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職業からの自由と社会
『みんなで機械学習』第22回

6月 05日 2023年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニング®のビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

◆制作ノート

英国の経済学者エルンスト・シューマッハー(1911~1977年)の「スモール イズ ビューティフル」における中間技術の提案を、「みんなの機械学習」として実現するため、「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」という拙稿を連載している。前稿では、「みんなの機械学習」がめざす近未来を、サイエンスフィクション(SF)のような物語にしてみた。特に、中小企業の経済的な問題意識からの提案を工夫している。「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」は途中の画像以降なので、制作ノートに相当する前半部分は、飛ばし読みしてください。

「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」のゴールは、結論を論理的に構築することではなく、生活世界において、データの世界との共存・共生・共進化に希望を実感することにある。近代的なモノの価値を問う経済から、コト(サービスなど)の意味を重要視する経済への移行を時代背景として、近未来のデータサイエンス テクノロジー アンド アート(データの世界)が、人類の文明論的な変革をもたらす夢物語を、少なくともディストピアとはしない、複数の探索路を切り開こうとしている。物語のゴールにおいては、意味が認知される以前の「データ」そのものが、みんなの機械学習によって、「言語」とは別の、文明の道具になるだろう。

◆共同体がなくなり組織しかない社会

ひとびがAI(人工知能)と共存・共生・共進化する社会は、現代社会の延長、すなわち、共同体がなくなった社会で、社会が組織や国家のルールやサービスでしかなくなった社会なのだろうか。2016年に閣議決定された「ソサエティー5.0」は、そのような社会のことなのだろうか。第5期科学技術基本計画において、我が国が目指すべき未来社会の姿として初めて提唱された「ソサエティー5.0」は、経団連(日本経済団体連合会)の中西宏明会長(当時)が提言・推進活動を行ったことでも有名だ。「ソサエティー1.0」は狩猟社会(筆者注:1万年間の縄文時代における里山・里海の採集社会は、狩猟社会というよりも、高度な定住社会だった)、「ソサエティー2.0」は農耕社会(同:共同体がある社会)、「ソサエティー3.0」は工業社会(同:共同体が破壊されて、都市に人口が集中する社会)、「ソサエティー4.0」は情報社会(同:巨大IT企業や覇権国家がルールやサービスによって個人を直接コントロールする社会、組織しかない社会)、そして「ソサエティー5.0」はAIが活躍する社会で、ひとびとの創造性(クリエーション)と想像性(イマジネーション)によって、人間中心となる社会らしい。まず間違えてはいけないことは、「ソサエティー5.0」になっても、「ソサエティー4.0」までのソサエティーがすべてなくなるということではなく、「ソサエティー5.0」の技術やサービスによって、「ソサエティー4.0」までのソサエティーの課題を解決する必要があるということだ。共同体がなくなり、組織しかない社会が問題かどうかは別問題としても、階級社会がなくなり、貧富の格差で分断された社会となって、社会的課題が増加して、深刻度も増大しているように思われる。もちろん、「ソサエティー5.0」も新しい問題を作るので、社会的な課題解決はかなり大変な仕事になる。

◆人間中心の社会は危険だ

ほぼすべての宗教家が同意すると思うけれども、人間ほど危険な動物はいないだろう。アウシュビッツやヒロシマを考えなくても、人類はすでに暴力性のシンギュラリティ―を超えてしまった。知力において人間を超えるAIを周辺に置いて、人間が中心となる社会がうまく運営できるのだろうか。筆者であれば、躊躇(ちゅうちょ)なく、AIを中心に置いて、多数のAIを相互に監視させ、人間は周辺で自由に生きたいと思う。すなわち、「ソサエティー5.0」は科学技術の向かう方向であったとしても、AIと共存・共生・共進化する社会のあり方を慎重に議論したものとは言い難い。「共存・共生・共進化」は筆者が好むフレーズで、生物学的な意味が明確であるため、思考実験の大切なツールになっている。言葉の意味は明確でも、その内容まで解明されているわけではない。最近、とても重要な課題と思うことは、ウイルスとの共存・共生・共進化について再考することだ。筆者の死後になるかもしれないけれども、AI技術によってウイルスとの共存・共生・共進化を実現することが、AIと共存・共生・共進化する社会の、最も現実的なイメージになるかもしれない。過度に過密化した人間中心の社会は、ウイルスによって容易に破滅するだろう。

◆数字の世界

数字で考えてみよう。人類の人口を100億人とすると、各個人は1/1010に相当する。個人の重み、1/1010は軽いのか重いのか。一方で、各人の体を構成する細胞の数は、37兆個と見積もられている。現在の生物学は、細胞生物学であって、細胞を生命の単位とみなしている。人間は多細胞生物であって、膨大な数(1013のオーダー)の細胞が共存・共生している。最近よく話題になるチャットGPTは1000億個(1011)程度のモデルパラメーターを最適化したものらしい。大まかなイメージがつかめただろうか。近代の個人主義思想の限界は明らかだ。学校の化学で学ぶモル数はおよそ6.02×1023個、最大の有限単純群であるモンスター群の対称性は、およそ8.08×1053個であって、自然を理解しようとする人間の想像力は、自身の細胞数(脳神経細胞を含む)やAIのパラメーター数を、はるかに超えている。現在のパソコンは64ビットで、1020のオーダー、インターネットアドレス(IPv6)で使われる128ビットの場合は、1039のオーダーになり、AIを支えるコンピューター技術としては、まだまだ余裕があるといえなくもない。数学では、無理数や実数のように、無限集合も論理的に取り扱えるようになったので、128ビットのコンピューターであっても、人間の想像力には全く追いつかないと考えるとすれば、それは単純すぎる。最も精密な代数学において、有限単純群が基本であって、連続群は特殊な例外でしかない。無限は強力な道具ではあっても、有限な数学的構造のほうが無限よりもはるかに個性的で豊かだ。128ビットのAIは、22.4リットルの気体(1モル)の中の1つの分子まで識別できる。人間の言語能力をはるかに超えて、自然現象の統計的な性質まで計算可能になるということだ。すでにタンパク質の立体構造予測において、グーグルのアルファフォールド2が、結晶構造の詳細にせまる予測精度を実現している。さらに、量子コンピューターが、計算可能な世界を、人間の論理を超えて、量子の世界まで拡大しようとしている。

◆量子力学はデジタルの世界

現在のコンピューターは、人間の論理を動作原理とする、デジタルな世界だ。情報技術がアナログからデジタルへと進化したのは、その処理スピードが最大の要因だろう。パソコンでも1秒間に109回演算するその処理スピードは、並列計算を工夫すれば、スーパーコンピューターの1016(京)ぐらいまで高速化できる。パソコンの記憶容量は1012バイトのオーダーだ。AI技術は、これらの普及したデジタル技術によって支えられている。一方で、量子コンピューターはこれからの技術であって、デジタルコンピューターでは難しい、特殊な問題を、超高速に計算することが期待されている。量子力学は、人間の論理的な理解力を超えていて、計算可能だけれども意味不明な世界でもある。例えば、電子や光子が、粒子でもあり波動でもあるということは、デジタルでしかもアナログという意味だ。波動という連続関数が計算の対象となっているので、本質的にはアナログで無限ビットの計算とも考えられる。しかし、計算結果を出力するときには、「測定」が必要で、粒子の性質、確率分布をともなうデジタルになる。計算原理は別問題として、量子コンピューターは、やはりデジタル計算機なのだ。筆者は、自然の世界は、すべて瞬時の計算(計算時間ゼロ)で動いていると考えている。ニュートンのように、人間が理解できる美しい物理法則を無前提に仮定するよりは、同時代のライプニッツのように、神(すなわち自然)の万能な計算能力を信じるほうが人間としてはふさわしいだろう。その神は、時間のない世界に住んでいて、量子コンピューターのような、瞬時のアナログ・デジタル変換を行い、瞬時にサイコロを振る。人間には時間が必要な計算であっても、「神すなわち自然」にとっては、計算に時間は必要ない。「神すなわち自然」と喝破した同時代のスピノザは、生活のための仕事、レンズ磨きの直感によって、量子が測定される前のアナログな世界に住んでいて、神とともにあり、現世の確率の世界(もしくは、測定後のデータの世界)とは無縁だったのかもしれない。

◆職業からの自由

スピノザが、レンズを磨いて収入を得ていたとしても、スピノザは17世紀の哲学者以外の何物でもない。スピノザは、哲学者としては、デカルト、スピノザ、ライプニッツと続く近代合理主義の2番バッターだ。哲学の自由を追求して、中世から近代への扉を開けた社会の変革者で、教会権力から出版停止処分となる異端者でもある。スピノザとライプニッツは、デカルトの哲学を鋭く批判したけれども、残念ながら、近代の歴史はデカルトの思い描いた人間中心主義が主流となり、スピノザの自由は、スピノザの信じた神とともに、傍流または地下水流となった。近代社会が行き詰まり、社会問題を山積みにするだけで、解決の糸口が見えない現代にあって、筆者は、近未来のデータサイエンスおよびAI技術に望みを託(たく)している。そのような近未来の社会を、スピノザが思い描いた、あり得たかもしれないもう一つの近代まで遡(さかのぼ)って考えている。筆者の見立てでは、ライプニッツの哲学は、スピノザの自由を受け継いでいたけれども、権力志向のライプニッツは、スピノザの危険思想を隠し続けた。ライプニッツはニュートンとは比較しようもない、数学の大天才でもあり、微積分学だけではなく、二進法の万能計算機(コンピューター)も発明している。スピノザとライプニッツが考えた「合理性」は、神が死んだ300年後のAIの時代になって、AIと共存・共生・共進化する哲学の出発点になるだろう。筆者が本稿で考えたいのは、AI時代における職業の問題だ。AI技術が人間の言語能力を超えた時代において、言語に依存した仕事の生産性が飛躍的に向上し、サービスも向上するけれども、多くの雇用が失われるだろう。宗教家、政治家、芸術家などの古典的な職業は、「ソサエティー1.0」からあったはずで、「ソサエティー5.0」になっても、必要かどうかはわからないけれども、なくなりそうもない。

◆認知機能の機械学習

日本政府や経団連が構想した「ソサエティー5.0」は、現在進行形だ。AI技術において、米国と中国に大きく後れを取った日本において、経済力の地盤沈下も止まる気配がなく、先進国の仲間と言い難い状況になりつつある。前稿で、みんなで機械学習をして、文明論的な意味で、AI社会を先回りするシナリオについて空想した。筆者としては、戦後の貧しい日本を知っているので、経済力の地盤沈下はあまり気にしていない(戦争は大いに気になる)。しかし、近未来のデータ文明に期待したくても、先回りどころか、みんなの生活全体が、巨大IT企業や覇権国家の経済的な支配下になってしまうかもしれない。近未来の社会を空想はできても、先回りして社会変革をすることは実現できそうにない。本論からは脱線するけれども、日本の経済的な状況をもっと具体的に考えて、みんなで機械学習をすることで、世界、特に中国に先回りする作戦を、空想ではなく、ビジネスとして考えてみた。日本と中国は、急速に少子高齢化する社会で、認知症や介護の社会的な負担が、未来への重荷となっている。高齢者の認知機能を機械学習することで、この社会問題への解決案が得られるのであれば、中国との経済競争および政治交渉にとっては、ゲームチェンジャーとなるだろう。具体的な提案は番外編として、次稿で議論してみたい。

(量子力学の2重スリット実験 https://www.hitachi.co.jp/rd/research/materials/quantum/doubleslit/index.html)

『スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル』

1   はじめに; 千個の難題と、千×千×千×千(ビリオン)個の可能性

1.1 個体差すなわち個体内変動と個体間変動が交絡した状態

1.2 組織の集合知は機械学習できるのか

1.3      私たちは機械から学習できるのか

2   データにとっての技術と自然

2.1 アートからテクノロジーヘ

2.2 テクノロジーからサイエンス アンド テクノロジーへ

2.3 データサイエンス テクノロジー アンド アート

2.4 データサイクル

2.5 データベクトル

2.6 局所かつ周辺のベクトル場としてのデータとシミュレーション

3  機械学習の学習(前稿)

3.1 解析用データベース

3.2 先回りした機械学習(前稿)

3.3 職業からの自由と社会(本稿)

最近では、インターネットからさまざまな知識を得ることができる。たとえば、職業の自由(正確には職業選択の自由)について、憲法でどのような記載があるのか、どのような判例があるのかなど、すぐに調べることができる。しかし、職業が階級制度の基盤となっていたこと、選挙制度においては、票田(ひょうでん)を世襲する慣習が禁止されていないため、政治家という職業において、保守的なバイアスが生じている。このような、職業の自由に関連する話題は、簡単には検索できない。チャットGPTであれば、質問を工夫すれは、職業の自由について、大学入試問題への回答レベルの文章を数分で作成するだろう(実際は試していません)。筆者としては、大学入試の時から、職業選択の自由と不自由が交錯している経験をしているので、チャットGPTの作文が合格レベルであったとしても、筆者自身の問題意識には関係ない(過去の体験に関係しようもない)。簡潔に結論から逆推論しよう。筆者は、専門性や生産性を向上するための分業に疑問を持ち、分業は自由に生きる「自由」そのものを阻害していると考えている。

第5期科学技術基本計画において、日本が目指すべき未来社会の姿として「ソサエティー5.0」が提唱された。「ソサエティー1.0」は狩猟社会、「ソサエティー2.0」は農耕社会、「ソサエティー3.0」は工業社会、「ソサエティー4.0」は情報社会、そして「ソサエティー5.0」はAIが活躍する社会で、ひとびとの創造性(クリエーション)と想像性(イマジネーション)によって、人間中心となる社会らしい。「ソサエティー1.0」において、宗教家や政治家という職業があったとしても、分業が本格化するのは「ソサエティー2.0」であって、日本でも諸外国でも農家や軍人などによる階級社会が形成され、階級社会によって、職業選択の自由が否定された。「ソサエティー3.0」の工業社会になって、工場労働者が必要になったとき、土地や家族に束縛された職業による階級制度は変質して、都市へ住居を移動する自由と引き換えに、無産者階級が出現した。労働力を売って生活する労働者にとって、失業を避けるためには、職業選択の自由は有名無実になる。「ソサエティー4.0」の情報社会においては、工場労働者は生産プロセスの自動化で必要性が少なくなり、知的労働者やサービス産業従事者の必要性が増加した。農業が組織化された職業となり、社会から共同体がなくなって、巨大IT企業や覇権国家がルールやサービスによって個人を直接コントロールする社会が情報社会だ。情報社会においては、医師、弁護士、大学教授や企業経営者、政治家など、組織の支配レベルのひとびとが、高度な分業社会において、専門的な言語能力を発揮して活躍している。チャットGPTの言語能力は、「ソサエティー4.0」の支配者たちの言語能力を超えてしまったように思われる。そうはいっても、歴史に残る詩人や文学者の言語能力は、当分の間(1000年以上?)、AIでは代替できないことは言うまでもない。

AIが活躍する「ソサエティー5.0」において、ほぼすべての労働者の仕事がAIのものとなり、組織を支配する専門家の仕事も、AIによって大幅に合理化されることは確実なので、ひとびとは仕事をしないで、自由に生きてゆけるのだろうか。組織を支配する専門家たちの仕事がパーフェクトであって、あらゆる問題を解決できるのであればYESかもしれない。しかし、国際連合の「持続可能な開発目標」(SDGs)を見ればわかるように、未解決の社会問題は増加し、深刻化している。ひとびとは、AIよりも賢くなって、近代的な社会システムそのものを変革してゆかない限り、人類と地球の未来はない。うそと真実の区別もできないチャットGPTよりも賢くなるのは簡単だ。分業化された専門的知識の言語表現はチャットGPTにまかせておいて、ひとびとは、分業化できない非言語的な表現、すなわちデータの世界において、うそと真実を判定する。さらに、データの世界において、社会課題を解決する糸口(または探索路)を発見する「冒険者」となる。20世紀の米国は、文化的に洗練された欧州から見れば、粗暴な開拓者だった。洗練された言語を操(あやつ)るAIも必要だけれども、冒険は文明のエッジ(周辺)において、文明を俯瞰(ふかん)(積分)する、開拓者たちの仕事だ。1000個の専門化した職業がAI化したとしても、二つの専門化した職業をつなぐ職業が100万個発生して冒険者を待っている。残念ながら、仕事は終わりそうもない。

現在の職業の根本的な問題は、労働市場が決定する「時給」にある。組織を支配する専門家たちは、より安定していて高額な「年俸」の契約かもしれない。しかし、AIにとっては「ミリ秒給」でも長すぎるし、哲学者や芸術家は、生きている間に全く評価されない(異端者扱いされる)かもしれない。このAI時代における報酬のギャップを埋めるのは難しくはない。スピノザが、哲学者であるとともにレンズ磨きであって、絵を描いてビールも作っていたことを思い出そう。哲学以外は、ひとびとからとても好意的に評価されていた。残念ながら、「ソサエティー3.0」と「ソサエティー4.0」では、分業化が進んで、そのような生活の余裕がなくなってしまった。過度に職業に束縛された分業社会から脱却して、生活に「自由」を取り戻そう。スピノザは、デカルト的な(人間中心の)「自由意志」を批判的に検討した結果、個人的な「意志」を否定して、「自由」を選択した。おそらく、ライプニッツも、モナドの自由を理解していたけれども、予定調和として、平和的に隠ぺいした。もちろん、スピノザの「自由」も予定調和しているのであって、ひとびとの自由を阻害する社会は、調和(共存・共生・共進化)できない。スピノザが喝破した、神すなわち自然とは、神の摂理すなわち自然の摂理ということであって、そこに人間のあさはかな論理の出番はないけれども、自由があれば可能性もある。「ソサエティー5.0」において、職業選択の自由に関する模範解答はAIにまかせておいて、ひとびとは過度に分業化され専門家した職業からの自由を実現したいものだ。

◆次回以降の予定

3.4 認知機能の機械学習とデジタルセラピューティクス(DTx)

3.5 学習は境界領域の積分的探索

3.6 機械学習との学習

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『みんなで機械学習』は中小企業のビジネスに役立つデータ解析を、みんなと学習します。技術的な内容は、「ニュース屋台村」にはコメントしないでください。「株式会社ふぇの」で、フェノラーニング®を実装する試みを開始しました(yukiharu.yamaguchi$$$phenolearning.com)。

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