元記者M(もときしゃ・エム)
元新聞記者。「ニュース屋台村」編集長。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は5年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。
◆義母没後の一族の「新しい章」
妻は10人きょうだい(男5人、女5人)の長女で、妹たち4人はみんなシドニーに住んでいる。4人は独立し個別の生活を営んでいて、それぞれがLINEやMessengerの通話機能を使ってほぼ毎日、だれかが日本に住む妻に連絡してくる。込み入った話になると妻は別室に移るのでその内容は知らないが、「女3人寄ればかしましい」というから、おしゃべりでにぎやかになる時もあるし、姉妹同士のもめごとの相談や鬱憤(うっぷん)晴らしもあるだろう。
私たちがシドニー滞在中の昨年5月、自宅療養中の義母の体調が急変し、病院に救急搬送され、その2日後に亡くなった。私たちは当初の帰国予定を1か月延長して義母の葬儀から納骨まで一連の弔事(とむらいごと)に立ちあった。
妻はその前年も2か月間シドニーに滞在し、妹たちとローテーションを組んで代わる代わる義母の世話をしていたので、私たちは義母の最期の瞬間を病院のベッドの傍らで手を握ったり足をさすったりしながら看取り、すべての弔事も済ませることができたのは、まさに不幸中の幸いだった。「眠るように」とはこういうことをいうのか、と後で思った。
私は自分の両親の最期に立ちあえなかったので、95歳で逝った義母を自分の亡き母のような思いで見送ったことを、1年過ぎた今も胸の痛みとともに思い出す。
義母は妻の一族の精神的支柱のような存在だった。シドニーの自宅の2階の踊り場の壁には10人の子どもたちのそれぞれの家族写真が義母の若かりし頃の写真を中心に掲げられていて、私たちの家族写真は長男が成人式を迎える新年に近くの神社の境内で撮影した1枚が掛かっている。シドニーに住む4人の妹とその家族はだれ一人例外なく、誕生日は必ず義母宅で一族が全員集まってお祝いするのが習わしで、「毎年、誕生日のお祝いをおばあちゃんち以外でやってもらったことがない」と話す姪(めい)や甥(おい)がうらやましく、そしてほほ笑ましく思えた。
私たちが昨年3月にシドニーに来た時は、私の長女も上の息子2人を連れていっしょだったので、当時はまだ手押し車で室内を歩けるほど元気だった義母は初めてのひ孫に大喜びだった。一族やいつもの友だちなど30人以上が集まってもなお余裕のある広いリビングでは、私の孫たちは日本よりひと回り大きなおもちゃの電動の乗用自動車を取り合いながら大はしゃぎし、彼らにとってはまるで小型の遊園地のようだったろう。
長女たちは2週間滞在して一足先に帰国したが、帰国前に二男の誕生日を一族全員で盛大に祝うことができたし、何より義母の元気なうちにひ孫に会わせることができたのは幸いだった。
義母の一連の弔事が終わった後、妻の一番下の妹の夫でニューサウスウェールズ州運輸省に勤務するAが自宅の裏庭でいっしょに仮設テントやパイプいすの後片付けをしていた私に「お兄さん、このファミリーの物語は新しい章(チャプター)に入ったと思う」と声を掛けてきた。「新しい章」か。義弟の思いがけない言葉を私は声に出して復唱しながら、なるほど、なかなか意味深な表現だな、と感心した。
◆家族の理想的なありようとは
確かに、義母の生前、とくに義母が90歳を超えて外出することが少なくなり自宅で療養するようになってからは、一族の生活のサイクルは義母を中心に回っていた。
元気なころは私が当時駐在していたブラジル・サンパウロに来て、いっしょにリオのカーニバルを見に行ったり、メキシコの観光地カンクンで泳いだりした。2度目の海外勤務地バンコクのわが家にも長期間滞在し、妹が住む東北部のウドンタニやノンカイ、さらにビエンチャンの生家を訪ねたりした。
私の両親はといえば、2人とも乗ったことすらないのに大の飛行機嫌いで、何度誘っても死ぬまでついぞ一度も海外に出ることはなかった。
義母とは自宅療養中も、同居する3番目の妹が頻繁にテレビ電話でつないでくれていたから、手を振って健康を確かめ合ったり声を掛け合ったりしていたので、晩年は実の親よりも近しい存在だった。
義母の葬儀の際はラオスか中国だかの流儀か知らないが、葬送の列は先頭にビエンチャンから急きょ駆けつけた二男が位牌(いはい)を持って立ち(パリ在住の長男は中国新疆〈しんきょう〉ウイグル自治区を旅行中で不在だった)、2番目には長女の夫ということで私が遺影を持って並ぶことになった。葬儀の写真は遺族とは別に親族がそれぞれ個別に撮るが遺影は付き物なので、どの写真にも義母の遺影を胸に抱いた白装束の私の姿が写っている。
今回、亡き義母の誕生日に義母が眠るシドニー郊外のお寺にお参りに行ったら、昨年の葬儀の際にお世話になったお寺の関係者から「また日本からわざわざ来たの? よく来たね」と声を掛けられた。私は故郷の実家の菩提(ぼだい)寺を何度か訪ねてはいるが、このシドニー郊外のお寺は義母の生前から何度もいっしょにお参りしていたから、こちらのお寺の様子のほうが詳しくなった。

義母が眠るシドニー市内の菩提寺 2025年10月12日 筆者写す
今さらながら思うのは、「家族の理想的なありよう」とはいかなるものなのか、ということだ。義母の生前は訪れるたびに、一族の姿にその片鱗(へんりん)に手が触れられるくらいの、かすかながらも確かな感覚があった。
義母を中心に一族が集い、語り合い、笑い合う。集う者のすべてが義母に対して畏敬(いけい)の念を明らかに抱き、義母はひとり一人に声を掛ける。大家族が織りなす限りなく理想に近い家族像とはこんなものなのかと、私はその場に居合わせるたびにいつも満たされた気持ちだった。
そして、義母の没後1年が経ち、「新しい章」がすでに始まっている。現在進行形のことだから今回の滞在ではまだ消化できていないが、求心力の強かった義母の存在がなくなってしまった妻の一族は、明らかに過渡期にあると実感している。
この大家族がこの先いったい、どんな方向に進んでいくのか。正直、心配である。規模はずっと小さいが、両親がいなくなった私自身の家族にとっても、もっと言えば、親がいなくなった家族にとって、その先行きは決して平たんではなく、なかなか見通せない。
◆AI「鼻歌検索」機能の衝撃
やや重苦しい内容になってしまったので、アナログ人間の“極致”にあるような、「スマホビギナー」を自認する私が今回の「回遊生活」で新たに発見し、文字通り狂喜乱舞したスマホの機能について紹介しよう。
シドニーに毎回滞在するたびに妹や姪、甥の助けを借りて、スマホに関する私の知識は少しずつ増えて実用化され、普段の生活にも取り入れられるようになってきた。
スマホが生活の一部として欠かせない人にとっては「取るに足らない、しょーもない話」に違いないだろうが、この機能を発見した時の私の感動といえば、その夜に食べた放し飼いの鶏の胸肉のステーキよりもずっと美味だった。
その日は、近くに住む一番上の妹から夕食に招かれていた。夫のMはタイ・ウボンラチャタニ県出身で、シドニー市内で自動車修理工場を営んでおり、2人の間には高校生の娘(17歳)が1人いる。この一家は旅行好きで、私たちがシドニーに滞在している間も娘の第3学期終了後のスクールホリデーを利用して日本に2週間滞在し、東京、大阪、京都を回って帰国したばかりだった。
妹はこれまで何度も訪日している「日本通」なのだが、40年ほど前に初めて日本に行った時に偶然耳に入ってきた歌がいまだに忘れられないという。夕食の席でこの歌が話題に上がり、妹は「歌手の名前は『さゆり』だったと思うけど、メロディーは覚えてる」と言う。
今年還暦を迎えた妹の年齢からすれば「たぶん、石川さゆり、あたりだろう」と私は思ったが、「試しに歌ってみて」と言ったところ、鼻歌で「フフフ~ン♪」といきなり歌い始めた。
スマホで録音して家に帰って調べればいいや、と思って、妹の口元にスマホをかざして録音。なんの拍子かGoogleのアプリに指先が当たってしまい、「鼻歌検索」なるものの機能が偶然出てきた。
これにさきほど録音した妹の鼻歌をかけたところ、出てきた、出てきた! その曲をボリュームいっぱいにして流したところ、夕食の準備中だった妹は手を止めて、「これ、これっ! この歌よ!」と大声で叫んだ。果たせるかな、妹のずっと探し続けていた歌は五輪真弓の「心の友」だった。
その日の夕食の丸テーブルに並んだのは、放し飼いの鶏の胸肉のステーキ。私たちはジューシーで柔らかい肉をほお張りながら、メカに滅法強い夫のMがYouTube経由でテレビ画面につないだ「心の友」を歌う五輪真弓のライブの録画を繰り返し鑑賞しつつ、妹が初めて訪日した際の思い出話で盛り上がった。さらに食後には、妹が初めてカラオケで歌い上げ、すっかり満足した様子だった。
私は、うまいとは言えなかったが妹が40年も前の歌のメロディーをほぼ正確に覚えていたことにも驚いたが、妹の鼻歌を聴いて瞬時に正解を回答してしまうAI(人工知能)の明晰(めいせき)さにも舌を巻いた。
思いがけずスマホの新機能を知りすっかり満足して帰宅したら、「屋台村」執筆陣の1人、山口行治さんから原稿確認と近況連絡のメールが入っていた。
Google Gemini 2.5を仕事でも使っているという山口さんは、AIに「統計学における尤度と確率の違いについて教えてください」という質問をしたところ、「尤度」という概念が50年間よく分からないでいた山口さんにAIの回答はとても分かりやすいもので、衝撃的でもあったという。
データマネジメントや統計解析、薬理学、さらには哲学などの領域で高度な専門知識をもつ山口さんが「衝撃的でもあった」というのだから、よほど正確で分かりやすい回答だったのだろう。しかし、高2の数ⅡBで「確率」に挫折し、「尤度」の概念はおろか読み方すら知らなかった(※「ゆうど」と読みます)私にとっては、たとえその回答を読んだとしても到底理解できるはずなどなかろう。
同じ「衝撃的」でも、山口さんの感じた「衝撃」と、探していた曲が「鼻歌検索」でずばりヒットしたという「衝撃」には天と地ほどの差、いや、比較し難いほど次元の違う差があり、同じAIがもたらす「衝撃」でも私の「衝撃」はしょせん、せせら笑われる程度の極めて初歩的なものだろうと自戒した。
◆民営化された路線バス
2番目の妹の夫Dはラオス南部サワンナケート県出身で、タイの難民キャンプを経て10代の時にオーストラリアにやってきた。会計士や調理師、マッサージ師など多彩な資格を持つ「資格マニア」で、現在はパートでシドニー市内を走る路線バスの運転手をしている。
私はシドニー滞在中、ウォーキングの出発地点まで自宅から電車やフェリー、バスを乗り継いで行っているが、バスの利用頻度が最も高く、Dの話はとても興味深い。
シドニーのあるニューサウスウェールズ州では元々、すべての公共交通機関は州政府の公営だったが現在はサーキュラーキーを起点するすべてのフェリーも、州内を走るすべての路線バスも民営化されている。このうち、路線バスは10以上のバス会社に分割・民営化されていて、Dの場合、運転手として採用された時は州政府の公営だったが途中で分割・民営化され、最大規模のバス会社の運転者として改めて任用された。
民営化の前と後の違いは、給与は民営化後のほうが安くなり、有給休暇日数も民営化後のほうが短縮されるなど、コスト削減の観点からは当然だと思われる。各バス停の通過時間の誤差についても民営化前は本来の時刻表に比べて最大3分半まで早く通過しても認められていたものが、民営化後は最大2分に短縮されたという。渋滞の時は遅延しても仕方ないが、道がすいている時でも急ぎすぎず、一定の定時制と運転手の勤務シフトをならすことで燃費と人件費を抑えるのが狙いだという。各バス会社は走行中の路線バスの1台1台をモニターしていて、バス停の通過時間が早すぎたりすると無線で注意される仕組みになっている。
シドニー市内の会員制倉庫型店COSTCO 特に週末は大混雑する 2025年11月15日 筆者写す
私はほぼ毎日、どこかで路線バスに乗っているが、急発進や急ブレーキがなく、愛想の良い運転者はあまり見かけない。ある日の早朝、乗り込んでくる客のひとり一人に「Good morning! How are you?」と笑顔で声を掛ける運転手のバスに乗り合わせた。早朝のことだから無口で不機嫌な客もいただろうが、笑顔で優しくあいさつされるとだれも悪い気はしない。むずかしい顔をしていた客も「Good morning」と返したり、「All right」と答えたりして、バスの中全体が和やかな雰囲気になった。
この出来事を運転手になって7年目のDに話したら、「その運転者は若かった? 年寄りだった?」と聞いてきたので、「若かったけど、どうして?」と言うと、「新人の運転手で、運転マナーや接客マナーの研修を受けた直後だからだよ」と説明してくれた。
「君はどうなの?」と質問すると、決まった路線を決まった時間帯に運転するパート勤務の彼は「乗客はいつもほぼ知った顔ぶればかり。降りるバス停もわかっているしね。こっちがあいさつしなくても、乗ってきた客のほうから声を掛けてきてくれるよ」と笑顔だった。
※『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』過去の関連記事は以下の通り
第22回「『移民の国』の日常―シドニーを歩く(その2)」(2025年11月4日付)
https://www.newsyataimura.com/kisham-25/#more-22784
第21回「一日のうちに四季の移ろい―シドニーを歩く(その1)」(2025年10月20日付)











コメントを残す