元記者M(もときしゃ・エム)
元新聞記者。「ニュース屋台村」編集長。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は5年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。
陸上自衛隊中央音楽隊のコンサートが4月25日、千葉県松戸市の「森のホール21」大ホールで開かれた。その1か月半ほど前に市の広報誌で無料招待の告知があり、申し込んだら後日、チケットが届いた。当日、会場は3階席まで満員(収容定員1955人)。抽選はかなりの倍率だったといい、運良く当選した私たちは指揮者や演奏者の顔がよく見える1階席の前のほうで2時間ほどの演奏を楽しんだ。
陸自中央音楽隊といえば、同隊所属の「陸自の歌姫」と呼ばれるソプラノ歌手(3等陸曹)が東京都内で4月12日に開かれた自民党の党大会に制服姿で登壇し、国歌「君が代」を斉唱したことが問題になった。
5月3日は憲法記念日だった。憲法改正に意欲的な高市首相は先の党大会で「改正の発議に何とかメドが立った、と言える状態で来年の党大会を迎えたい」と述べ、1年後を改憲の区切りにすると明言した。日本国憲法(第9条)と自衛隊。3日付の朝日新聞朝刊によると、世論調査の結果、「高市政権での改憲」について賛否はきっ抗している。米トランプ政権に付き従い「NO」と言えない高市政権はこのまま、危ない道(改憲)に突き進んでいくのだろうか。
◆現職自衛官の党大会での国歌斉唱
自衛隊法第61条は「隊員は政治的行為をしてはならない(投票等を除く)」と明記している。陸自中央音楽隊のソプラノ歌手が今回で93回目となる自民党大会で史上初めて「君が代」を斉唱したことの論点は①国歌斉唱は政治的行為か②制服で政党行事に出席すること自体が政治的か――の2点とされる。
本質的にはそうなのだろうが、私が気になったのは、それ以前の問題、つまり高市と小泉進次郎防衛相の責任逃れと受けとめられても仕方がない発言である。
自衛隊の最高指揮権を持つ高市は「会場に着くまで自衛隊員が出ることを知らなかった」「私人として参加し、国歌を歌ったので問題ない」と発言。中央音楽隊を直轄する小泉防衛相は「仮に(自分に)情報が上がっていれば別の判断もあり得た」と話した。高市も小泉も党や自衛隊から事前に連絡が上がっていたと考えるのが自然で、問題にされなかったらスルー、問題視されたら「当該自衛官は職務ではなく私人として依頼を受けたもので、自衛隊法違反には当たらない」と説明すればよいと、事前か事後に役人あたりに振り付けられたのだろう。靖国参拝の閣僚が自ら「私人」をかたって逃げる、あの稚拙な手口と同じである。
現職自衛官が党大会で国歌を斉唱するのは前例がなく、このソプラノ歌手はもちろん、防衛省幹部も「問題視される公算が大きい」と踏んでいたはずだ。しかし、自衛隊は厳然たる上意下達の世界。上から命じられれば「NO」とは言えない。
今回は下火のままで収まったが、こうした問題が積み重なって、いつの間にか自衛隊全体、ひいては、国全体が「NO」と言いづらくなる、「NO」と言えない状況に陥ってしまうのではないか。不安がよぎる一件だった。
◆政治問題化する自衛隊
私は個人的に、自衛隊に好意的である。親近感さえ持っている。社会部の記者時代、2年間の警視庁でのサツ回り(警察取材)のあと、防衛庁(当時)担当として港区六本木の同庁記者クラブ詰めになった。
不思議な巡り合わせだが当時、現在の防衛省がある新宿区市谷本村町の陸自市ヶ谷駐屯地に近い市谷仲之町にあった社宅に住んでいて、三島由紀夫が自決したこの駐屯地で毎年夏に行われていた盆踊りや駐屯地の一般公開に家族や社宅の友人らと参加していた。
防衛庁では陸海空の3つの幕僚監部がそれぞれ毎週、幕僚長の会見を行っていた。各幕僚監部の広報は頻繁に現場取材を許可し、報道陣に自衛隊活動を積極的にPRした。国民に自衛隊を知ってもらうためには、まず報道陣に知ってもらう必要がある、ということらしい。
神奈川県横須賀で海自の潜水艦に乗ったり(艦内の気圧のせいで猛烈な睡魔に襲われ、潜水中はカイコ棚のようなベッドで浮上するまでずっと横になっていた)、富士山のすそ野にある静岡県の陸自の東富士演習場での総合火力演習で戦車砲の実弾射撃訓練を見学したり(耳栓が役に立たないほどの猛烈な爆発音と風圧に度肝を抜かれた)、海外での任務にもたびたび派遣されている空自のC130輸送機に搭乗(機体側面に沿ってベンチ状の布シートが並び、互いに向き合うように座る。機内は意外に広くて快適)したりした。
ほかにも、40年近く前なのに今でも特に強く印象に残っているのは、千葉県の陸自習志野駐屯地の第1空挺団での「飛び出し(跳出)訓練」である。実際の落下傘降下の前に行う訓練で、高さ約11メートルある塔から命綱を付けて飛び降りる。陸自の説明では、高さ11メートルというのは、人が心理的に最も怖さを感じる高さを狙っているという。
完全装備で自分の名前を大声で叫んで気合いを入れて飛び降りた。一瞬浮いたような感じだが、すぐに強い衝撃とともに宙づり状態になる。失禁しそうになった。あの時のことを思い出すと、今でも足がすくみあがりそうだ。訓練後に野外で食べた戦闘糧食(自衛隊員が訓練や災害派遣などで食べるごはん)の味は格別だった。
こうした一連の個人的な体験がゆえに、自衛隊は近しい存在で好感を持っている。私が当時接した自衛隊の制服組は将官から士まで階級は違っても例外なく礼儀正しく、丁寧で親切だった。冒頭で触れた陸自中央音楽隊のコンサートでも、開演前に何人かの自衛隊関係者と話したが、みな一様に丁寧な対応で懐かしかった。
うがった見方をすれば切りがないが、最前線の自衛官の大半は、自衛隊の存在が国民からどう見られているかをよく理解したうえで、「好感をもたれる自衛隊」「慕われる自衛隊」を目指して努力しているのではないかと思う。
それが、政府与党関係者や政治家が「自衛隊」を口にした途端、いきなり強いきな臭さが漂ってくるのはなんとも恨めしい。市井の中にある、災害現場で活躍する自衛隊の印象と、政治問題(改憲論議)化した自衛隊の印象の間にはかなり大きな乖離(かいり)を感じるのだ。
◆現行憲法のままでも機能
自衛隊は、憲法には書かれておらず、自衛隊法と安全保障関連法(2015年)によって規定されている。
政府与党は、自衛隊は世界でも有数の装備・能力を持ちながら憲法に書かれていないのはおかしいとし、第9条「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇(いかく)又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。」は基本的に残したうえで、そこに「自衛隊の存在」を明記するよう求めている。
これに対して改憲反対派は「今の政府解釈で問題なく、むしろ歯止めとして9条は重要である」という主張である。
自衛隊に好感を持つ私は、難しい法解釈を置いておいて、現行憲法のままでも実務上かなり機能していると感じている。
災害派遣(地震・豪雨など)、領空・領海警備、ミサイル防衛、 国際活動(PKO)など現行憲法の下でも自衛隊は活動できている。自衛隊は憲法に書かれていなくても、現行の法律と運用で回っているのだ。
それを改憲推進派は、大規模な有事や長期戦に備えるとなると制度の曖昧(あいまい)さが問題になると主張し、悪化したまま打開の糸口が見いだせない対中関係を背景に台湾有事などの危機をいたずらに煽(あお)り、改憲へと世論を誘導しようとしていると感じる。
◆日米同盟の変質も影響
英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)は4月10日付に「The country that can’t say no to Trump」(邦訳「アメリカに『NO』と言えない日本」)と題する論説を掲載した。日本政府は本心から「NO」と言えないのか真相(深層)は正直わからないが、言いたい放題・朝令暮改の「裸の王様」トランプの対日強硬発言を巧みに利用して、台湾有事や中国・北朝鮮の脅威をことさら大げさに印象づける狙いも見え隠れする。改憲への動きもこれと軌を一にしていると思う。ひょっとしたら、いずれも悪巧みする役人や取り巻きのブレーンの振り付けかも知れない。
トランプの強引な要求(関税・投資・貿易)と圧力外交に従うばかりか、高市のトランプへの過剰なまでの礼賛ぶりは見ても聞いても気持ちが悪くなる。FT紙の論説では「日本は単純な従属ではなく、従っているように見せて、実害は最小化する戦略」だと分析するが、その本質は、日本が「対米依存からの脱却」(プランB)の具体的方策を持たず、従来の同盟の形が対等から圧力関係へと変質している証左だろう。
トランプに対する高市の一連の言動は、正面から対立しない▽関係悪化を最優先で回避▽代替案で圧力を逃がす▽民間投資や時間で吸収する――といった現実的合理(これも役人の振り付けか)に沿ったものとの見方もできるが、その場しのぎのパッチワークのようにも映り、ほころびが早晩出てくるのではないか。
日米ともに、大局観がなく外交センスの乏しいリーダーを看過していると、その反動は想像できないほど恐ろしく悲劇的になるだろう。「自衛隊」「日本国憲法」「トランプ」。三題噺(ばなし)ではないが、どれもいまの日本にとって極めて重要かつ不可避のテーマである。「平和ボケした」と言われ続けられないよう、自分ごととして捉え、じっくり向き合うべき時期にいよいよ来ていると思う。(文中一部敬称略)











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