п»ї 長崎紀行『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第62回 | ニュース屋台村

長崎紀行
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第62回

2月 05日 2016年 経済

LINEで送る
Pocket

小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住18年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

長崎は室町時代後期である1570年、大村純忠藩主によって開港して以来、外国の玄関口として発展してきた港湾都市である。鎖国体制の江戸時代には国内唯一の江戸幕府公認の国際貿易港(対オランダ/対中国)である出島を持つ港町であったため、ヨーロッパや中国から外国文化が流入した。またキリスト教も早くから普及し、カトリック教会も多い。更には第2次世界大戦時には、広島に次いで原子爆弾が投下された被爆地にもなった。数々の歴史遺産と、坂の多い異国情緒の残る美しい街並みは多くの観光客を魅了する。

◆平戸と出島

昨年(2015年)11月、私達夫婦は「ニュース屋台村」の執筆陣になっていただいている迎洋一郎さんにお世話になり、長崎県三川内焼(みかわちやき)の窯元を訪問した(2015年12月18日付ニュース屋台村「三川内焼の窯元を訪ねて」をご参照下さい) 。その翌日、私達は平戸及び長崎観光に繰り出した。私にとっては「目からうろこ」というべき多くの新しい発見をした。今回はその時のことを書かせて頂きたい。

まずは平戸と出島についてである。1543年、ポルトガルは種子島に到来すると1550年には平戸に商館を設け、日本との間で南蛮貿易を始めた。更に1584年スペイン、1609年オランダ、1613年イギリスと次々に西洋諸国が平戸に商館を開設した。

当時、香料を中心とした東南アジア貿易や生糸などの東アジア貿易はポルトガルの牙城(がじょう)であった。ところが1580年にポルトガル本国がスペインに併合されてしまったこと、更には江戸幕府によるキリスト教禁止令などによりポルトガルはその覇権をオランダに奪われていく。オランダの優れていた点は、現在のインドネシアにオランダ東インド会社を設立し、中継貿易を行ったことである。

具体的には日本から銀を輸出し、それを元手にインドで綿花や香辛料を買い、それを中国に売りつける。更に中国からは生糸や絹織物を日本に持ってきて銀を手に入れたのである。

ポルトガルやイギリスが自国製品の売りつけに注力する中で、オランダはアジア内の中継貿易を行った。そしてこうした背景に「厳しいカトリック教国であったスペインやポルトガルの迫害から逃れたユダヤ人」がオランダに渡り、ユダヤ人としての商才を発揮したとのことにある。その頃からユダヤ人の影を日本で感じるのである。誠に歴史は興味深い。無理に自国商品を売りつけることなく顧客ニーズにあった商品を仲介するユダヤ人の商才こそ、今の日本人に必要なものではないだろうか。

1641年になるとオランダ商館が平戸から出島に移され、江戸幕府の鎖国体制が完成。あわせて1688年には唐人屋敷を設け、中国との貿易も幕府の管理下に置かれた。

日本と中国との間の直接貿易が活発化すると、中国製の生糸や絹製品が直接中国から輸入されることとなる。日本向けの輸入商品を失ったオランダは、これに代わるものとして砂糖の輸入を始める。

出島での一大取扱商品は砂糖であった。輸入した砂糖は厳重な管理下のもと「砂糖の道」を通って遠く京都や江戸に献上されていた。しかしこのように「高価で貴重な砂糖」も出島へ出入りする商人や遊女を通して、じわじわと長崎の街中に染み出していたようである。長崎一帯はこうした歴史を通じて有名な砂糖菓子の発祥の地となっている。福砂屋や長崎文明堂のカステラ、ボーロなどは馴染みのある商品であるが、森永製菓の創始者・森永太一郎や江崎グリコの創始者・江崎利一が隣県佐賀県の出身であるのも、砂糖にまつわるDNAのなせるわざと考えるのは不自然ではないだろう。

◆原爆資料館

次に私が強烈な印象を覚えたのが、長崎原爆資料館である。長崎原爆資料館は今回初めて見学したが、見学前にはあまり大きく期待していなかった。私が最初に広島平和記念資料館(原爆資料館)を見たのは1986年。当時私はまだ32歳であった。出張で広島を訪れた際にわずかな時間を見つけて飛び込んだ。とにかくショックであった。有名な「被爆人形」もさることながら、それ以上に実際の被爆物や生々しい写真に圧倒された。戦争の悲惨な現実を初めて見た気がした。

あれから30年経った今、バンコック銀行の提携銀行である広島銀行には年1回は訪問する。今でも時間が許せば必ず原爆資料館に行くが、若い時に感じた衝撃は正直感じない。しかし今回、長崎原爆資料館では若い時に感じたあの衝撃を再び感じたのである。

黒焦げで街中に放置されている死体や、身体半分焼けただれた人間の姿など、当時の現実を写し出した写真やスライド映像が私の度肝を抜いた。忘れていた戦争の悲惨さを思い出させてくれた。私は戦争経験者ではない。本当の意味で戦争の悲惨さをわかっているわけではない。しかし、私の小さい頃は日本はまだ貧しい国であった。渋谷や目黒の駅前には雑然とした市場が広がっていた。負傷した戦争帰国者が駅前で物乞いをしていた。家のすぐそばにも防空壕の跡が残っていた。そして何よりも、第2次世界大戦のつらい経験を当時誰もが口にしていたのである。長崎原爆資料館の生々しい写真を見て、改めて戦争の悲惨さを感じた。

タイに戻ってきてから、この話を広島出身の友人に話してみた。すると、友人は「小澤さんが最初に見られた1980年代から広島の原爆資料館の展示物は大きく変わっているはずです。最初の頃はかなり生々しい展示物があったのですが、児童や生徒に悪影響を与えるとか、海外からの観光客にもショックが強すぎるという理由で展示物の見直しが何度も行われています。広島市民の間でも意見は二つに分かれています」と指摘した。

私が「しかし原爆の引き起こした現実をありのままに伝えることが資料館の目的ではないの? 事実を伝えなければ正しい選択ができなくなるのでは?」と疑問を投げかけると、友人は「私が小さい頃は、広島では毎年8月6日には全校生徒が学校に集められ、原爆関連の映画を見たり、話を聞いたりして育ちました。私自身は小澤さんの意見に賛成です。しかしそうした教育のおかげで、今でも〝ピカッ"と光ると、思わず物陰に身体を隠す習慣がついてしまいました。原爆が落ちた時、物陰にいた人は助かったからです」と説明してくれた。この友人の言葉も一つの現実である。展示の在り方の難しさを考じた。

◆外国人被爆者

長崎原爆資料館でもう一つ私の目を奪ったのは外国人被爆者コーナーである。捕虜となっていた米国人兵も被爆者となったが、圧倒的に多いのは、造船工場や兵器工場で働いていた朝鮮人である。その数は最低でも1万2千人。正確な数字はわかっていないが、当時長崎市周辺に居住していた朝鮮人は3万人に上り、朝鮮人被爆者はもっと多いかもしれない。この他中国人も千人程度被爆しているようだが、いずれにしても日本人以外の被爆者については、恥ずかしながら、これまで考えたことすらなかった。

しかし戦争関連の工場があれば、そこで働かされていたであろう朝鮮人や中国人がいても、少しも不思議ではない。当然、原爆被爆者も多くいるはずである。実際、広島にも4万8千人の朝鮮人被爆者(うち死者3万人)がいたと毎日新聞が報じている(1980年7月26日付)。これらの人たちは、日本の植民地支配の被害者であると同時に、原爆被爆者でもあるという二重の被害者となってしまったのである。こうした人たちがいるということに気付かせてくれたのが、今回の長崎原爆資料館訪問である。

◆観光ボランティアガイド

この他にも長崎には江戸から明治にかけての日本開国時の歴史資産も数多くある。グラバー邸、オランダ坂、外国人居留地、オランダ商館などである。私達夫婦もご多聞に漏れず、これらの歴史遺産を見てまわったが、いずれの場所も観光客でいっぱいである。しかし驚いたことに、これらの観光客にガイドをしている人がたくさんいるのである。最初はタクシーを借り切った観光客がタクシーの運転手の説明を受けているのかと思った。しかしそれにしてはあまりにも説明をしている人の数が多い。タクシー運転手だけではなさそうである。

歴史建造物である外国人居留地の東山手十三番館の館内にある喫茶コーナーで休憩を取った際に、そこで受付をされていた増田泰之さんにお話を伺った。増田さんはご自身のお仕事とは別に「NPO法人 長崎の風」という名刺を持ち、長崎観光のボランティアをやっておられるという。

増田さんにお話を伺ううちに私の疑問が解けてきた。長崎市には400人にものぼるボランティアの観光ガイドがおり、これらの人が観光客に長崎市の案内をしているというのである。毎年600万人にものぼる観光客が長崎を訪れるが、この観光客に長崎市のことをよく知ってもらおうということである。

それにしてもこれだけ多くのボランティアの方がいて、長崎市観光を積極的にアピールしているのに驚かされる。もともと原爆資料館には修学旅行生らも含め年間約60万人の来館者がある。この原爆資料館の説明のために長崎には多くのボランティアがいたとのことである。ボランティアを行うことが根付いている風土であるからこそ、観光にも多くのボランティアの人たちが集まるようである。

長崎の人たちも素晴らしいが、こうした人たちを組織化した長崎市の試みも素晴らしいと思う。地方創生の一つの原点がここにあるのではないか、と感じた今回の長崎訪問であった。

コメント

コメントを残す