山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
イスラエルはガザを制圧し、住民すべてを追い出そうというのか。
容赦ない空爆、瓦礫(がれき)の山から運び出される犠牲者、飢餓にさらされる子供たち、食料配給に群がる人々。地球の裏側にいながら、ガザの悲劇を私たちは冷房が効いた茶の間で見ている。「ひどいなあ」「何とかならないものか」と同情しながらも、怒りは日常の中で消えていく。
悲惨な現実を撮っている人は、どんな日々を送っているのか。思いを巡らす人は決して多くはない。私も、テレビ画面に映し出されるガザの現実を、ニュースの一つの項目として眺めていた。
◆イスラエルに狙われる著名記者
8月10日午後11時22分、ガザ地区北部のシファ病院。イスラエルが発射した誘導ミサイルが病院の正門前に張られた記者テントを直撃した。中には中東の衛星放送「アルジャジーラ」の記者、アナス・アル・シャリーフとその同僚であるモハメド・クライケ、イブラヒーム・ザーヘル、モハメド・ヌーファルとアル・シャリーフの甥(おい)。さらにフリーランスのカメラマンのモアメン・アリワ、フリー記者モハメド・アル=ハリディがいた。7人とも即死だった。
この日は夜になってイスラエルの空爆が激しさを増した。2時間余り絶え間なく攻撃が続き、住民の恐怖心をあおり立てた。「ガザに住んでいると命の保証はないぞ」というメッセージである。炎が上がる現場に散った記者やカメラマンは、深夜に爆撃が止んだころ、たまり場である記者テントに戻り、ひと休みしていた。そこにミサイルが撃ち込まれたのである。
標的はアル・シャリーフ記者だった。「アル・シャリーフはハマスの戦闘員だ」とイスラエル軍は主張した。根拠や証拠は示していない。他の記者まで一緒に殺害したことに釈明もない。イスラエルは記者を意図的に狙ったことを否定しない。ハマスなら殺していいと考えている。イスラエルに敵対的な報道をする記者は、みなハマスなのだ。標的にされる。
昨年7月にも、同様の事件が起きた。アルジャジーラのイスマイル・ゴウル記者が殺害された。7月31日、ハマスのハニヤ政治局長が殺害された。ゴウル記者は、ガザ北部のハニヤ氏の生家を取材し、この直後、移動中のクルマにミサイルを撃ち込まれ、同僚も死亡した。
イスラエル軍は殺害を否定せず、「ゴウルはイスラム組織ハマスの対外発信で中心的役割を担っていた。2023年10月のハマスによるイスラエル南部への越境攻撃での戦闘報道に関与し、戦果をアピールするなどハマスの軍事戦略に欠かせない存在だった」とテロ行為を正当化した。
アルジャジーラは「ハマスに関わっていたという証拠を、イスラエル軍は出していない。イスラエルの凶悪な犯罪を隠匿(いんとく)するためのでっちあげだ」と訴えている。
22年5月にはアルジャジーラ記者のシリーン・アブ・アクレ氏がヨルダン川西岸で取材中に撃ち殺された。ユダヤ人入植者とパレスチナ住民が対立する最前線を取材する女性ジャーナリストとして注目された記者で、イスラエルにとってうっとうしい存在だった。ユダヤ人が暴力的に土地を奪い取る動きを追っている最中に狙撃された。
狙われるのは著名記者だ。同僚といっしょに記者テントで殺されたアル・シャリーフ記者はSNSで50万人ものフォロワーを集める注目のレポーターだった。外国メディアが締め出されたガザで「最も信頼できる監視塔」との評価を得ていた。
◆命懸けで発信する現地ジャーナリスト
イスラエルは23年10月から、外国人記者がガザに入ることを禁止している。世界に発信する主要メディアをガザから締め出し、報道させないことが軍事作戦にとって好ましい。アメリカも欧州も日本も、現地に通信員を置いて、そこから情報や映像を得ている。
カタールに本社がある衛星放送のアルジャジーラは、中東の声を世界に届けようと1996年に始まった放送局だ。中東各地に支局を置き、イスラム圏に根を張るメディアとして強みを発揮している。そのアルジャジーラでも、ガザ報道は現地の記者に頼るしかない。
ガザの日常を配信するジャーナリストは、記者である前に、攻撃にさらされる住民であり、自宅は破壊され、食糧の確保もままならぬ被災者でもある。そうした中で命を狙われながら、渾身(こんしん)のレポートを世界に送っている。
アル・シャリーフ記者(29)は1996年、難民キャンプで生まれた。地元の大学でマスコミを学び、放送局でボランティアをしながらフリージャーナリストを目指した。ひたむきな姿勢が認められ、27歳でアルジャジーラの北部ガザ担当に抜擢(ばってき)された。常に最前線に立ち、瓦礫の山や泣き叫ぶ住民を背に渾身のレポートをすることで視聴者を増やしている。父親は2年前、空爆で殺された。避難生活を続ける母親や妻子を支えながら、テント生活をしている。
2023年11月、イスラエルから警告を受けた。「どこにいるか我々は把握している。ガザから出ろ」。電話で脅された、という。
今年1月「ガザ休戦」が決まった。絶え間ない空爆にさらされていた市民は歓喜した。アル・シャリーフ記者は防弾チョッキやヘルメットを脱ぎ捨て、喜びに沸く市民に胴上げされた。そんなこともあったが、イスラエルは一転して3月、再び「ガザ制圧」の姿勢を鮮明にした。
停戦に安堵しただけに、市民の失望は大きかった。アル・シャリーフ記者は覚悟を決めたのだろう。攻撃が長期化すれば、いつか命を絶たれる。4月6日、「もし死んだら」と同僚に遺書を託した。
「このことばがあなたに届いたなら、イスラエルは私を殺し、私の声を沈黙させることに成功したと思ってください」からはじまる文章は、あらゆる苦難を乗り越え、ガザの現状を世界に伝えてきたことに悔いはなかった、としながらも、残した家族への思いが切なく綴(つづ)られていた。
「愛する娘シャム。私の瞳の光をあなたに託します。その成長を見守るという私の夢はかないませんでした」
「愛する息子サラフ。私の重荷を負えるほどたくましく育ち、この使命を受け継いでくれるまで守り育てたかった」
母への感謝、妻への励まし、そして、紛争を生き抜くことができたら「故郷の村で家族や愛する人と共に暮らしたかった」と述べている。
ささやかな希望を胸に、パレスチナではジャーナリストが命懸けで発信している。
◆脅しに屈せず口を封じられても後に続く
朝日新聞のガザ通信員のムハマンド・マンスール記者(29)は、今年3月にガザ地区南部のハンユニスの自宅でドローン攻撃を受けて殺された。現場近くにいた住民は、「無人機から3発のミサイルが自宅に撃ち込まれた」という。イスラエル軍は朝日新聞の取材に、空軍が3月24日にハンユニスとガザ最南端のラファで空爆をしたことを認め、「ハマスとイスラム聖戦の数人のテロリストを狙った」と回答したが、マンスールさんをハマスと見なしたかは明らかにしなかった。
通信員になったのは23年10月。マンスールさんは、医療支援をする日本のNPO法人「地球のステージ」の現地スタッフでもあった。イスラム大学のマルチメディア科を出たジャーナリスト志望で、NPO活動を通じて地域の情報に通じていた。朝日新聞の通信員を兼ねながら、NPOを通じて映像をNHKやTBSにも提供していた。地元のメディアに登場するなど、活発なジャーナリスト活動がイスラエルに目をつけられたのではないか、とNPO関係者は見ている。
マンスールさんの仕事は、朝日新聞デジタルに「世界は僕たちが死ぬのを見ていただけ、だれも止めぬガザ侵攻1年」などが残っている。
通信員として送った情報は、エルサレムに駐在する特派員が書く記事の素材として使われてきた。朝日新聞だけでなく、NHKも民放も、現地には記者はいない。名前が載ることはほとんどない通信員が命を危険にさらして、現場を伝えている。世界の通信社やメディアも同じだ。
イスラエルが締め出しているのは食糧だけでない。記者の出入りを許さず、その結果生まれた市民ジャーナリストを「抹殺(まっさつ)」という脅しで抑えようとしている。
アメリカを味方につけ、軍事的に圧倒的なイスラエルが、恐れることはただ一つ、世界の人々の声だ。だから「暴虐を可視化する報道」は許せない。ジャーナリストのカメラや言葉は、ハマスの銃に等しい。目立つ者は、排除するだけ。
国際NPOであるジャーナリスト保護委員会(CPJ)によると、2023年10月にイスラエルがガザへの軍事攻勢を開始して以来、この地域で犠牲になった報道関係者は186人になった。
暴虐が強まれば、抵抗は力を増す。立ち上がった市民ジャーナリストは、脅しに屈しない。次々と消され、口を封じられても、後に続く記者は絶えない。(文中一部敬称略)
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