの直弟子で、トヨタ生産方式の指導のためにバンコック銀行のアドバイザーをして頂いている迎洋一郎さんから3年ほど前に強い薦めがあって、彼の幼なじみである長崎県三川内の松山窯「唐子焼き」で有名な中里勝歳さんを訪ね、お宅に泊めて頂いた。さらに迎さんのもう1人の親友で、三河内の観光ガイドをされている林博幸さんは、親切にも私たちを隣町である有田町に連れて行ってくださり、有田焼も詳しく説明してくださった。私はこのときから「にわか陶器好き」になってしまったのである(2015年12月18日、拙稿第59回「三川内焼の窯元を訪ねて」をご参照ください)。

三川内焼のみならず、有田焼の今泉今右衛門、酒井田柿右衛門、唐津焼の中里太郎衛門など日本出張時には陶芸を見る楽しみが増えた。特に東京での顧客訪問の際には、少しでも時間があればデパートの美術品売り場や東京・京橋裏にある古物商で時間をつぶす。こうしたことをしていると、不思議なもので何となく自分が焼き物の「通」のような気がしてくる。しかし、実際には私は長崎や佐賀の磁器について少しは理解したものの、それ以外は全くわかっていない。

今回の日本出張で名古屋を訪問した際、私はまぬけなことに2日間の予定を同じ日に設定してしまったため、まる一日予定が空いてしまった。訪問を予定していた一部のお客様は、ダブルブッキングになったためキャンセルをお願いした。大変申し訳ないことをした。

さて、この空いてしまった一日をどうしよう? 東海銀行時代の同僚に電話して旧交を温めようかとも思ったが、急に私の中にある考えが浮かんだ。「そうだ! 美濃焼を見に行こう」。勇躍、私は中央線に乗り込んで多治見駅を目指した。

私は東海銀行時代に名古屋勤務が2回あるが、若い頃は陶器などには全く興味がなかった。このため美濃焼についてはほとんど何も知らないし、美濃焼の窯元のある多治見市や土岐市などに降り立ったことはない。今回が初めての経験である。突然のことで事前準備も何もしていない。どこに行ったらよいのかもわからなかったが、インターネットの検索でとりあえず多治見駅を選んだ。名古屋駅から多治見駅まで快速電車で約40分。多治見駅に近づくにつれ山あいに入っていく車窓を楽しんでいると、電車はあっという間に多治見駅に着いた。早速、多治見駅の観光案内所に飛び込み「美濃焼の窯元に行きたい」と伝えると、「幸兵衛窯」を教えられた。しかしそこに行くバスの便が1~2時間に1本しかない。幸い数分後にそのバスが多治見駅を出るとのこと。帰りの足は全く考慮せず、そのバスに飛び乗った。

◆雑多で自由

「幸兵衛窯」がある多治見市市之倉町は、ほかにも「幸輔窯」「仙太郎窯」「玉山窯」などの窯元を有する全国きっての陶器の町である。明治時代には全国の9割以上の「さかづき」を作陶していたという。2002年には人間国宝、故加藤卓男を中心とした有志により「市之倉さかづき美術館」が開館した。市之倉でバスを降りた私は「幸兵衛窯」を目指していたが、その途中にあった「市之倉さかづき美術館」に寄り道をした。日本酒よりワインやウイスキー好みの私は「さかづき」にはあまり興味がない。「せっかく市之倉に来たのだからちょっと立ち寄って見よう」程度の気持ちでのぞいてみた。

ところがこの「さかづき美術館」には「さかづき」以外にも、岐阜県の人間国宝や同地で有名な陶芸家の作品が常設展示されている。美濃焼が何たるかを全く知らなかった私は、ここで初めて荒川豊蔵、加藤唐九郎、塚本快示などが美濃焼の陶芸家であったことをはっきりと認識した。

北大路魯山人の伝記を読んだ時に、北鎌倉の星岡窯を手伝った有名な陶芸家として荒川豊蔵の名前を目にしたが、作品を見るのは初めてであった。塚本快示の美しい白磁や青磁の作品はデパートの美術展で見たことがあったが、彼が美濃焼に分類されるとは知らなかった。落ち着いた志野焼や黒瀬戸などの古風な陶器。青磁や白磁。赤絵など絵柄のついた磁器作品。更には加藤卓男の日本離れした「ラスター彩」など。さすがにどれも美しい作品ではあるが、統一感のない美濃焼の展示に私は戸惑ってしまった。「美濃焼」とはいったい何なのだろう?

私が知っている有田焼はほとんどの窯元が磁器だけを作っている。今泉今右衛門や酒井田柿右衛門などはこの磁器の世界で、伝統の絵柄を懸命に継承・発展しようと努力している。唐津焼の中里太郎衛門も同様に、三島・皮鯨・朝鮮唐津などの陶器の伝統工芸を守っており、磁器を作っているなど聞いたことがない。例外的に北大路魯山人は志野焼、備前焼、九谷焼など陶器・磁器をかまわず作陶しているが、彼が天才でかつ伝統の陶芸家でなかったからこそできたと私は信じていた。ところが「さかづき美術館」と「幸兵衛窯」の訪問によって、私の理解が間違いであったことに気づかされた。

「幸兵衛窯」には志野焼、黒瀬戸、織部焼など古典的な陶器も並んでいるが、ほかの窯元では今まで私が目にしたことがないような「コバルトブルー」や「目に鮮やかな黄色や緑色」を使った絵柄の磁器が沢山並んでいた。更にラクダなど異国情緒に富んだ絵柄で妖しげな光沢を放つラスター彩の作品まである。

「さかづき美術館」で見たラスター彩の加藤卓男は、現在の幸兵衛窯の当主である七代目幸兵衛の父親であった。幸いなことに故加藤卓夫さんの運転手を兼務しながら「幸兵衛窯」で長年働いてこられた堀久仁子さんが、幸兵衛窯の作品や美濃焼について説明してくださった。私は早速「さかづき美術館」から抱いていた疑問をぶつけてみた。「美濃焼とはいったい何なのですか? 磁器も陶器もやるし、絵柄も色々な種類がある。何が美濃焼なのかわからなくなってしまいました」。これに対して堀さんは「美濃焼は雑多なのです。美濃焼をやる人は何でもやるのです」。私はこんなに簡単に答えを返され、頭がパニックになってしまった。有田焼の窯元があんなに一生懸命伝統を受け継いでいるのに対し、美濃焼はなんて自由なのであろう!

◆作品の多様性と血のにじむ努力

私のこうした誤った考えは、幸兵衛窯の古陶磁資料館を見て一遍に変わってしまった。3階建ての古民家風の資料館には「所狭し」と日本、ペルシャ、中国、朝鮮などの古い陶磁器や陶片(陶器の破片)があふれかえっている。加藤卓男自らが発掘などして集めて回った貴重な資料である。そもそも美濃焼は、古文書集をひもとくと、今から1千年以上前の平安時代には始まっていたようである。陶磁器は日本各地で隆盛したが、明治時代に入ると庇護(ひご)者を失い各地の陶芸は「冬の時代」を迎える。美濃焼も同様に昭和時代の初めには「伝統的な美濃焼がどこで焼かれていたのか」すらわからなくなっていた。

こんな中で美濃焼の再興に尽力したのが荒川豊蔵である。岐阜県多治見市出身の荒川豊蔵は若い頃に収集した美しい陶片が忘れられず、1930年に多治見の古窯跡から志野焼を発見し、美濃古窯の全貌(ぜんぼう)を明らかにした。1933年に北大路魯山人の星岡窯を辞めると、美濃焼を自ら製作するのである。加藤卓男もこの荒川豊蔵の活動に刺激を受け、日本で陶片収集を行う。

しかし、加藤卓男の興味は日本だけではとどまらなかった。7世紀から13世紀までペルシャで栄え、その後この世から消えてしまった「ラスター彩」に取りつかれたようである。もともと幸兵衛窯の当主として基本的な陶芸技術を持っていた彼にして、ラスター彩の再興は大変な作業のようであった。資料館にあるおびただしいペルシャ陶片の数を見るだけで、このことが十分にうかがい知れた。

こうした加藤卓男の意思をしっかり引き継いでいるのが現在の当主、七代目加藤幸兵衛である。七代目も古典的な作品のみならず、新たな彩釉の活用などで努力を続けている。幸兵衛窯では、作品の多様性とそれを生み出すための血のにじむ努力に圧倒されてしまった。

幸兵衛窯で陶器を数点購入したあと、堀さんに多治見のお薦めの訪問場所をお聞きした。「今、岐阜県現代陶芸美術館で加藤土師萌先生の作品展をやっています。多治見駅前には陶器商のお店もたくさん並んでいますが、そこで陶器を見るよりも加藤土師萌先生の作品を見た方がよいと思います」。そう言うと、私をその美術館まで送ってくれると言う。堀さんのご好意に甘えて、私は岐阜県現代陶芸美術館に行くことにした。

加藤土師萌は「さかづき美術館」でその作品の美しさに心ひかれた陶芸家である。岐阜県現代陶芸美術館には本当に沢山の加藤土師萌の作品が展示されていた。何よりも彼の作品の多様性にびっくりしてしまった。磁器、陶器、書、絵画、あらゆるものをやっている。また陶器の絵柄も変幻自在。赤絵、青磁、金蘭子などその技術も多彩。どん欲に何でも手を出しているのである。幸兵衛窯で堀さんが言われていた「美濃焼は雑多です」という言葉が改めて思い返された。

しかし雑多であってもいい加減ではないのである。美濃焼の偉大な陶芸家たちは昔の作品を研究し、その作品の復興を目指すとともにそれに自分なりの価値を付加すべく努力を重ねている。加藤土師萌展にも大量の陶片コレクションが展示されていたし、晩年のヨーロッパ旅行の際は多くのスケッチを残していた。とにかく勉強熱心なのである。

◆自分の音楽のやり方にちょっと自信がもてた

今回の美濃焼探訪は、私にとってきわめて成果の大きいものであった。有田焼などとは全く異なった形で存在している美濃焼。それまで単に雑多にしか見えていなかった「美濃焼」も、徹底して伝統の工芸を復興することで芸術性を高め、独自の領域を切り開いている。

翻って、私の音楽について考えてみると、私も歌、アルトサックス、フルート、最近ではカホンなどの打楽器まで手を出している。また音楽領域だってクラシック、ポピュラー、ジャズ、ラテンなど何でもやる。幸いなことに歌やサックス、フルートなど素晴らしい先生たちに巡り会え、また週末は朝から晩まで音楽の練習に明け暮れている。違った音楽や違った楽器を演奏するからこそわかってきたことが沢山ある。美濃焼の偉大な陶芸家を見て、自分の音楽のやり方にちょっと自信をもった今回の美濃焼探訪であった。

※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り

第59回 三川内焼の窯元を訪ねて
https://www.newsyataimura.com/?p=5007#more-5007

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