п»ї 魯山人を喰らう 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第164回 | ニュース屋台村

魯山人を喰らう
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第164回

3月 19日 2020年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

oバンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住22年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

食べることは人々にとって人生最大の喜びの一つである。しかし、私が食べものの味を本当にわかるようになったのは、つい最近のことである。昔から食べることは好きだった。ただ、それは単に生存欲求の本能を満たしていたのにすぎなかったような気がする。それが証拠に長い間、「早食い」を自慢としていた。今だからわかることがある。テレビのレストラン紹介番組で、レポーターの人たちが料理を口に運んだとたんに「おいしい」と言うのは、本当の料理の味がわかっていないんだということを。

◆「味のわかっていない食通」

私は44歳で東海銀行バンコク支店長として当地に赴任した。それから日系企業向けの営業の最前線にいた15年間はほぼ毎日、食事の接待を続けた。バンコック銀行に転職後は日本出張も多くなり、年に3か月ほどは日本に滞在している。

日本とタイの双方において毎日、会食を繰り返す。有名な料亭やレストランなどでも会食したことがある。他の人から見ればうらやましい限りかもしれないが、正直それらの一流料理を味わっている余裕などない。なぜなら、会食の目的は取引深耕(しんこう)にあり、お客様とのお話に全神経を集中させているからである。何を食べたのか覚えていないのが普通である。

行ったことがあるレストランの名前だけを挙げれば、私は立派な「食通」の仲間入りをするが、その頃の私は「味のわかっていない食通」であった。しかし、味がわからなかったとしても、これらの有名店に行ったことはあとで大変役に立った。

私が少しは料理の味がわかるようになったのは、仕事の第一線を退いたこの5年ほどのことである。北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん、1883~1959年)は「身銭をきって良いものを食べる。これを繰り返すことにより、本当の料理の味がわかってくる」と指摘している。

私も妻とゆっくりと食事ができるようになって、初めて料理の味がわかるようになった。考えてみれば当り前の話である。人間は舌の中に約1万個ある味蕾(みらい)という器官によって味を感じる。ところが、お客様の接待の時には自分が話す時間を確保するため、食物を味わうことなくほとんど飲みこんでしまう。食物が口の中にとどまっていなければ、味蕾で味を感じることもない。また、食物は咀嚼(そしゃく)することで唾液と混ざり、その味が変化する。多くの食物は本来的に甘みや塩分を含んでいるが、こうした本来的な甘みや塩分は微量であり、咀嚼することにより甘みや塩分が顕在化するのである。ゆっくりと味わって食べなければ食物の本来のおいしさがわからないのは、医学的に考えれば当り前のことであった。最近になって、かつて接待で使った有名な料亭やレストランに妻と2人で食べに行き、本当の料理のおいしさを味わうことができるようになった。

私の幸運はこれだけではない。「トヨタ生産方式の伝導師」で、私が仲良くさせていただいている迎洋一郎さん(「ニュース屋台村」の『ものづくり一徹本舗』筆者)のご親切をなくして私の現在の道楽はない。2014年11月に迎さんと共に、長崎三川内焼の窯元である中里勝蔵さんを訪問した。中里さんと迎さんは小学生時代からの幼な友達で、2,3年に一回、迎さんは中里さんのお宅に泊めてもらうそうだ。

私たち夫婦は、迎さんが中里さんのお宅にお邪魔する機会に便乗させてもらった。迎さんのもう1人の友人である林博幸さんと中里さんから三川内焼、有田焼などの陶磁器の基本知識を教えていただいた(拙稿『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第59回「三川内焼の窯元を訪ねて」をご参照ください)。これで陶磁器の世界に目覚めた私はその後、時間を見つけては日本全国の窯元めぐりにいそしんでいる。そんな中で、料理における食器の重要性を説いた魯山人の存在にめぐりあったのである。

 ◆2冊の料理の本

さて、今回は魯山人の料理についてである。漫画「美味しんぼ」(原作・雁屋哲、作画・花咲アキラ)を読んだことのない私は、魯山人が料理の大家であることなど全く知らなかった。しかし、白崎秀雄の『北大路魯山人』(ちくま文庫、2013年)を読んで、魯山人の食事を食べてみたいと強烈に思った。何と言っても、料理は稀代(きだい)の天才がその一生を捧げて追求したものである。

『北大路魯山人』を読んでいると、魯山人がまず料理の食材に徹底してこだわったことがわかる。鉄道網がさして発達していなかった昭和初期に、魯山人自らが腕を振るった東京と大阪の料亭・星岡茶寮(ほしがおかさりょう)で客にもてなすために全国各地から食材を集めたのである。スッポンは京都、アユは嵐山か日光大谷川、ウニは福井など仕入れ先は厳選し、かつ旬のものを旬の季節にしか食べさせなかった。調理場は常に掃除して清潔に保つよう厳しく従業員を指導した。

客に料理を提供する際に用いる皿や器などは勿論、包丁や鍋などピカピカになるまで磨かせた。思わずトヨタ生産方式における5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)を連想してしまう。ジャンルを問わず、名人となる極意は共通するのであろう。温かい料理を出す時は皿を事前に温める。夏に冷たい料理を供する時は器を霧吹きで濡らしておく、などのことを本格的に始めたのも魯山人のようである。客に最上の料理を提供することを常に考え続け、更に視覚・嗅覚(しゅうかく)・聴覚・触覚など、味覚に加えて人間のすべての感覚を料理に取り入れたからこそ、魯山人の料理は芸術だと言われるのだろう。

魯山人の料理を是非食べてみたい――。私はこう強く思ったが、魯山人は既に亡くなっている。残念ながら彼の作る料理を食べることはできない。魯山人の料理とは一体どのようなものであったのだろうか? 困った私は2019年末に一時帰国した際、魯山人の料理の本を2冊購入した。『魯山人の料理王国』(文化出版局、1980年)と『魯山人と星岡茶寮の料理』(柴田書店、2011年)である。『魯山人の料理王国』は魯山人の唯一の料理エッセイ集で、彼の料理に対する考え方や心構えなどを記してある。

白崎秀雄の『北大路魯山人』にその多くが紹介されているが、それ以外で私が心に残ったものがある。「食は芸術であり、それをきわめるためには技術だけでなく、客に対する真心、美を追求する心が必要である」「料理に対する神経をとぎすまし、味見をしないでもその味が想像できなければならない」「食材はすべて使い切る。新鮮で良質な食材であればすべての部分がおいしい」など、食の芸術家を感じさせる言葉が幾つかあった。

この本には具体的な料理の仕方はあまり書かれていなかったが、おいしいすしは「上質な米、酢、魚介類、海苔(のり)、生姜(しょうが=ガリ)」で決まると書かれているのが面白かった。何と言っても食材、それも米が一番なのである。日本で最高のすしを出すといわれる金沢の名店「小松弥助」は、自分の店のためだけの特別の米を岐阜で作らせている。同様に、海苔についても自分の店だけの「小松弥助」ブランドの海苔がある。勿論、魚介類の選定や酢飯の作り方もいまだに研究を続けている。食の芸術家はいつの時代になっても、同じ精神を持ちあわせていると思ってしまう。

『魯山人と星岡茶寮の料理』は前半が写真集になっており、東京・紀尾井町の福田家や京都の瓢亭(ひょうてい)など一流料亭の料理が、魯山人の作陶した器に盛られている。この本を見て、魯山人が星岡茶寮で作っていた料理はこのような会席料理なのだろうと勝手に思い込んでしまっていたが、あとになって私は間違いに気づくのである。

この写真集付きの本で面白かったのは、後半の解説である。白崎秀雄の『北大路魯山人』が当時の家族や知人からの取材をもとに作られた物語であるのに対して、この本は資料により根ざした魯山人を描き出しており、私にとっては新たな魯山人像が出現した。解説の中で、星岡茶寮の初代料理長が中島貞治郎で、1931(昭和6)年に銀座で「割烹中嶋」を開店し、魯山人も最後まで支援を続けたことを知った。この店は現在、貞治郎の孫である中島貞彦が引き継ぎ現在、魯山人の味を守る唯一の店であることが書かれていた。そう言えば、この写真集にも銀座の割烹中嶋の料理の写真が掲載されていたが、それほど派手な料理ではない。

◆改めて感じた料理の奥深さ

私は衝動的に割烹中嶋に電話をした。魯山人の器で魯山人の料理が出されることを確認して予約を取り、去年の年末ぎりぎりに妻と共に出かけた。割烹中嶋は銀座のど真ん中にありながら静かなたたずまいのお店である。

テーブル席の個室に通された私たちは、飾られていた魯山人の皿や壷(つぼ)を楽しみながらも緊張して料理を待った。最初に出てきたのが「フグのひれ酒」である。しかし、その趣きは椀物(わんもの)である。アルコール分を飛ばし酒をぬるめにして大振りな湯呑みで出された。その味は予想外に甘みを含んでいる。甘味料を一切使っておらず、フグだけで甘みを出しているそうである。

そのあとに「雲丹のせ豆腐」「牛肉のローストビーフ」と続く。豆腐は自家製でツルンとした食感ながら味は深い。薄口しょうゆをベースにしたシンプルな出汁(だし)が豆腐の味を引き立たせる。なるほど、食材の味がよくわかる。ローストビーフには玉ねぎを飴(あめ)色にまでじっくり妙め、みそとゴボウで味つけしたソースが付いてくる。このソースが玉ねぎの甘みを引き出し、ローストビーフと絶妙なバランスを作りだす。

「調味料をできるだけ使わない」という魯山人の言葉が初めてわかった気がした。このあと、先付け、椀物が続く。それにしても、出てくる料理の順番が私の知っている会席料理とは全く違う。あとで調べてみると、魯山人の時代はまだ現在のような会席料理の献立の順番は確立されていなかったようである。

京都、大阪にある有名な料亭「吉兆」の創始者である湯木貞一(ゆき・ていいち)が30歳半ばで茶の道に志ざし、茶道の懐石料理の伝統を取り入れたのが、現在の会席料理のようである。湯木貞一は魯山人より20歳近く若い。湯木貞一が会席料理を確立したのは、魯山人が60歳を過ぎたころの話だと想像される。

魯山人が星岡茶寮で提供した料理の中には「スッポン鍋」や「どじょう鍋」があったが、こうしたものは現在の会席料理には登場しない。魯山人の「何でもあり」の自由な発想がゆえに、形式にとらわれず、その時期の一番おいしいものを提供したのであろう。割烹中嶋の料理からはそうした魯山人の考え方がうかがい知れる。向う付け(刺身)のあとには「フグの白子焼き」が出てきた。白子焼きの中はものすごく熱くてトロトロとしているが、外側はカリッとしており、塩味だけの白子焼きをそのまま食べる。こんなにおいしい白子は今まで食べたことがなかった。「かぶら蒸し」のあとに「フグの唐あげ」が出てきた。骨に身のついた部分を唐あげしたものだが、フグの旨味(うまみ)がとてもよく出ている。これも美味である。

最後は「フグ雑炊」であった。『魯山人の料理王国』の中で、彼は「最もおいしい食材はフグとワラビだ」と書いていたが、この店のフグは絶品であった。それにしても最高の料理を「これでもか、これでもか」と出すのが、魯山人の料理なのであろう。後日、割烹中嶋で出された料理をなじみのフグ料理屋のご主人に話したところ、「魯山人の料理は本当に味のわかる人たちにしか出せない料理だ」とうなった。「フグの唐あげ」を一例に取れば、骨の部分は一番旨味を感じるところである。

ところが、こうした部分を一般の人に提供すると「手を抜いた」とか「質を下げている」とか思われてしまうのだ。普通の料理屋で提供するフグのから揚げは、身だけの唐あげになるという。そう言えば、このフグ料理店でメニューには載っていないが、薄皮のついたあぶりを特別に出してもらったことがある。とてもおいしかったが、見た目の悪さからメニューにはないという。料理は食べる人によって内容を変えているという。料理は本当に奥が深いものだと考えさせられてしまう。

 ◆「食器は料理の着物である」

最後に魯山人の食器について簡単に述べたい。割烹中嶋ではすべての料理が魯山人の器で提供された。その食器はいずれも華美ではないが、しっかり自己主張を持っている。食材の味をシンプルに、かつ最善に表現する魯山人の料理を引き立たせるすばらしい食器であった。「食器は料理の着物である」――。魯山人の名言である。

※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り。

第59回「三川内焼の窯元を訪ねて」(2015年12月18日)

三川内焼の窯元を訪ねて『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第59回

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