п»ї 『資本主義の文化的矛盾』―“資本主義の諸問題(2)” 『視点を磨き、視野を広げる』第3回 | ニュース屋台村

『資本主義の文化的矛盾』―“資本主義の諸問題(2)”
『視点を磨き、視野を広げる』第3回

3月 15日 2017年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

金融機関に勤務。海外が長く(通算18年)、いつも日本を外から眺めていたように思う。帰国して、社会を構成する一人の人間としての視点を意識しつつ読書会を続けている。現在PCオーディオに凝っている。

◆はじめに

前回に続いて資本主義の問題点を考えたい。今回取り上げる『資本主義の文化的矛盾(The Cultural Contradictions of Capitalism)』は、書名の通り資本主義に内在する問題点を文化面から考察した本である。著者のダニエル・ベル(1919〜2011年)は、米国の社会学者であり、『脱工業化社会の到来』(1973年)で製造業からサービス産業への移行に伴う社会変動を予測したことで知られている。本書は、同書と並ぶベルの代表作であり、1976年に出版された。前回のガルブレイス『ゆたかな社会』から約20年後の米国社会を背景にしている。

前回の論点を整理しておきたい。まず、18世紀の「産業化(Industrialization)」を現代が直面する諸問題の「起点」と位置付けた。「産業化」とは、「産業構造が農業中心の社会から工業中心の社会に変わること」であり、「狭義には生産活動の分業化と機械化、巨大組織化、高エネルギー動力源の使用」を言う(*注)。産業化以前の人類の歴史において大多数の人々は貧困状態にあった。西欧における産業化の進展を契機として、ようやく平均的な国民が貧困から脱することができるようになったのだ。しかしながら、20世紀初めごろまでは、依然として「貧困への不安」と「不平等」、周期的な「不況」に苦しむ社会であった。ケインズが登場して、こうした問題が解決されたかに見えた。『ゆたかな社会』が描く1950年代の米国社会がそのモデルである。しかし「ゆたかな社会」も問題点を内包していた。それは、民間の豊かさに比較した公的サービスの相対的貧困であり、ガルブレイスは社会的バランスの回復を訴えた。また、必要な物を作るのではなく、宣伝による需要の人為的造出に依存した「生産」は脆弱(ぜいじゃく)性を内包し、さらに消費そのものが個人の借金に支えられ、負債が増大傾向にあることは、大きな不安定要因となっていった。こうした経済的要素を念頭に置きつつ、本書で展開される「文化面における資本主義の問題点」を考えたい。

(*注)出所:コトバンク;ブリタニカ国際大百科事典

◆社会を構成する3要素

ベルは、社会は三つの独立した領域、すなわち社会構造(経済)、政治形態、文化から構成される不安定な融合体であり、産業化の進展という外的要因の変化によって三者間の相互矛盾が生じ、社会的緊張を生むにいたったとする。すなわち、かつては文化と経済を一つに結びあわせていた絆が、社会の発展に伴って解体し、文化自体も勤勉を美徳とする価値観から、快楽中心の価値観に変質した。それによって現代社会は、経済的危機と文化的危機を内包しており、その相互関係の分析が重要であるという問題意識が本書の出発点だ。

◆近代主義文化批判

はじめに文化とは何かを定義しておきたい。本書では、「アイデンティティー(自分らしさ)を常に保持しようとする過程であり、美的感覚を統一するもの」と定義される。すなわち、「芸術」であり、「文学」、「哲学」、「宗教」であるが、もっと幅広く「生き方」と考えても良いかもしれない。

本書の底流にあるのは、近代主義文化への批判である。近代主義(モダニズム)とは、伝統主義と対置される概念である。伝統主義が秩序を尊重し、宗教的影響が強いのに対し、近代主義はそれを否定(断絶)するところから出発し、「進歩主義」を基本とする。近代主義による伝統的価値観の破壊は、芸術や文学だけでなく、人々の生き方にも影響を与えた。この近代主義こそ、産業化を推進する原動力になった思想なのである。

近代主義文化がどのようにして生まれたかについて、本書では、まず産業化の進展によって芸術の位置付けの変化が起こったとする。芸術家は教会や王侯貴族といったパトロンから解放され、自分の好みを自由に表現するようになった(「拘束されない自己という思想」)のである。産業化の推進母体となったブルジョアジーは、物質主義的価値観を持ったが、芸術家はそれに反発した。経済が求める「効率性」や「機能性」と、文化が求める「人間らしく自由でありたい」という価値観の葛藤が生まれた。

また、宗教が持つ意味も変わった。個人は単なる一個の存在から、意見を持った自己に変わった。社会的慣習から解放され、社会の束縛を拒否する個人という思想が生まれた。自己の倫理的判断の源泉は、個人の動機が重視されるようになった。宗教的権威は崩壊し、抑制から解放への転換が生じた。「文化が宗教を引き継いだ」のだ。

全てを変えたのが「豊かさ」であり「生活水準の向上」であった。「豊かさ」は、消費習慣も変えた。禁欲的な生活規範が崩壊し、快楽と遊びへの欲望を刺激するシステムが取って代わった。プロテスタントの勤勉の倫理は消え、金儲け主義が支配するようになった。ベルはこうした状態を、(自己実現に価値を見出した)近代主義文化は、それが否定する伝統主義的文化との断絶の上に成立したにもかかわらず、伝統主義文化に代わる新しい価値(生き方)を生み出しえなかったと批判する。その結果、文化は危機を迎え、経済的規範と文化の規範の分裂に悩む人々にとって、精神的救済が必要だとするのである。

◆資本主義の文化的矛盾とは何か

今までの論点を、以下整理しておきたい。

① 米国の資本主義は、よく働けばその報いが得られるというプロテスタントの倫理を根底としていた。

② 資本主義は物質的な豊かさ、贅沢な暮らしをもたらした。その結果、快楽主義を生んだ。しかし、これは伝統的正当性の根拠とするプロテスタンティズムの倫理に反した。

③ 豊かさをもたらしてくれる経済の規範は、「合理主義」であるが、「自己実現こそ人生の目的」という文化の規範と相いれない部分があり、葛藤が生じる。だが、近代主義文化は伝統の否定(断絶)の上に成り立っているにもかかわらず、新しい生き方を生み出し得なかった。この状況を現代文明の危機だと捉える。

◆ベルの考える解決策

ベルは、こうした文明の危機的状況に対して、経済の領域では自由を一部規制する、文化の領域では過去や歴史との結びつきを回復し、次の世代につなぐ存在としての現代人の役割の認識が必要と説く。経済と文化の橋渡しとして「公共家族」という表現を使うが、これは政府あるいは公的なものの役割の増大を指す。すなわち、政治の改革が必要だと考える。

ベルの解決策をもう少し詳しく見ていきたい。ベルは、社会の危機的状況の中での精神的救済が必要と考え、それを「宗教の再建」に求める。なぜなら、「宗教」は人々の生き方の規範であり、文化であり、社会の中心軸であったが、社会の発展により力を失ったからである。宗教の再建においては、「償還」という考えが強調される。すなわち近代主義が切り離そうとした過去との連鎖の追求こそが重要だとするのだ。「人間には両親や文化や伝統に対して、負っている負債を返済する義務がある」と訴えかける。

ベルの主張でもう一つ注目すべき点は「公共家族」である。聞きなれない言葉であるが、本書では、「国家の収入と支出の管理」あるいは「財政」の意味で使われている。近代社会では平等への要求が当然の権利として主張されるため、政府支出の恒常的増大をもたらして増税または財政赤字を招く。一方、資源は有限であり、政府支出の拡大にも制約がある、こうして私的利益と公的利益のジレンマが起きる。誰にどう配分するかを巡る利害衝突を調整するための公共家族のルール(新しい公共の原理)の確立が必要だとする。そのためには、自由と平等の関係について考えなければならない。そして、平等のために自由が犠牲にされることがありうることを認め、「適切な差別の原則」を考察しなければならない。個人の自由と社会的公正の間の適切な原則とは、「各人がその努力に応じて与えること。同時に各人の地位に応じた適切な力と特権を与えること」と結論する。

次に世代間の平等を考える。ここでは、「現代の世代は、将来の世代を犠牲にして限りある資源をどの程度まで消費できるか」という問題提起を行う。現代日本に通じる問題意識である。著者は、「将来の世代への平等」として、「我々が将来世代のために残しておく責任を負うのは、生産のキャパシティーである。そして消費を抑制し、生産キャパシティーをどの程度残すのかという問題は、自由社会における根本問題である公的なものと私的なもののバランスに帰着する」としている。これは、現代世代が豊かで享楽的な生活を送るために、天然資源(環境問題)や財政資源(公的債務の増大の問題)を食い尽くさないで、将来世代のために我慢することが大切だと言っているのである。

そして、公共家族についての議論の根本は、社会の正当性(根拠のある価値観)を再び確立することだとする。すなわち公共家族の概念とは、「社会を一つに結び合せるものを政治体制のうちに見つけ出そうとする努力である」と定義する。ブルジョア社会は政治から経済を独立させたが、公共家族は政治と経済の再統合による調整を目指すべきだとするのである。そして、社会的な合意を形成し、それに基づいて政府予算の支出(分配の割合)を決めるべきだとしている。米国と日本の政治状況は違うが、この手法は日本でこそ検討すべきものだと思う。

◆その後の米国

本書は1970年代の米国社会の状況を分析しているが、その後の米国はベルの望んだ方向にはいかなかった。本書が書かれた70年代はベトナム戦争を背景に社会は分裂し、混迷の時代であった。ベルはリベラルの立場から、ベトナム戦争への静かな怒りを本書の所々に散りばめている。81年、レーガンが大統領に就任し、新保守主義による「小さな政府」を唱え、徹底した規制緩和を進めるとともに、大幅減税による経済刺激政策を実施した。同時に、強いアメリカの回復を目指して対ソ強硬策をとり、軍拡競争に走ったため「双子の赤字(財政赤字と経常収支赤字)」に苦しんだ。しかし、89年に冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦の解体と東欧諸国の民主化が続いた。当時、資本主義と民主主義の勝利といわれたが、社会主義の自壊と考えるべきであろう。

冷戦に勝利した米国は、唯一の大国として90年代の繁栄を謳歌(おうか)する。経済のボーダーレス化はさらに進み、「グローバル化」の時代を迎えていた。その一番の勝者は、米国であった。自信満々の米国は、自国の基準を世界に押し付けた。米国の傲慢さが、「9.11」の土壌となり、アフガニスタン介入、イラク戦争の泥沼にはまり込んでいく。経済面では、金融工学の発展を背景に、より大きな収益を得るために金融資本主義にのめり込んでいく。リーマンショックで露呈したのは、金融界の人間のモラルの凄まじいまでの崩壊である(=文化の崩壊)。経済回復のために取られた金融緩和政策は、経済格差の一層の拡大を招き(=経済の矛盾と政治の無力)、米国社会の分裂はむしろ深化しつつある。

◆日本における文化的危機

ベルの危機感とその処方箋(せん)を見た。これをそのまま日本に当てはめることはできない。ベルが前提とする米国社会と日本社会では、歴史、文化、宗教的背景が違うからである。しかし、こうした違いを念頭に置いて、現代日本社会に通じる部分を抽出していく作業は、我々が直面する問題を考える上で重要だと思う。

現代日本の課題を要約すれば、「経済」においては、グローバル競争が求める利益極大化要請と経済合理主義の徹底が生み出す過剰管理が、過重なストレスとなって、「豊かであるが幸福感の乏しい社会」を現出していること。「文化」においては、戦後民主主義とともに輸入された近代主義文化の影響を受けて、「自由」や「個」という基盤が不十分なまま、「自分らしく生きる」という呪縛にとらわれて自らを疲弊させ、孤立させていること。「政治」においては、資源の制約を前提とした調整機能を放棄し、すべての政党が、今や「錬金術」となった政府支出の分配を競う場と化してしまっていることである。

日本の社会の現状認識について具体的な例をあげて考えてみたい。先日、あるシンクタンク発行の雑誌を読んでいて、米国企業の日本法人の経営幹部とシンクタンクの理事長の対談記事が目に止まった。典型的なグローバルエリートである経営幹部は、経営資源とは「人・モノ・カネ・情報」だと思っていたが、あるグローバル企業の経営者に、もう一つ「時間」も加えるべきだと教えられたという話を紹介していた。米国人と比較して日本人ホワイトカラーに最も欠けているのが「時間観念」であるということを伝えたいのだと思う。この記事を見て、「その通り、そうでないと米国企業に勝てない」と思う企業人の自分と、「勘弁してほしい」と感じるもう一人の自分に気がついた。現代資本主義が企業人に求める基準は、どんどん高くなっている。人間を逃げ場のないところまで追い込んでいる。この際限なくエスカレートしていく経済の規範に耐えられる者だけが勝者となり、残りの「99%」が落ちこぼれていくという社会。企業人としての「私」は、この資本の論理を否定できないことを知っている。そうでないとグローバルな競争に勝てないからだ。しかし同時に、人間である「私」は、人間らしく生きたいという思いを持っており、両者の葛藤に悩むことになる。

そうした悩みを抱えながら仕事を続けてきたが、本書の「償還」という言葉が「救い」へのヒントを与えてくれた。それは、現在の繁栄は過去から引き継いだ遺産の上に築かれており、次の世代への引き継ぎが社会への「償還」だということである。こうした目的意識を「生きる」ことにつなげていくことから歩み始めるしかないと考えている。

◆最後に

現代社会において、経済は「機能性」を、政治は「平等」を、文化は「自己実現」を原則としている。社会は三者の融合体である、その中で生きるということは、三者の相互矛盾に不可避的に直面する。最も大きな葛藤は、機能性(経済合理性)の徹底という資本の論理に対し、人間らしく生きたいという文化の衝突の中に生まれる。経済が我々に豊かさをもたしてくれたおかげで、自己実現を目指す余裕ができたわけであり、そうした我々に、経済の仕組みを大きく変える覚悟があるのかと問われれば、答えに窮してしまう。また、資本主義経済の発展が「貧困」や「不況」の影響を軽減した一方で、「不平等」が拡大して、政治が求める「平等」という規範と対立している。だが、不平等を緩和するための政府支出が財政の制約を受けるため、政治は「成長」という魔法の言葉を使って時間稼ぎをしている。「成長」を求めながら、不平等を拡大しないような「資本主義的経済成長」は、可能なのであろうか。

このように、経済と文化の対立、経済と政治の対立が深刻化しているのが現代社会である。対立の根底にある「資本主義」そのものを見直すべき時期なのかもしれない。

今回、資本主義の基本的問題の社会的側面について考えた。次回は、ウィリアム・バーンステイン著『「豊かさ」の誕生———成長と発展の文明史』を題材にして、我々が陥っている成長至上主義の源泉をたどってみたい。

<参考図書>
『資本主義の文化的矛盾(上)(中)(下)』ダニエル・ベル著、林雄二郎訳(講談社学術文庫、1976年)

※『視点を磨き、視野を広げる』過去の関連記事は以下の通り
第2回 『ゆたかな社会』―“資本主義の諸問題の一考察”
https://www.newsyataimura.com/?p=6360#more-6360

第1回 『大衆の反逆』―「進歩主義への懐疑」
https://www.newsyataimura.com/?p=6225#more-6225

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