「移民の国」の日常
シドニーを歩く(その2)
『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第22回

11月 04日 2025年 国際, 社会

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元記者M(もときしゃ・エム)

元新聞記者。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。

◆ジャカランダの木の下で

シドニーの街に本格的な春の到来を告げるジャカランダの紫色の花がいま(11月初め)、満開の時期を迎えている。私たちが9月半ばに来た時にはまだ、シドニーの市花に指定されているこの花の開花はまばらで花びらの紫色は薄く見えたが、1か月が過ぎると街の中心部でも郊外でも、特に青空にまばゆく映える濃い紫色のラッパ状の花を公園や庭先、街路樹などいたるところで見ることができる。

ちょうど日本のソメイヨシノのような存在だが、日本の国花が短命なのに対し、シドニーのジャカランダはこれから夏の初めの12月初旬ごろまで楽しめる。南米原産というが、シドニーの街や公園を美しく紫色に染め上げるこの花はこの時期のシドニーを彩るのに欠くことのできない存在で、その木の下を歩いているとなんとも幸せで、すがすがしい気分になる。

その香りだが、花にあるのか木にあるのかよくわからないが、かすかにバラの香りがする。ジャカランダの並木の下を歩いていると、気のせいか、まるでアロマオイルを何滴か垂らしたような空間の中にいるようだ。

調べてみると、ジャカランダの花はアロマエッセンスや香水の調合香料として使われているが、その効果は、優柔不断で何も決めることができない人▽集中力に欠ける人▽常に気持ちが変わる移り気な人――などに向いているらしい。いずれも、私とは対極の人物向き(?)だと自分では思っているが、その下を歩くと視覚的にも幸せな気分に浸れることはまずまちがいない。

ジャカランダの花を水彩画で写生する女性。この光景そのものが1枚の絵のようだ=シドニー・モスマンベイワーフ近く 2025年10月27日 筆者写す

◆路線バスに乗って

オーストラリアの学校はほとんどの地域で4学期制を採用しており(年度は1月末に始まり、12月に終了)、シドニーのあるニューサウスウェールズ州では9月末の3学期終了後、約2週間のスクールホリデー(学校の休み期間=春休み)を挟んで10月13日から年度最後の4学期が進んでいる。

こちらに来た9月半ばは春休みに入る直前で、休みになった途端、朝夕のラッシュが解消した。児童・生徒はスクールバスや親が運転するマイカーで登下校しているが、始業時の午前8時前途と下校時の午後3時前後になると学校周辺の道路は一時的に大渋滞となる。

私は毎朝、ウォーキングのスタート地点に行くためにバスや電車、フェリーなどの公共交通機関をプリペイド式の交通系ICカード「オパールカード」(JR東日本のSuicaと同じ)を利用しているが、4学期が始まってからは特にバスの場合は通学・通勤ラッシュを避けるために早起きして午前6時台のバスに乗ることもある。

バスの乗降は日本のように車内アナウンスなんてないからなんとも不安で、シドニーで本格的な「回遊生活」を始めた2024年3月時点では、事前に調べておいた場所でしかできなかった。ところが、義妹に教えてもらった無料のアプリ「TripView Lite」のおかげでだんだん慣れてくると、シドニー市内はどこでも自由自在に行けるようになった。

シドニー市内のすべての公共交通機関の時刻表データが網羅されていて、バスならルートと停留所ごとに、電車とライトレール(路面電車)なら路線と駅ごとに、フェリーならワーフ(埠頭)ごとに地図付きで、それぞれリアルタイムで発着時間が表示され、時間通りか、遅れがある場合はどれほどの遅れかなども一目瞭然(いちもくりょうぜん)である。

特にシドニー市内の場合、バスは市民にとって最有力の移動手段だが、中心部はルートが複雑に入り組んでいるし、大きな鉄道駅の周辺の停留所は行き先ごとに場所がかなり離れている。しかしほぼ毎日乗り降りを繰り返していると、今ではルート番号だけでバスが走行しているおおよそのエリアがわかるようになった。

最初にバスを使い始めた2019年ごろ、停留所でバスを待っていたところ、乗ろうと思ったバスが目の前をそのまま走り過ぎてしまったことがあった。家に戻って、義妹に「バスの運転手に無視された」と文句を言ったら、「お兄さん、乗りたいバスが来たら手を挙げないと停まってくれないわよ」と笑われた。

なるほど、停留所は1か所でもさまざまなルートを走るバスの共通の停留所になっているから、降車する客がいない限りこちらが合図しないと停まってくれないわけだ。当時の私は、保護者の付き添いがないと1人では乗れない子どもと同じだった。

◆ポーランド出身の遠い親せき宅で

先ごろ、シドニーの北郊に住む妻の姪(めい)夫妻からランチに誘われた。2人は大学の同級生で今年2月にビエンチャンで、3月にバリ島で結婚式を挙げたばかりだ。姪のJはビエンチャン生まれだが小学生の時にシドニーに移住し、現在もシドニーに住んでいる。夫のKとは知り合ってから10年以上になり、私たちとも旧知の間柄である。Kはポーランドからの移民2世で、ビエンチャンでの式にはポーランドからも大勢の親せきや友人が参加していた。

この日のランチ会はKの両親宅で行われた。私たちはビエンチャンでの結婚式以来の再会だったが、式のあとJとK夫妻の計らいで「ラオス中国高速鉄道」(LCR)に乗って観光地のバンビエン、古都ルアンパバーンを巡る3泊4日のラオス観光旅行にいっしょに参加したのをきっかけにフェイスブックで連絡を取り合うようになり、Kの両親から自宅に招かれたのだった。ポーランドは私にとってなじみのない国だったが、JとKの結婚のおかげで興味が生まれた。

2021年の調査によると、ポーランドにルーツを持つオーストラリア市民や居住者は20万人を超え、そのうち約4万6000人がポーランド生まれだという。Kの父親Tと母親Aは私とほぼ同年配で、Aは17歳だった1977年に、Tは22歳だった81年にそれぞれオーストラリアに移住し、シドニーのポーランド・コミュニティーで知り合って結婚した。

ポーランドは第2次世界大戦後、ロンドン亡命政府と共産主義系解放委員会が挙国一致政府を作って独立。しかし、ソ連(当時)に近い統一労働者党(共産党)が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となった。2人はその時代を別々にポーランドで生きていたがやがて生活に行き詰まり、Aは父親と共に、Tは難民としていったんパリに移り住んだ後、友人と共にオーストラリアにやってきた。

当時のポーランドは生活苦にあえぐ労働者が各地でデモやストライキを行い、自主管理労組「連帯」がワレサ(83年ノーベル平和賞受賞、のちのポーランド大統領)を指導者に民主化運動を始めた時期だ。特にTがパリを経由してシドニーに移り住んだ81年は、私が大学を卒業して記者として働き始めたちょうど同じ年である。私はピザ職人顔負けのKの焼いた手作りのピザをほお張りながら、Tの話に相づちを打ちつつ興味深く聞き入った。

ポーランドはその後、1989年に憲法が改正され、国名をポーランド共和国に変更。政治的には左派・右派の政権交代が相次いでいるが、経済発展と西ヨーロッパへの復帰は順調に進み、1999年にはNATO(北大西洋条約機構)に、2004年にはEU(欧州連合)に加盟した。その歴史も、私自身の記者生活を振り返りつつ、東京経済部~長崎支局~東京社会部~東京外信部~サンパウロ支局~東京外信部~バンコク支局と異動してきたそのときどきと照らし合わせると、ポーランドの歴史の流れの中に私自身もいたような妙な錯覚に陥った。

ポーランドはロシアのウクライナ侵攻から3年以上が経過し、100万人以上のウクライナ難民を受け入れている。6月の大統領選ではウクライナ避難民への補助金削減などを公約に盛り込み「自国第一主義」を掲げたナブロツキ氏が当選した。私はAがナブロツキ氏の当選を喜んでいることを彼女のフェイスブックで知り正直、少なからず驚き、落胆もした。かつて移民としてオーストラリアに渡ってきた彼らがオーストラリアの国籍を得て定住した今、母国ポーランドの「自国第一主義」に傾斜していることがどうしても腑(ふ)に落ちなかったのだ。

この日のランチ会ではせっかくの団らんに水を差す気がしたので、そのことに敢えて言及はしなかった。

◆反移民デモの深層

オーストラリアは名実共に「移民の国」である。人口は1935年に675万人だったが、2024年6月には推定2720万人と4倍超になった。その理由は、移民の増加にある。

豪州政府統計局(ABS)のまとめでは、2021年9月の時点で、海外で生まれた者または両親のどちらかが海外で生まれた者(移民)は、総人口に占める割合が5割を超え(51.5%)、両親のいずれもオーストラリア出身かつオーストラリアで生まれた者(48.5%)の割合を上回った。

ABSによれば、人口増加率は2010年代を通して1%台で推移していたが、20年のコロナ感染拡大によるロックダウンで、外国人留学生など多くの長期滞在者が母国に帰国し、移住者の受け入れを停止したことから急低下。その後、経済再開に伴って移住者が急増したため上昇した。しかし、移住者の急増でインフレや住宅不足が深刻化し、連邦政府が23年末以降、学生ビザの審査を厳格化するなど移民受け入れを縮小し、伸び率はスピードダウン。それでも、2030年には3000万人超の人口が見込まれ、71年までに現在の約7割増の最大約4600万人に増加する試算もある。

一方で最近、物価高騰や住宅不足の中で反移民感情の高まりの動きが見られる。8月末には豪州各都市で大規模な反移民デモが行われた。主催団体「March for Australia(オーストラリアのための行動)」は、移民の増加がオーストラリアの団結や文化、信頼を損なっていると主張。オーストラリアの未来を守るための行動だとし、デモの参加者の中には極右的な思想を持つ者もいれば、物価高騰や住宅危機などの経済的問題を理由にする者もいた。

10月半ばにも、規模は小さかったものの同じ主催団体によるデモがシドニーなどであった。特にインド系住民を中心に人種差別的嫌がらせや暴力の懸念が強まっており、公共放送ABCによれば、シドニーでは街中(まちなか)で侮蔑的な言葉を浴びせられ「歩くのも怖い」と感じるインド人がいたほか、同様の不安は他のインド系住民やSNS活動家にも広がっている。デモではインド系コミュニティーを標的にしたチラシや誤情報が配布され、白人至上主義的な投稿も共有されていたことが確認されているという。

こうした反移民デモは1970年代以降公式政策として定着してきた多文化主義を揺るがせ、社会の分断を生む恐れがある。アメリカのトランプ大統領が主張する「自国第一主義」と、その影響を受けた欧州各国の保護主義的な動きと軌を一にする動きとみられる。ただし、移民と住宅危機の直接的な因果関係は学術的には証明されておらず、住宅建設の遅れや規制が主な要因とされている。

移民や少数民族への人種差別を減らすために「人種リテラシー(racial literacy)」教育の重要性を指摘する専門家もいるが、現在進行形の「移民の国」でどこまで効果があるか疑問である。

大学生と高校生の姪にそれぞれ、最近のシドニーでの反移民デモついて聞いてみた。「オーストラリアは移民で成り立っている国」「早く来た移民が遅れて来た移民に『ノー』というのはどう考えてもおかしい」――。じゃあ、インド人の友だちは? 「私の周りはスマートな人ばかり。到底、勝てない」「私のクラスでトップは両親がインド出身の子」「クラスメートにいちいち『ルーツはどこ?』なんて聞かない。仲がいいか、ふつうか。それだけ」――。

ちなみに、2人の姪の父親は両親が中国系ミャンマー人でマンダレー生まれ、母親は両親が中国系ラオス人でビエンチャン生まれ。父親は大学からオーストラリアに留学、母親は小学生の時にタイの難民キャンプを経て家族と共にオーストラリアにやってきた。

シドニー市内の集合住宅で知り合った父親と母親の間に生まれた姪たち2人は、自分たちはオーストラリア人で、そもそもルーツがどうだの、移民がどうだのなどとはまったく思っていないようである。(文中一部敬称略)

「人種差別を歓迎しない」というメッセージはシドニーの市内各所で見られる=シドニー東郊のクージービーチ 2025年10月30日 筆者写す

※『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』過去の関連記事は以下の通り

第21回「一日のうちに四季の移ろい―シドニーを歩く(その1)」

https://www.newsyataimura.com/kisham-24/#more-22746

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