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メーカーとサプライヤーの強い絆
『ものづくり一徹本舗』第21回

8月 22日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

タイは1997年のバーツ大暴落で大きな変革を迎えた。その最大の変化は、現地の経営者層はもとより、労働者層の勤労意識改革であった。70年代に入り、タイの自動車産業は毎年増産を重ねてきた。その結果、自動車関係の会社も従業員を増やさないと追いつかず、各社必死で優秀な人材確保に奔走。当然各社とも優秀な人材確保のために有利な条件を示し、人材獲得合戦になっていたのである。

そのため作業員はじめ、技術者、管理監督者層にいたるまで、仕事が未熟であるにもかかわらず立派な履歴書を作成し、給料の高いところを見つけては転職を繰り返していたのである。
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豊田章一郎会長のタイ訪問
『ものづくり一徹本舗』第20回

8月 08日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

アジア通貨危機の発端となったタイバーツの大暴落の翌年の1998年、タイ国トヨタ自動車は1トンピックアップトラックの海外輸出を開始した。その海外輸出記念セレモニーが行われることになり、タイ皇室からはシリントン王女、ほかに日本とタイの政府関係者が多く出席された。トヨタ自動車からは、豊田章一郎会長(当時)が参加された。今回は、私が豊田合成タイランド社長当時、豊田会長を私たちの工場にお迎えした時の思い出とその際に学んだことなどについて紹介しようと思う。

◆現場の中に自ら飛び込んでいく姿勢に感銘

セレモニーは、タイバーツ暴落に伴う極度の経済不振の中、人々に落胆ムードが広がっていたが、こうしたムードを払拭(ふっしょく)する熱気あるものとなった。タイ国トヨタ自動車の一次サプライヤーも全社が招待され、私も参加させていただいた。「タイの自動車産業をこれからもっともっと育成し、国内はもとより海外への輸出拠点としてさらに発展させていこう」というトヨタの強い決意を発信する場であった。
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私はタイ通貨大暴落をこうして乗り越えた
『ものづくり一徹本舗』第19回

7月 25日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

1997年7月に起きたアジア通貨危機に起因するタイバーツの切り下げは、対米ドル、対円に対してバーツの価値がほぼ半減するという大暴落であった。つまり、これまでの借金は2倍に膨らみ、貯金は逆に半減した。それも一夜(実際は数か月であるが、実感は一夜)にしてである。今回は、タイバーツの大暴落に直面した時にタイ現地法人の社長だった私の対応と、その時に得た教訓について紹介したい。

◆日本出張時に届いたバーツ切り下げの第一報

一昔前になるが、71年のニクソンショックによって金と貨幣の交換が停止され、金本位制が崩壊した。日本では戦後、1ドル=360円の交換レートだったがこれが1ドル=308円に一挙に切り上げとなり順次、変動制に移行していった。ニクソンショックはこのように円の大暴騰現象を起こしたが、そこに至るまで日米間で協議を重ねて施行された。しかし、タイバーツの急激な下落は、一般国民には全く寝耳に水の話であった。
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タイ進出後、私はこうやって業務を改善した
『ものづくり一徹本舗』第18回

7月 18日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

豊田合成のタイ進出にあたって、トヨタ自動車やトヨタ車体の方々から「海外進出の意義や具体的な方法」について親切にご指導をいただいた。進出前の自分の浅はかな考えを反省し、教えていただいたことを肝に銘じて、進出後の5カ年計画を策定したことは前回述べた。今回は、その5カ年計画の中で具体的にどのような取り組みを行ったのか、実例をご紹介したい。

◆設備、機械の調達先をまず見直す

最初に、樹脂材射出成形機の例からお話ししたい。プラスチックなどの樹脂に形状を与える射出成形機については、当初計画では全て日本からの輸入を予定していた。しかし、樹脂製品には設計上複雑で、高機能を要求されるものと、ごくシンプルで機能も一般品質要求のものがある。
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何の目的で海外進出するか事前によく考えよ
『ものづくり一徹本舗』第17回

6月 27日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

1995年、私はトヨタ合成が初めてタイに竣工(しゅんこう)した製造工場の初代社長として赴任した。このとき既に海外進出に長い歴史を持つトヨタ自動車の海外生産技術部門や調達部門の幹部の方々、さらにはグループ会社の方から多くの助言とご指導をいただいた。そのおかげで、なんとかタイ進出を成功に導くことが出来た。今回は、そのときの体験の一部を紹介したい。

◆甘かった進出計画のもくろみ

「海外進出する際は何の目的で進出をするか、よく考えてから事を成せ」。当たり前の話であるが、当時準備にかかわった私をはじめ本社の企画部門や技術部門の人間は、このことを真剣に突き詰めていなかった。
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改善は時には革命的成果をもたらす
『ものづくり一徹本舗』第16回

5月 30日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

前回、リンゴの木のイラストで誇りのもてる工場づくりを紹介したがその中で、原価の枝に注射器でカンフル剤を注入している絵を示し、「改善効果が遅い、少ないときには特命業務として専任者または、プロジクトチームを作り対応することが肝要である」旨を説明した。今回は、その成功事例について述べてみたい。

◆新たな技術開発へ特命業務

新しく赴任した工場は前にも述べたように、社内で最も操業の歴史が浅いため、ものづくりの技術も弱く加工技能も劣っていた。そのためムダ、ムリ、ムラも多く長い間慢性的赤字体質から脱出できないでいた。しかし私の赴任後、工場の役割とやるべき仕事の方向を明確にすることで全職場の改善が進み、改善提案件数も年間数千件と活性化した。
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人、地域、地球にやさしい、誇りの持てる工場とは
『ものづくり一徹本舗』第15回

5月 16日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

◆工場のスタッフ全員で育てる「リンゴの木」

前回の「心を一つにして正々堂々の道を行く」では、私が工場長として着任した尾西工場(愛知県一宮市)での取り組みの概略を説明した。今回はそれをさらに具体的に詳しく説明したい。

 一つの工場となると、数百、数千人規模の従業員で構成される。私が1989年1月に赴任した工場も当初は650人程度だったが、あっという間に千人を超す規模にふくれあがった。工場トップとしてやりたいことはいっぱいあるが、実行に移してくれるのは第一線のオペレーターを筆頭に監督者、管理者、現場を支える工場スタッフである。この時の様子は、前回述べさせていただいた通りである。
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心を一つにして正々堂々の道を行く
『ものづくり一徹本舗』第14回

4月 25日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

1989年1月、私は樹脂の外装部品やハンドル、エアーバッグを生産する新工場の工場長として赴任した。赴任直後に外注先である協力工場のトラブルに直面したことは、前回紹介した。

当社の歴代社長はこれまでに製造部門の体質強化のために、3大管理方式であるTPS(トヨタ生産方式)、TQC(全社的品質管理=デミング賞やトヨタQS賞への挑戦)、TPM(総合設備管理=TPM特別賞への挑戦)の導入に借しみなく資本投入し、社内外の講師の指導の下に人材の育成と製造管理技術、固有技術の向上を進めてきた。しかし、私が着任した工場はその恩恵を受けて育った者が少なく、結果が伴わないのが実情であった。
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協力工場も自社の一部門
『ものづくり一徹本舗』第13回

4月 11日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

入社以来、自動車用ゴム押し出し、型成型部門、製造部門で働いてきたが、1989年1月に樹脂外装部品やハンドル、さらには新しく開発されたエアバッグの量産を担当する一番歴史の新しい工場の工場長に就任した。

日本経済は当時バブルに突入し、労働力不足は深刻で猫の手も借りたいとはこのことだと思い知らされた時期である。従業員も新規採用者が多く、納期、品質、収益においても常に問題の多い工場であった。
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製造部門の主役はだれか?
『ものづくり一徹本舗』第12回

3月 21日 2014年 経済

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迎洋一郎(むかえ・よういちろう)

1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。

私が工場長に任命された当時の話である。工場長としての私の方針を理解してもらうためには、部下の人たちとの意思疎通が最も重要と考え、役職者を除く全従業員約1000人と、1年かけて対話することにした。最初に、製造第一線で働くオペレーターをQCサークル(同じ職場の中で、品質管理活動を自主的に進める集団)単位に分け、1時間の時間を設け対話を開始した。

「皆さんの力を生かし、どこにも負けないような働きやすく、やりがいを感じられる強い工場づくりを進めていきたいので日頃思っている提案、苦情などをドンドン聞かせてもらいたい」と、当日のメンバー7人にお願いした。
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