п»ї 最終回、数学の自由 『住まいのデータを回す』第22回 | ニュース屋台村

最終回、数学の自由
『住まいのデータを回す』第22回

9月 09日 2020年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

『住まいのデータを回す』シリーズも最終回となった。『データを耕す』シリーズ10回の続編として20回程度の原稿を想定していた。もし『データ論』に取り組むのであれば、40回以上の長編となるだろう。指数関数的増加の恐ろしさはウイルス感染だけではない。「データ」には組み合わせ論的爆発の悪癖がとりついているようだ。指数関数の逆関数である対数関数を複素数の関数と考えると、想像すらできないほど複雑な様相となる。指数関数を複素数の関数と考えると、美しく調和したオイラーの公式が現れる。対数関数の場合は、量子力学の多世界解釈のような、文学的な空想の世界が現れる。意味不明な「データ」の世界でも、文学的な冒険をすれば、全く新しい意味が見いだされるかもしれない。データを現代の金山のように考えている企業もあるけれども、データの価値には大いに限界があって、意味不明なデータでは価値が見いだされるはずがない。『住まいのデータを回す』シリーズの最終回では、文学部数学科の提案をしたい。

文学部数学科

『住まいのデータを回す』では、17世紀の哲学者スピノザのエチカにおけるテーゼ「神すなわち自然」を、「データすなわちコンピューターにとっての自然」と読み替えて、スピノザを人類の未来に直結させた。ドイツの哲学者、ゲオルク・ピヒト(1913~82年)は、アウシュヴィッツとヒロシマ以降の哲学を「いま、ここで」(※参考1)政治状況に結び付けながら、哲学の責任と希望を切り開こうとした。世界で死者は80万人以上となり、現在進行形の新型コロナウイルス・パンデミック以降の社会の変質は、アウシュヴィッツとヒロシマにおける、それぞれ110万人と14万人の犠牲者数にも近い大きな文明論的なインパクトがあることは確実であるとしても、『いま、ここで』問題となる哲学的問題は、ゲオルク・ピヒトの哲学を出発点としたい。哲学がヨーロッパ諸学に厳密な基礎を与えているという幻想はもはやない。そして、哲学者だけが登場人物となる文学部哲学科の哲学に変質してしまった。ゲオルク・ピヒトは宗教と哲学に人格的なバリアーを作らなかった。宗教と哲学に加えて数学にも精通していたアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861~1947年)とは異なり、ゲオルク・ピヒトは数学よりも科学技術を重視していたけれども、それは敗戦国からの歴史批判でもあった。筆者としても、文学部数学科は、単なる文理融合ではなく、科学技術の限界を直視して、文学部哲学科から失われた数学が、まさに哲学の責任と希望そのものであると考えているので、文学部数学科はゲオルク・ピヒトの問題提起に答える数学を出発点としたい。

数学や哲学は浮世離れした、近づきがたい雰囲気がある。特に、数学者や哲学者には、そもそも会ったことがない人が大半だろう。学校で算数や数学を学習したとしても、教師が数学者である場合はほとんどない。哲学者が学校の教師になると、何を教えるのだろうか。一方で、勉強の対象としては、数学や哲学は最高かもしれない。一冊の教科書を理解できるようになるのに、生涯の時間でも短いかもしれないのだから、とても経済的だ。哲学者の千葉雅也は『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文芸春秋、2017年)において、哲学の勉強ではなく、勉強そのものについて論じている。数学者の小平邦彦は『新・数学の学び方』(岩波書店、2015年)において、数学者自身における数学の勉強について論じている。ゲオルク・ピヒトは『続・いま、ここで』において、より具体的な教育論を「教育の危機から教育政策の危機へ」などの各章で論じている。もちろんピヒトにも答えはないけれども、人間の尊厳が傷つけられる現状を乗り越えられなければ、教育だけではなく、哲学にも何の意味もないのだから、自己変革によってその責任を引き受けるというのがピヒトの立場だ。プラトンが無理やり数学と哲学を融合したけれども、文学部数学科はその精神の神髄(しんずい)を追求する場であってもらいたい。

◆戦略的な学問

人工知能(AI)技術やデータサイエンスは文理融合のテーマとなりやすい。筆者は硬派の教育論者であり、このような実務的課題は、企業や職場でのオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)がふさわしく、OJTする人材は企業や職場自身が確保すべきと考えている。大学は、より戦略的な学問を追求する場であるはずだ。「戦略的な学問」こそ、プラトンがアカデミアで希求したものであり、そこでは哲学や数学という区分は必要ない。さらに、アカデミアは「場」を提供するけれども、いかなる意味でも社会制度ではない。プラトンの時代では、本質的な考察や、普遍的な法則性に重点が置かれたけれども、強力な万能計算機を日常的に使える現代においては、個別性や偶然的な事象を見逃さないことが重要になる。科学技術によって一瞬のうちに14万人を殺戮(さつりく)することは理学部系の数学だ。COVID19(新型コロナウイルスによる肺炎)の死亡者数や自殺者数では、単純な微分方程式の解とはならないことは明らかだろう。前者は生活の個体差を無視した無差別殺戮であり、後者では生活の個体差が無視できない。生活の個体差を無視できない事象において、「戦略的な学問」のありかた、戦略的な学問を追求する「場」のありかたを再考したい。

戦略的な学問においては、「歴史」の批判的理解、すなわち歴史の新しい解釈によって未来を切り開く思考が有力な武器になる。大数学者の伝記ではなく、数学の歴史を批判的に理解する数学史として、『世界史を変えた数学:発見とブレイクスルーの歴史』(ロバート・スネデン、原書房、2019年)は読み物としては面白いけれども、数学的には浅い記述であるため、数学史を批判的に理解するレベルには至っていない。数学が現在の歴史を変革する可能性を考えるのであれば、例えば爆発現象の数理的理解などを研究してみてはどうだろうか。指数関数的な爆発は直感的に理解できる。核爆弾の開発は、実際の実験を行わなくても、コンピューターシミュレーションで十分な精度が得られるようになった。微積分学の極限操作はεδの解析学によって論理的に整合する理論となったけれども、量子力学のような離散的性質と連続的性質を併せ持つような理論では、古典的な論理はあまり役に立たない。解析学を代数学の立場から徹底的に離散化してみると、空間や確率の概念そのものが変容してしまう。代数学では26番目の離散型単純群が発見され、その対称性の数(位数)は246 ⋅ 320 ⋅ 59 ⋅ 76 ⋅ 112 ⋅ 133 ⋅ 17 ⋅ 19 ⋅ 23 ⋅ 29 ⋅ 31 ⋅ 41 ⋅ 47 ⋅ 59 ⋅ 71 ≈ 8×1053というアボガドロ数よりも大きな巨大な数(モンスター)であった。『シンメトリーとモンスター 数学の美を求めて』(マーク・ロナン、岩波書店、2008年)に群論とモンスター発見の物語が初心者でも読みやすくまとめられている。モンスターよりも大きい単純群はないことも証明されていて、単純群の分類問題は完全に解決した。しかし、このような素晴らしい数学的発見は何を意味しているのだろうか。文学部数学科の想像力に期待したい。

乱数学

文学部数学科はゲオルク・ピヒトの問題提起に答える数学を発見する旅でもある。筆者が知る限り、数学者としてこの危険な冒険に挑んだのはフランスの数学者アレクサンドル・グロタンディーク(1928~2014年)だった。グロタンディークが創出した精緻(せいち)な代数幾何学とは異次元の文学的作品「収穫と蒔いた種と」(※参考3,4,5)を残している。グロタンディークの数学を理解するのは不可能であっても、やはり理解困難な文学的文章群の解読作業は文学部数学科の役割かもしれない。

算数が有用であることは疑いないけれども、電卓が普及した現代では、暗算すら不必要になりつつある。ユークリッド平面幾何学は演繹(えんえき)的論理の大成功のように思われていたが、順序の公理を補わなければ不十分だという(小平邦彦『新・数学の学び方』)。整数、有理数、実数、複素数、4元数という、「数」や「数式」「関数」について学ぶのが数学だと思っていたら、代数学では群論をはじめとして、より抽象的な代数構造について厳密な議論を展開して、数学の問題を代数化してしまった。代数学では、対象としての数・数式・関数ではなく、数・数式・関数相互の関係やそれらの操作に問題を変換して、高度に抽象的な問題として再定義して、問題を解決してしまう。代数学では離散的な操作や1対1対応が本質的であって、連続性は離散的な性質の極限として再定義される。IT技術のデジタル化よりも200年ほど前から、数学はデジタル化されてきた。そもそもコンピューターは万能計算機として、300年以上前から数学者の頭脳に存在してきた。そして筆者が文学部数学科に期待したいのは「乱数学」だ。量子力学によって、自然は完璧なサイコロを振ることが明らかになった。

量子計算機がすごいのも、この完璧なサイコロを計算原理としているからだ。サイコロを振らずに、その結果だけ明らかにしてしまう。もう少し原始的な現在の計算機であっても、大量の乱数を使ったシミュレーションが、強力な武器となっている。πやeのような超越数では、少数展開すると規則性が全くないことはよく知られている。無限に続く乱数列のようなものだけれども、無限に続く乱数列は何らかの超越数になるのだろうか。ランダムな数列については、情報理論で精密な定義がなされている(※参考6)。大きな素数を大きな素数で割り算しても、それは有理数であるため循環小数となってしまう。√2のような代数的無理数では、有限長のプログラムで数列を予測することができる。しかし、プログラム停止確率Ωのような超越数では、数列を予測することができず、数列自身以上に情報量を圧縮することができない。このような数列を生成するプログラムの情報量によってランダムネスを定義しようという考え方だ。「乱数学」では、素数のランダム性など、未開拓の分野がたくさんある。「乱数学」では、等式よりも不等式のほうが重要になる。順序の公理のように2000年も見逃されていた論理もあるので、不等式の世界は冒険に満ちているだろう。

◆数学ファンと楽観主義

文学部数学科の数学は難しいだけで何の役にも立たないのではないか。難解な哲学よりは役に立つといっても、気休めにはならないだろう。しかし確実に役に立つことは、数学ファンを育成することだ。「数学は自由である」といった、学校数学とは別次元での、数学の楽しみ方を学びたい。「数学は何の役に立つのか」という疑問には、応用数学が答えてくれるけれども、「役に立つとは数学的にどのような意味なのか」という疑問こそ、戦略的な学問にふさわしい。「数学」を抹殺して、「役に立つとはどういう意味なのか」という問いには、哲学であっても回答はありそうもない。少なくとも正解はない。そのような冒険的な疑問であっても、「サッカーは何の役に立つのか」という問いに、サッカーファンは惑わされることなく、サッカーを支えるだろう。現代ではサッカーのほうが数学よりも戦略的で、うまくやっているかのようだ。数学も戦略的になれば、少なくともその歴史においてサッカーに劣ることはない。戦略的な学問は具体的な回答を求めるのではなく、学問を継続する戦略として、学問を楽しくする。

ユークリッド平面幾何学の論理体系が不完全であったとしても、論理的ではない数学はありえない。文学部数学科の役割として、論理を刷新すること、論理的ではない哲学に、新たな論理の可能性を示すことを提案しようかと考えていたけれども、哲学ですら論理的ではなくなってしまった現代では、新しい論理というよりも、論理そのものの可能性が閉ざされているかのように感じられた。「論理的な言葉」の問題ではなく、語りえない、言語の可能性の彼岸への冒険としての論理の問題であって、そこでは論理は倫理でもある。だから、論理的ではない世界では、倫理の可能性も閉ざされている。実在しない文学部数学科に、このような過度の期待を寄せるのは、悲観主義に過ぎないのだろうか。ピヒトは、ユートピアへの責任を問い、戦後ドイツにおける教育制度の再考という実務を引き受けた楽観主義者だ。文学部数学科は実在しないのではなく、物理的世界が実在するのと同じ意味において、数学的対象は実在すると信じる者にとっては、すなわちピタゴラスの時代から文学部数学科は実在している。筆者もピヒトのような楽観主義者なのだと思う。

参考1:『いま、ここで―アウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的考察』(ゲオルク・ピヒト、法政大学出版局、1986年)

参考2:『続・いま、ここで―アウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的考察』(ゲオルク・ピヒト、法政大学出版局、1992年)

参考3:『数学と裸の王様―ある夢と数学の埋葬 (収穫と蒔いた種と)』(アレクサンドル グロタンディーク、現代数学社、2015年)

参考4:『数学者の孤独な冒険―数学と自己発見への旅 (収穫と蒔いた種と)』(アレクサンドル グロタンディーク、現代数学社、2015年)

参考5:『ある夢と数学の埋葬—陰と陽の鍵 (収穫と蒔いた種と)』アレクサンドル グロタンディーク、現代数学社、2016年)

参考6:アルゴリズム的ランダムな無限列https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E7%9A%84%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AA%E7%84%A1%E9%99%90%E5%88%97

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