п»ї 「障がい」テーマの各国映画で見えるもの(下) 『ジャーナリスティックなやさしい未来』第98回 | ニュース屋台村

「障がい」テーマの各国映画で見えるもの(下)
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第98回

1月 11日 2017年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

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コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。

◆絶望はない米国

第97回で今回の「障がい」をテーマにした映画5作品である「17歳のカルテ」(米国)、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」(スウェーデン)、「人生、ここにあり」(イタリア)、「オアシス」(韓国)、「あん」(日本)の紹介を受けて、障がい者視点で考えてみたい。

それぞれの映画で中心的な存在となっている「ケアされるべき当事者たち」の取り巻く環境は立場によって違いがあるのは当然であるが、どの作品も、主人公が社会における自己(主人公)の立場の不安定性という問題を抱えていることは共通であろう。「17歳のカルテ」で描かれているのは、当事者である女性の心の葛藤だった。疾患にならず有名な大学に進む周辺の人たちとの対比も描かれているが、それは主題ではない。あくまで比較の上でのエピソードととれる。そこから当事者は何を選択し、何に向かうのか、への視点は絶望視させない米国映画らしくもあるが、それが同時に米国という国家や社会の当事者への見方なのだろう。

◆社会の覚悟と社会進出

その視点がさらに温かいのは「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の少年を取り巻く大人たちである。それぞれに欲望を抱えながらも、社会は子供の成長を引き受ける、という社会の覚悟は、山間の片田舎で静かに、そして確信的に根付いている。

特に印象的なのは、常に屋根の修理をやり続けている「おかしな古老」(精神疾患者だと思われる)は、村民全員の嘲笑の的のような存在なのだが、真冬に池に飛び込み、姿が見えなくなると、途端に住民たちは心配し慌てふためき、そしてケアするのである。ここには空気のようなケアがあるのを実感させられる。

「人生、ここにあり」は、精神病院をなくしたイタリアのミラノでの、理想と現実の狭間(はざま)を描いたもので、労働組合運動と結びつき、ミラノという都市と結びつき、資本主義と結びつく点では、イタリアの精神疾患者の挑戦なのだが、国よっては悲観的になってしまいそうな設定は、イタリアという国の楽観性なのか、見ていて痛快だ。登場する精神疾患者の若い男性が「社会」に進出することで、一般の女性を恋し、ふられ、自殺する場面があるが、これは疾患の問題ではなく、男女の恋の切なさを表現しているようで、それこそが「社会進出」であるというメッセージにもとれる。

◆「恨」のエネルギー

最後に韓国の「オアシス」と日本の「あん」を比較すると、前述の3作品に比べ、東アジアの国特有の固定化し閉塞(へいそく)した社会規範の中で、普通でない人の生きづらさについては共通であるが、映画の表現として、人間の尊厳という普遍的なテーマを投げつける方法はまったく違う。

オアシスの投げかけ方は、いわゆる「恨(ハン)」と呼ばれる韓国国民特有の「魂」の叫びのようなものが内在しているのに対し、日本では、そのような爆発する発火点もないまま、ただ諦観する姿勢と浄化がテーマとなっている。

私は以前、日本と韓国の研究者や学生がそれぞれの国の映画を観て、それぞれの観点からディスカッションし文化理解を促進する「円卓シネマ」に参加した。その際、韓国の映画作品として取り上げた「風の丘を越えて―西便制-」 をめぐり、日韓では映画への評価が分かれ、日韓の参加者の意見を翻訳し取りまとめた。そして最終的に論考にした際に、その日韓の違いは、「恨(ハン)」とは「恨み」ではない、と理解しつつ結局は、恨への「理解か」「無理解か」であると暫定的に結論づけたことがある。

筆者はその中で「恨は魂であり、礼であり、恨を解くことは厄を払うことである、理解のてがかりになりそうだ」と締めくくったのだが、オアシスに一貫して流れるのは、この「恨」である。主人公らにあるのは自分たちを阻害する社会への恨、そして自分たちの運命への恨。この恨が重なり合わさった時に、二つの恨は融合し、大きなエネルギーとなって社会に何かを問いかける。それは日本にはない。

◆愛情表現の未来

浄化というテーマは似ているが、それは自然科学的な方法と密接に関わりあっているようで、映画の終盤で死期の近い徳江は、ハンセン病患者として隔離され、社会に出られなかった過去を淡々と語るのだが、それは自然の一部に自分の存在を浄化させることで、達観できるものだと、映像は訴えている。

「ケアメディア」なる言葉を推奨している立場で「ケア」の表現という視点から見れば、韓国の彼らは自らのケアのために、自らを解放するために、そのエネルギーを存分に発揮するが、日本のケアは非常に分かりづらい。

これは日韓のマスメディアのスタイルにも通じるようで興味深い。韓国の動、に対し日本は静。外交的なエネルギーと内省的なエネルギー。こう考えた場合、ケアとは内省的な行動に近いから、日本では表面化が難しい。これがメディアにケアが「うまく乗らない」原因であるような気がしてならない。

それは社会全般にも言えることで、愛情行動としてケアが位置づけられるはずなのに、積極的に表現するコミュニケーションな苦手な典型的な日本人は、いつしか、愛情行動においては不器用になってしまった。

この現在地からどうしていけばよいだろうか。

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■精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/
■ケアメディア推進プロジェクト
http://www.caremedia.link
■引地達也のブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kesennumasen/

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