п»ї 『大衆の反逆』―「進歩主義への懐疑」『視点を磨き、視野を広げる』第1回 | ニュース屋台村

『大衆の反逆』―「進歩主義への懐疑」
『視点を磨き、視野を広げる』第1回

12月 27日 2016年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

金融機関に勤務。海外が長く(通算18年)、いつも日本を外から眺めていたように思う。帰国して、社会を構成する一人の人間としての視点を意識しつつ読書会を続けている。現在PCオーディオに凝っている。

数年前から読書会を続けている。始めたきっかけは、日本や世界の現状を正しく理解したいと考えたからだ。年齢を重ねるにしたがって、思い込みを知識の断片でツギハギしながら、社会の出来事を解釈して納得してしまうことが多くなった。それではいけないと気づき、事象の背景を理解するために本を読み、他の人たちと意見を交換することで、視点を磨き、視野を広げたいと考えている。読書会で読んだ本を中心に、現在の日本と世界の課題を見つめ直してみたい。

◆「大衆の反逆」とは何か

今回ご紹介する本は、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』である。本書が書かれたのは、両大戦間期の1930年で、世界恐慌の時期である。当時のヨーロッパは、第一次世界大戦で国土が荒廃し、「西洋の没落」が喧伝された時期でもあった。オルテガは、没落論にくみせず、ヨーロッパは科学技術や生産力という意味では歴史始まって以来の高い水準にあるとしつつ、「大衆支配」に時代の危機を見るのである。すなわち、19世紀の科学の発展と生産力の増大により、社会を構成する「優れた少数者」と「指導される大衆」という構造が崩れ、意思も能力もない「大衆」が大量に生みだされ、社会を支配することになったとする。こうした「大衆支配」を指して「(被支配者たる)大衆の反逆」と表現するのだ。

オルテガは、社会を「指導する少数者と指導される大衆の複合的統一体」とみる。「少数者」とは、「社会階級的区別ではなく質的なもの」であり、「優れた資質を持ち、自らに多くの要求を課し、進んで困難と義務を負い常に前進しようとする人々(=真の貴族であり世襲貴族と区別)」だ。これに対して「大衆」は、「自分に対して特別の要求を持たない人々、生きるということが現在の自分の姿の繰り返し以外の何者でもなく、自己完成の努力を自ら進んでしようとしない人々」である。つまり、真の貴族は、「歴史から学び、先人から遺産として継承した文明に感謝し、自らを犠牲にしても社会のために貢献する」。一方、大衆人は、「歴史を認識せず、文明を所与のものとして感謝の念を持たず、自分のことだけを考えて生きる」。なお、オルテガは、科学者(あるいは専門家)は「大衆人の典型である」としている。なぜなら、「狭い領域の専門研究分野にしか興味を示さず、総合的知識に対する興味を失った」からだ。ここから分かるように、オルテガの言う「大衆」とは、社会的地位や教育水準を指すのではない。

◆大衆支配の何が問題か

こうした「大衆支配」に内在する問題は、支配者となった大衆人は「高度な生の水準を享受しながら、自分を掌握できず、何を実現すべきかわからない」ことにある。大衆人とは、文明を生みだし維持するものに対する感謝の念がない「自己閉塞的人間」、「文明世界の野蛮人」なのだ。そして、大衆は、「国家が「生」を保証してくれることを知り、自分では何の努力もせず、国家が問題を解決してくれることを望む」。その結果、「社会は国家のために生き、国家によって社会の自発性が抹殺される」。そして「社会の衰退は最終的に国家を崩壊させる」。オルテガは、(近代)国家と社会の対立的側面を見るのである。社会とは「生」がある場所、慣習の集積体であり、多様性、自発性が存在する。

これに対して(近代)国家は、人々を管理し動員する、国家の名の下での国家の行動への参加を求める、社会を統制する。その対価として国家は国民に治安や福祉を提供する。すなわち、国家は「幸福」を約束するが、「自由」を規制するのであり、国家と国民を考える場合、「自由」か「幸福」かの選択の問題として捉えるべきだというのである。真の貴族は自由を求める。大衆人は、自由を犠牲にしても幸福を求める。従って、大衆支配社会では、幸福を与える国家権力の強大化を招き、社会(自由)を弱体化するのだ。

この危機からの脱出方法は、「歴史認識」の再生にある。「歴史的経験を自分の中で深く考察し、時代の高さにふさわしい「社会的生」を新たに選択すべき」とする。そして、ボルシェビズムやファシズムを批判的に見、「ヨーロッパ合衆国」の創造に期待を込める。

◆オルテガの警句

本書の概要は上記の通りであるが、オルテガの主張は、保守主義的、貴族主義(エリート主義)的であり、自由・平等、人権が人類普遍の価値とされる現代においては、不人気で顧みられることは少ないようだ。日本では評論家の西部邁氏がオルテガ研究で知られるが、同氏も孤高のイメージがつきまとう思想家である。しかしながら、「大衆人」の一人である私は、本書におけるオルテガの大衆社会への警句に深い衝撃を受けた。なぜなら、その批判は、自分という存在に向けられたものであり、同時に現代の日本社会に内在する諸問題の本質を照射していると感じたからだ。オルテガの警句をいくつかあげてみよう。

●19世紀がつくり上げた経済的豊かさと社会的安定を相続し受益者(過去の相続者)となった大衆は、それを自然物とみなし感謝の感情を持たない。そして、大衆人は文明世界を支える諸原則の価値を理解せず、共同責任を負おうとはしない。

●大衆人の特徴は、「多くの知的能力を持つが思考しない」ことにある。堆積した決まり文句、偏見、思想の切れ端を永遠に神聖化する。「思想」を持ち、「教養」を持つが、真の思想ではない。そこに文化はない。

●大衆人の世襲貴族としての特徴を上げれば、ギャンブルやスポーツを人生の主要な仕事にしたがる傾向、ファッションへの関心、ロマンティシズムの欠如、自由な議論よりも絶対的権威のもとでの生活を好む、等々。

●大衆人は国家が自分の生を保証してくれることを知り、国家を自分のものと信じ、国家が問題を解決することを望む。自分では、何の努力もせず、懐疑も抱かず、国家の危険も感じない。

◆現代社会の危機

本書が書かれた1930年代は、経済恐慌で社会不安が増し、貧富の格差が極端に拡大していた時期である。こうした状態を解決する方法として社会主義とファシズムが出現し、資本主義諸国にとって大きな脅威となっていた。なぜ脅威だったかといえば、社会主義もファシズムも格差の解消と平等、雇用確保と生活向上を政策目標に掲げ、不況と失業に苦しむ人々にとって「希望」と見えたからだ。オルテガは、その社会主義とファシズムを国家による社会(自由)の抑圧と捉え、批判した。その背後にある「大衆支配」に危機感を持ったのである。

では、オルテガは、自由と民主主義の観点から、資本主義諸国を擁護しようとしたのであろうか。いや、そうではない。オルテガの本質は、既成の価値、権威に対する徹底的な「懐疑」にある。資本主義を疑え、民主主義をも疑えというのである。そして、彼の「懐疑」は、現代社会の危機の本質をあぶり出す。

現代社会の危機とは何か。それは我々の「豊かさ」を生み出すものとしての民主主義と資本主義の行き詰まりである。産業革命以前と以降の社会を分けるものは、「豊かさ」である。社会全体の生活水準の著しい向上は、大衆を時代の主人公とした。それを支える思想が「民主主義」なのである。現代民主主義は「豊かさ」に依存しており、豊かな生活は資本主義が担保しているのである。資本主義は、合理的利潤追求を行い、「グローバル化」に行き着く。グローバル化は、富をもたらすが、格差を拡大させ、社会は分裂の危機に直面する。最近の英国のEU離脱やトランプ大統領誕生は、こうした危機の顕在化である。

危機の危機たる所以(ゆえん)は、資本主義や民主主義に問題があるとわかっていても、それに変わるシステムが存在しないと言う点にある。さらに言えば、資本主義に依存しないということは、「豊かさ」を捨てる必要があるかもしれないのだ。我々にその覚悟はあるのだろうか。また、近代民主主義は、統治機構としての国家を前提としており、国家は個人の自由を侵害する。この場合、我々は「(安全という名の)幸福」と「自由」の選択の問題を冷静に議論するほど成熟しているのであろうか。資本主義と民主主義の問題は先進国共通の課題であり、答えはまだ見つかっていないのである。

◆歴史認識の再生

ではどうすれば良いのか。今一度オルテガの知恵を借りたい。彼は、危機からの脱出方法として「歴史認識の再生」が必要だとする。それは何を意味するのか。本書では詳しい説明がないので、オルテガの晩年の代表作で、彼の思想の集大成とされる『個人と社会』(1957年)を参考にしたい。すなわち、我々が生きている社会とは、「慣習の集積体」である。その意味で社会と慣習は同じだ。そして慣習(社会)は、過去を蓄え、それによって人間は生活し、行動する規範を得る。慣習(社会)は非合理的性格を持ち、人間を拘束するが、同時に過去を蓄えることで人間に進歩をもたらすという二面性を持つ。

この過去の蓄積という意味で慣習(社会)は歴史なのだ。豊かな現代に生きる我々は、高い権利意識を持ち、ともすれば「社会」を所与のものと考えてしまう。しかしそれは間違いだ。「社会」とは、人間が長い歴史の中で綿々と、かつ絶妙のバランスの上に築き上げてきたものであり、最新の注意と不断の努力がないと維持できないものなのだ。

オルテガの考えは、「社会は、過去の蓄積、歴史であり進歩の基礎となるもの」という言葉に凝縮されている。『大衆の反逆』から約30年の時を経て書かれた本書では、「大衆社会」への嫌悪は後退し、我々が生きている「社会」の大切さを訴え、それを破壊する「大衆支配」に静かに警鐘を鳴らすのだ。「歴史認識の再生」とは、そうした「過去の蓄積としての社会」の状況を直視し、「我々はどんな道を歩んで今ここにいるのか」という自問を続けていくことから再出発するということだと思う。

今回は、現代社会が直面する危機の根源にある資本主義と民主主義への懐疑について考えた。次回は、資本主義の何が問題なのかについて考えさせてくれる本をご紹介したい。

<参考図書>
『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫、1995年)
『個人と社会―人と人びと』(白水社、1989年)

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