п»ї 過去の「いじめ」の過ちは消えないから『ジャーナリスティックなやさしい未来』第219回 | ニュース屋台村

過去の「いじめ」の過ちは消えないから
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第219回

9月 15日 2021年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

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◆過去の疼きの中で

 東京五輪の開会式の楽曲を担当していたミュージシャンが1990年代中盤の雑誌に掲載された過去のいじめ行為により、開会式直前にその役を辞したことには波紋が広がった。

過去の過ちは反省することで消えないのか、という問題と、「いじめ」という事実のインパクトは大きい。特に障がい者へのいじめに関しては、私の立場から見てきた経験として、「消せない」し「許されない」と断言したい。

心のコントロールの面で、支援が必要な人に大きな傷を負わせたことは残忍な行為として、大きな罪に値する。懺悔(ざんげ)しようが、当事者の傷は癒えないのだという前提で、その反省は消せないまま、一生負い続けなければいけない。その負った反省とその後の改心した上での行動を「反省」の可能性として歓迎したいが、だからといって過去は消えるものではない。

絶望的な言い方かもしれないが、そんな過去の疼(うず)きの中で、人生の道は開いていくのではないかとも思う。

◆障がいのある友達のまね

これは私自身の疼きもある。小学校のころに障がいにより歩くのが不自由だった友達がいた。他者よりも少し体が大きく、体力もあった私はその友達が移動する時には積極的におんぶをしたりしていたのだが、それは自然な気持ちからであり、その友達と仲良くなりたいという純粋な思いのあまり、時折、その友達の「不格好」に見えてしまう歩き方をまねした。

そのまねは私としては仲間として「いいだろう」の軽い気持ちだったが、ある日、その友達の母親が来て、そのまねはやめてくれと真剣に諭されたことがある。そこで気づいたのは、友達は私がそのまねをする度に傷ついていたということ。油絵が好きだったその友達は親友に絵を配って、亡くなった。

その絵は草原を自由に駆け抜ける白馬が描かれており、自由に歩くことがかなわなかった友達のメッセージのようで、今でも私は、自由に歩けなかった彼をまねした過去が胸をえぐってくる。

90年代の見直し

そして、最近の当事者からの相談に応じる面談メモを振り返ると、そこには多くのいじめを受けた記録がある。日々、当事者の「今」と向き合うものの、その今を作っている過去の経験の中で、いじめは邪悪な存在だ。

その記録を読み返すと、子供の無邪気さゆえに、ということでは済まされないケースばかり。そこには邪気がある、と思ってしまう。

今回辞任したミュージシャンは雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」「クイック・ジャパン」で、学生時代に「全裸にしてグルグルにひもを巻いて」「喰わした上にバックドロップしたりさ」「だけど僕が直接やるわけじゃないんだよ、僕はアイデアを提供するだけ(笑)」と話したり、「障害がある人とかって図書室にたまる」「きっと逃げ場所なんだけど」との認識を示しているのは、おぞましい精神性を見るようでつらくなる。

しかし私がここでこの問題を取り上げるのは、一人のミュージシャンを糾弾することではなく、その発言を許してしまった90年代のサブカルチャーを推進するエネルギーそのものを見直すべきだと考えるからだ。

◆パフォーマンス中心で

今、東京五輪開催の機会にやるべきことは、国家を意識しながらも融合と調和を考える取り組みの中で新たな社会規範を考えることである。再度、規範を整えるためには「昔はよかった」のではなく、普遍的な価値観としてやってはいけないことを整理すべきなのだと思う。

これらのいじめが活字になっていた世界から私たちは成長しているのだ、との自覚をもって。とはいえ、素直にそれが推進できる自信はない。規範を作るのに必要な情報を発信するメディアにとても悲観的だからだ。

東京五輪の中継は、世界の様々な国の様々な民族のトップアスリートが競い合っていることそのものに最大限の価値があるのに、自国のメダル獲得に向けた人情ドラマの一部と化しているだけとなった。アスリートのパフォーマンスこそが、最大限に称えられる発信が健全ではないかと思う。

世界の国々からリスクを冒してまで東京に来ていただき、観光も交流もしないままに競技に集中する彼・彼女らを無視して自国優先のメダル獲得ドラマを放送するメディアのメンタリティーに社会規範を説くことができるのか、やはり絶望的な気分になってしまう。

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