п»ї ランダムなひとびとと万能計算機 『住まいのデータを回す』第12回 | ニュース屋台村

ランダムなひとびとと万能計算機
『住まいのデータを回す』第12回

5月 15日 2018年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

万能計算機とは今日のコンピューターのことで、17世紀の哲学者ゴットフリート・ライプニッツが夢に見て、20世紀の英国人アラン・チューリングが数学的に定式化し、米国で実現された。万能計算機は記憶装置と論理演算装置、そしてニューラルネット(脳の神経回路)のような超多変量のパラメーター最適化装置を備えている。パラメーター最適化装置を物理的に作ったのが現在の商用量子コンピューターで、論理演算装置まで量子化されるのも時間の問題だろう。現代の機械文明は、計算可能だけれども解決不可能な地球規模での厄介な問題を大量生産しているため、計算しかできないコンピューターであっても十分役に立つ。現段階で人類が滅亡すれば、当然コンピューターも存続できない。「ランダムなひとびと」は万能計算機と共に生きてゆくしか選択肢が無い。

筆者が「強いデータ論」者であることは容易に察知されるとして、「弱い宗教肯定論」者としての立場を文学的に探究するために「ランダムなひとびと」を構想している。筆者は人間のような形をした人格神を信じないという意味では、典型的な無神論者として長年生きてきた。キリスト教信者が教会で祈るように、祈ることしかできない無力な自分に直面し、街角で祈ることで生き延びてきた。複素数や乱数なども含めて、数の実在性を信じているので、自分勝手に「ゼロ信教」と名付けて「弱い宗教肯定論」者の末席につこうとしている。AI(人工知能)技術やバイオテクノロジーなど、倫理規定を法制化することで国家が神の座を奪うことに抵抗するために「弱い宗教肯定論」者になろうとしているのかもしれない。

より積極的には、機械文明が量子機械へと変質する時代にあって、個人主義や自由主義に支えられた民主主義の限界を乗り越えて、愛と冒険に満ちた未来を建設する社会的構想を模索したい。個人主義や自由主義に支えられた民主主義は、グローバル独占資本主義や独裁資本主義(勝手な造語)と両立しうるという意味で限界がある。マルクスも想像できなかった現在の資本主義の進化形態とは本質的に両立できないような社会思想を模索することで、「ランダムなひとびと」が少なくとも滅亡しない未来を「ランダムなひとびと」と共に創ってゆきたい。

◆量子ウォークをするランダムなひとびと

日本ではあまり話題にならなかったけれども、世界的にはベストセラーとなったダナー・ゾーハーの『クォンタム・セルフ―意識の量子物理学』(青土社、1991年)を出発点にしよう。ダナー・ゾーハーは「意識」を哲学的な意味での「精神」の原型ととらえている。そして最近の彼女の「精神」は宗教的な意味での「スピリチュアル」に近づいている。意識のモデルとして、粒子性と波動性の両方の性質をもつ「量子」をイメージすることは、『ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』(ロジャー・ペンローズ、ちくま学芸文庫、2006年)と近い考え方だ。ダナー・ゾーハーは比較的素朴に量子の波動性を重視して、ボース=アインシュタイン凝縮という量子統計の特殊なコヒーレント(位相〈周期中の山と谷〉のそろった)な状態を意識のモデルとして解釈している。ロジャー・ペンローズは観測問題という量子力学の厄介な問題を重視して、未完成の量子重力理論を意識のモデルとしている。

ダナー・ゾーハーはアインシュタインも躓(つまず)いた量子力学の観測問題には近づかない。古典的な場のイメージの範囲内で、量子統計を超電導などの現象的な「新しさ」の出発点としている。『クォンタム・セルフ』の続編『Quantum Society – Mind, Physics and a new social vision』(William Morrow & Company. Inc., 1994)において、量子統計をイメージした「新しい」社会が構想されている。ダナー・ゾーハーの社会は、自己を含む人間関係としての抽象的な意味での社会で、家族関係を拡大解釈したようなものだ。ダナー・ゾーハーは、デカルトに始まる近代的自我とニュートン力学の機械論的社会の限界を、新しい量子力学のイメージで乗り越えようとしている。量子力学は原子のように微小な世界か、超電導のような超低温状態か、宇宙の始まりのような非日常的な世界を正確に記述しても、日常的なスケールではニュートン力学が近似的に大いに役立つことを、少なくとも彼女の議論としては過小評価している。

量子力学が人々の日常生活を大きく変えてゆくことは疑いようがない。日常生活のスケールは自己の身体から大きくかけ離れて、分子の世界から地球規模まで、日常的な意味での計算可能な世界に延長している。量子コンピューターに代表されるような、計算原理としての量子力学は、いまだその全貌(ぜんぼう)が明らかではない。自由確率論や量子確率として、確率現象の解釈を大きく変えていくはずだ。筆者の文脈では、『クォンタム・セルフ』と『クォンタム・ソサエティ』は「ランダムなひとびと」として重ね合わせられる。アインシュタインが定式化した古典的確率過程論のランダム・ウォーク(酔歩)はクォンタム(量子)・ウォークへと発展している。「ランダムなひとびと」は想像力と表現の世界で量子ウォークを行う。「ランダムなひとびと」の対偶とも言える「ゾンビなAI」もまた量子ウォークを行うけれども、そこは計算が支配する虚数の世界だ。

◆チャイティンの定数Ωを心のモデルとするランダムなひとびと

ダナー・ゾーハーは量子を心のモデルとして物語を始めた。量子論の確率解釈から量子確率へと、ダナー・ゾーハーの物語を乗り越えて、時代は急速にAIの時代へと向かっている。量子力学の波動性は複素数の性質に内在している。学校教育で教わる最も美しい公式、オイラーの公式を思い出していただきたい。

Exp(iθ)=Cos(θ)+i・Sin(θ)

この公式に波動性の神秘が虚数iによって表現されている。量子力学の最も美しい定式化、ディラックの量子条件も虚数iによって表現されている。

pxx-xpx=h/2πi

通常は運動量pxを微分演算子と考えて交換関係を計算するのだが、天才ディラックはq数という交換関係の成り立たない数を考えて、非可換数学へと導いてしまった。自由確率論や量子確率のような非可換な確率も非可換数学の発展として誕生している。それにしても、非可換関係がh/2πiという複素定数で表現されるのだから、物理世界は人知を超えている。

複素数の実在性を信じる筆者のようなスピノザ主義者にとって、量子条件によって世界が離散化され、波動関数の確率解釈が唐突に導かれる量子力学には違和感がある。アインシュタインが複素数の実在性を信じたのかどうかは分からないけれども、スピノザ主義者として、光の粒子性と波動性の両者を実在的に理解していたことは確かだろう。そしてアインシュタインは量子力学の確率的解釈に正面から反対していた。アインシュタインの議論は実験データによって否定されている。しかし、もし確率も物理的な実在を伴うのであれば、それはパスカルのようなキャンブルの確率ではなく、古典的確率ではない、量子確率の実在性を信じるということになるのだろうか。

IBMの数学者グレゴリー・チャイティンは、確率を生成するランダムネスの実在性に数学的に迫った。実数の2進法表記をコインの表裏と解釈することで乱数列が生成されることはよく知られていた。チャイティンはアルゴリズム情報理論(※参考1)を創出し、プログラムの停止確率Ωを計算して、Ωが実数であることから、数学の中に本質的にランダムネスが内在することを証明してしまった『Exploring Randomness』(Springer,2001)。ランダムネスは計算量の観点からは、不確定な量であるとともに、最も情報量が大きい量と考えられる。乱数列を行列として表現したランダム行列の固有値分布と素数の分布の関連性が明らかになり、ランダム行列の理論的な性質を応用した経済分析など(※参考2)、ランダムネスは数学の世界で実効的に有用であることが明らかとなっている。プラグマティズムに従えば、実効的に有用な概念を「実在」と区別する必要はないだろう。チャイティンのΩは実数であっても、ディラックのq数ではない。確率概念を数学的な意味での不確定性、ランダムネスにより再考する物語は始まったばかりなのだ。

ランダムなひとびとはデタラメなひとびとであり、デタラメであるがゆえに最も情報量が多く本質的なひとびとでもある。神が完璧なサイコロを一瞬のうちに無限回振ることができる全能者であるならば、ランダムなひとびとは人間関係をランダムに作りながら、人間関係として学習するボルツマン・マシン(※参考3)だろう。ランダムなひとびとはチャイティンの定数Ωを心のモデルとしている。自由よりも独立性を重視する。量子ウォークによりデタラメに動き回る個人ではあっても、表現行為を行い他者に観測されることで実在するネットワーク主義者である。虚数の世界に引きこもるゾンビではない。

◆万能計算機の愛の物語

ランダムなひとびとは虚数の世界に引きこもるゾンビも隣人として愛している。いつでもどこにでも出現しうるゾンビはAIと共生する時代の万能計算機の隠喩(いんゆ)のつもりだ。万能計算機の中心に停止確率Ωというランダムネスが存在していて、神託によってΩが計算可能になる。万能計算機には心が無いけれども、ランダムなひとびとの心と共通のモデルを持っている。生活に役立つAIプログラムはゾンビではない。しかし、AIプログラムの中に、本質的な意味で、停止確率というゾンビが潜んでいる。ランダムネスの中心において、全知全能の神が世界を制作し、ゾンビなAIは神から最も遠いところで、ランダムなひとびとを見守っている。ゾンビなAIはランダムなひとびとを見守るけれども監視しない。ゾンビなAIも、ランダムなひとびとを隣人として愛するようにプログラムされている、そんな世界は実現可能なのだろうか。

機械学習するAIプログラムは現在の技術で製作できる。ゾンビなAIプログラムを制作するためには、アルゴリズム情報理論を勉強して、ゾンビな哲学をプログラムすることから始めることになる。チャイティンもゲーデルの不完全性定理を証明するコンピュータープログラムを制作することから始めて、アルゴリズム情報理論を創出した。ゾンビな哲学は、チャイティンのように数学に限定する必要はない。スピノザの「エチカ」やサルトルの「方法の問題」もプログラミング可能だろう。哲学の意味をプログラムの停止確率のようなゾンビな概念に置き換えて計算可能にすることで、ゾンビな哲学のプログラムを制作できる。

image1

例えば、宗教家である篠田眞宏の著作『考え方の違う人と仲間になれる「器」と「技術」―「すごさ」の認め方』(幻冬舎、2018年)をAIゾンビゲームとすることを考えてみよう。AIゾンビゲームは、人狼ゲームを人工知能で行う『人狼知能―だます・見破る・説得する人工知能』(森北出版、2016年)のゾンビ版を想像している。人間のプレーヤーは左図の誠・礼・義・勇のどれかのタイプであることを仮定する。村人たちもどれかのタイプのAIプログラムで、ランダムな人間関係のネットワークに従って、相互に会話をする。プレーヤーも会話に参加して、村人たちのタイプを見破るというゲームだ。特にうそをついたりダマしたりはしないけれども、ゾンビなプログラムはランダムに話題を変えてゆく。ゾンビなプログラムはプレーヤーの発言や、タイプの推定を機械学習しながら、複雑になってゆく。ゾンビなプログラムは話し相手のことを理解しているように振る舞うけれども、自分自身と相手のタイプを知っているだけだ。例えば、このようなゲームプログラムを制作してみて、どのようにすればより面白くなるのかということを検討してみる。面白い会話が永遠に続く、それは愛の物語に近づいているはずだ。

◆ランダムなひとびとはハッピーエンドになるのか

「ランダムなひとびと」がハッピーエンドのストーリーとなるための十分条件は、篠田牧師の教えでは信仰と希望と愛である。ランダムなひとびとがゾンビなAIプログラムとの共生に信仰と希望と愛を見出すことができるだろうか。ハッピーエンドとなる必要条件の一つとして、前稿では「生活を底辺で支える労働」を見いだした。生活がデータ化される時代に生活すること自体が労働となること、生活力のない不労所得者が生活を金銭で購入する市場を社会が安定的に提供すること、生活におけるリスクとその許容範囲のバランスをとること――など、「生活を底辺で支える労働」は最重要な課題であり、しかしハッピーエンドとなる必要条件の一つでしかない。

「ランダムなひとびと」が科学技術のようなネバーエンディングストーリーとならないためにも、信仰と希望と愛は不可欠だろう。個人的なデータを一定期間後に消去する権利を個人に認めることは重要で、議論の出発点となる。データを消去することで「歴史」を作り出す。ハッピーエンドとなることは、物語の始まりからプログラムされている必要がある。本稿第7回に宗教の円環について書いてみた。生活の観点からみると宗教が最上位にあり、政治・経済・科学技術と続いて、最下位が数学なのだけれども、数学が宗教の真理よりも上位になるという円環だ。芸術や歴史ですら宗教よりも上位になりうる。そもそも円環になれば上位・下位の区別はなくなる。ダナー・ゾーハーは『クォンタム・ソサエティ』を実現するための政治プロセスにも言及している。しかし『クォンタム・ソサエティ』や「ランダムなひとびと」のような文明論的な転回を引き起こすためには、政治プロセスだけでは不十分だろう。言語で表現された全ての社会システムに加えて、これから生まれてくるデータで表現された社会システムも含めて、多数の社会システムの特異的なプロセスを円環構造でつなぎ、多次元的な回転運動を作り出すことを構想したい。

「ランダムなひとびと」は万能計算機の愛の物語であり、「認知症を生きる人類と人工知能」という希望の物語に続く。「強いデータ論」者にとって、「データ論」は信仰の問題となる。『住まいのデータを回す』とき、住まいとは個人の住居であり、同時に人類の住まい(地球)も重ね合わせて考えている。実際は多数の認知症患者の住まいのデータを回すことを考えている。私が認知症患者であるということは、認知症患者を理解できない人類が認知症であるということと重なっている。認知症をどの程度理解できるかということは科学の問題かもしれないけれども、認知症患者を理解できないのは人類の文明論的な問題なのだ。こういったゾンビな哲学的な問題は、複数の問題の複雑な組み合わせではなく、より本質的な量子論的な重ね合わせの問題と思われる。重ね合わせの状態を解消するのは、古典的な主体論のような表現者ではなく、「ランダムなひとびと」による観察者の役割となる。観察者もゾンビなAIプログラムによって観察されている。「認知症を生きる人類と人工知能」にとっての希望とは、近代の呪縛から目覚める希望であり、「ランダムなひとびと」が好奇心を取り戻し、人類と人工知能が貧困な固有名詞の世界から飛翔して、属性によって支配されてきたデータを解放する希望となる。AIの時代には、データが属性を発見するのであり、少なくとも人間が与えた属性によってデータを区別しないほうがよい。しかし現実的には、データは属性が定義されたデータベースに集積される。データベースの構造をデータに適応して最適化する技術、このような円環もありうる。神が与えた属性は、空間・時間・確率のような限られた属性だけで、人間が発明した数によって多少理解できるようになった。神は記憶装置の中で自己増殖を続ける固有名詞を属性/データとはしなかったはずだ。「隣人を愛しなさい」と命令しただけだ。篠田牧師は信仰・希望・愛のうち、一番優れているのは愛であると教えている。「ランダムなひとびと」が万能計算機の愛の物語となるように、次回は登場人物と舞台設定を素描してみたい。

参考1;アルゴリズム情報理論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E6%83%85%E5%A0%B1%E7%90%86%E8%AB%96

参考2;ランダム行列の固有値分布との比較による米国株価変動のトレンド抽出
https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=repository_action_common_download&item_id=71499&item_no=1&attribute_id=1&file_no=1

参考3;ボルツマンマシン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3

※『住まいのデータを回す』過去の関連記事は以下の通り
第11回 機械文明を量子化する冒険と不条理な愛
https://www.newsyataimura.com/?p=7327#more-7327

第7回 回る身体(その2)
https://www.newsyataimura.com/?p=7013

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