山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
入社した1971年は、M放送にとってテレビ開局30年の節目だった。10月には数々のイベントが予定され、制作の現場では「特別番組」の企画が進んでいた。私も「アシスタントディレクター」として、特番チームの末端に加わった。
テレビ業界で「アシスタントディレクター」は、「エー・ディー(AD)」と呼ばれ、タレントの送迎、飲食の手配から小道具の手配、カンペ(看板ペーパー=タレントやアナウンサーの発言表示)出し、など「制作現場の下働き」を一手に引き受ける。ほとんどは下請けの制作会社の人たちで、「奴隷労働」などと呼ばれていた。そんな中に若手の正社員は別格の「ディレクター見習い」として参加し、経費計算など担当する。
◆「俗悪」でも高視聴率の看板番組
特番の配役選定の時だった。脇役の1人に女性タレントの名が挙っていた。知らぬ名前だったので、気に留めないでいたら、先輩の社員から「あれは〇〇さんの彼女だよ」と知らされた。〇〇さんは、まもなくプロデューサーになるベテランのディレクターである。その彼が彼女を端役に押し込んだ、というので「知る人ぞ知る」の界隈で話題になっていた。
あえて咎(とが)め立てする人もいなかったようで、企画はそのまま進んでいた。局の中でそれなりのポジションに着くと、「役得」がついてくる世界なのか、と漠然と思った。開局30年でテレビは全盛期を迎えていた。
まだ電卓が普及していない時代だった。ADの私が、伝票の束をソロバンで弾いていたら、番組に時々出ている女性タレントが声をかけた。「私、ソロバン3級やで。手伝ってあげる」。隣に座ってパチパチやってくれた。脚の接するミニスカートの膝が気になった。
タレントにとって、端役であろうと、テレビ画面に登場することは、役者としての登竜門だった。ADの私に、配役を選ぶ権限などないが、ラジオ局で20代の社員ディレクターは私だけだった。放送局に出入りする人は、タレントもプロダクションも、下請けさんも、私の後ろに控えるテレビという巨大な媒体に目を向けていた。
M放送の人気番組に「夜の大作戦」というバラエティー番組があった。藤田まことが軽妙なMC(Master of Ceremony=司会進行役)を務め、歌やコントを散りばめた面白おかしい進行が受けていた。最大の売りは「当選者は、こちらでーす」と葉書の束から当たりを選び出すシーン。舞台の上の透明なカプセルが5つ用意さている。中でミニスカートの女性が踊っている。藤田が抽選ボタンを押すと、電光掲示板が眩(くるめ)く光り、刺激的な音楽とともにカプセルの1つの下から空気が噴き上がる。スカートがまくれ上がり、下着があらわになる、という趣向だ。
当時は、これが斬新だった。「俗悪番組」という批判も一部にあった。新入社員の研修で、人事部長が「『夜の大作戦』を好きだという人はいますか?」と聞いておきながら「あんな番組を面白がっているような社員は要らない」と突き放すほど、自虐的な番組だった。でも視聴率は高く、局の看板番組になっていた。
何度か収録の現場に立ち会った。俗悪さと裏腹に、タレントとディレクターの掛け合いは真剣だった。「まこっちゃん、ここはこうしてみたら」とディレクターが言うと、藤田まことは、「承知しました」と演技を変え、工夫する。笑いをとる、視聴率を稼ぐ、とはこうした営みの積み重ねだと感じた。
タレントもディレクターもノリノリで、心底から面白がって演技に取り組んでいる。自分がやっているのは「俗悪番組」と思っていたら、このエネルギーは湧いてこないだろう。
◆田英夫さんとの出会い
人事部長の言葉と裏腹に、この世界で成功するには、こうしたことを「面白い」と打ち込める感性が欠かせない。そして、視聴率さえ取れれば、さまざまなことが許される。
「自分がいられる世界ではない」と思った。こうした笑いをとることに情熱を注げない、能力もない。新人である私には、強い違和感のある職場だった。周囲を見渡すと、テレビという時代の花形は、高給で、社員は周りがチヤホヤしてくれる。多くの人は、そんな空気に同化しているように思えた。
フジテレビがいう「面白くなければテレビじゃない」は、この業界の真髄を表している。日枝(ひえだ)体制が長く続いたのも、結果を出した者が力を握り、力に平伏して組織は暴走し、社員は迷走した。結果があれだった。
職場になじめず、鬱々(うつうつ)としていた日々、TBSのニュースキャスターを辞めた田英夫(でん・ひでお)さんと会う機会があった。労働組合主催のイベントだったと思う。M社の組合は民放労連でも中核的な「戦う組合」だった。労働争議に絡み裁判闘争をいくつか抱え、会社にとって「目の上のタンコブ」になっていた。労働組合への参加はごく一部で、新入社員で組合に加入したのは私を含め3人だけだった。
田英夫さんとは社内の喫茶店で1時間ほど話をする機会を得た。ベトナム戦争の報道で、政治圧力によってキャスターを解任された田さんは、放送局で自分の姿勢を貫くことは言うほど易しいことではない、と話され、報道記者を希望するなら新聞記者に転職することを勧められた。
◆先輩社員とのトラブル
そんな私が、会社を辞めようと心に決めた事件があった。社宅で同居する先輩社員Kとのトラブルだった。
社宅は「文化住宅」と呼ばれる戸建てで、3人で住んでいた。入居が決まった時、庶務の担当者が「一緒に住む人はちょっと難しい人ですが、よろしく」と言われていた。1階に住む2年年上の先輩が住んでいた。
M放送とネットワークを結ぶ中国地方の放送局のオーナーの御曹司、と言われていた。ある日、「飯を食っていけ」と誘われた。しばしば訪れる女性の手作りの夕食だった。
「お前は試験を受けて入社したのか?」と聞かれて「みんなそうなんじゃないですか」と答えたのがマズかったようだ。
M放送が新卒の定期採用を始めたのはKが入社した2年前。それまでは不定期に人材を集め、コネ入社は少なくなかった。放送局は親族に有力者がいる社員が少なくないが、2年前からはコネがあっても入社試験を受ける建前になっていた。Kは、その枠外で採用されたらしく、社のイベントを担当する事業部に所属し、事業部長が「お守り役」として付いていた。若いのに傍若無人な振る舞いで、今で言えばセクハラ・パワハラの権化、社内では腫れ物扱いされていた。
食事の時、「彼女はいるのか」と聞かれた。
「いません」と答えると「だったら俺が世話してやる」と高飛車に言うので、「そういうことは、結構です」とピシャリと断ったことがカンに触ったようだ。それから、関係が悪くなった。
ことあるごとに命令口調で威張る。「オレに逆らうならこの会社にいられなくしてやる」が口癖だった。
なるべく顔を合わさないようにしていたが、ある朝、台所で顔を洗っていると「そんなところで洗うな、と言っただろう」と怒鳴ってきたのが、事件の始まりだった。
「ガタガタいうな!」と怒鳴り返すと、いきなり殴りかかってきた。体力ではこちらがまさっていた。劣勢と見たKは、いきなり包丁を手にした。ヤバイと2階に駆け上がった私は間一髪、ベランダから屋根に逃げた。包丁をかざしたKがベランダに、屋根にはパジャマ姿の私。周囲の住宅から人が出て見上げている。
この一件で私は番組に遅れ、大目玉を喰(く)らった。だが、ズボンに血がにじんでいることに気づいた上司から「何かあったか」と聞かれ、ありのままを話した。
人事部あてに「顛末(てんまつ)書」を書かされ、辞表を添えた。結果は、私はお咎(とが)めなし。Kは退職することになった。
「若い者のけんかは仕方ないにしても、刃物を持って襲いかかる行為は容認できない、ということで、系列局にお引き取り願った」。そんな説明を上司から受けた。周囲は「問題社員の厄介払いができた」と大喜びだった。しかし、事件が起こるまで、こんな社員が大きな顔でのさばっている会社はどうなっているのか、という思いは拭えなかった。
◆終わろうとする「テレビの時代」に縋る人たち
この話には続きがある。Kは退職した後、プロダクション会社を起こし、現役時代の人脈を生かしてタレント斡旋(あっせん)を始めた、と聞いていた。クビになったことは伏せられ、元M放送、地方局のオーナー御曹司、という触れ込みで仕事をしていたようだ。
田英夫さんと会ったころ、大阪・御堂筋の路上で、大学時代の友人にばったり会った。彼は、朝日新聞の販売部門に就職していた。焼き鳥で一杯やりながら、今の会社になじめない、という話をすると「だったら朝日を受けたら」と言われた。記者職で採用されれば、他の部署に行かされることはない、ということだった(少なくとも当時は、希望しない限り記者は記者だった)。
田さんの言葉を思い出し、転職を考えてみようと思った。72年入社の試験に間に合い、幸運にも合格した。M放送は9月末で退職した。
5年いた青森支局を振り出しに、記者を続けていたが、縁あってテレビ番組に出るようになった。そんなある日、Kが身近にいることを知った。
出演していた「Jチャンネル」という番組の合間にMCの女性が話してくれた「社内スキャンダル」に、聞いたような名前が出てきた。
番組のプロデューサーが、銀座の飲み代を下請けの制作会社に払わせ、そのしわ寄せで制作会社は経営が破綻(はたん)した、という。そのプロデューサーがKだった。
M放送がお引き取り願ったKは、その後、同じ系列のテレビ朝日に移っていた。国会議員を輩出している系列局オーナーの力はそれほど、強いのか。だれがどう決めたかは知らないが、M放送での行状がわかっていたら、テレ朝だって躊躇(ちゅうちょ)しただろう。
生殺与奪の権限を局のプロデューサーに握られている制作会社は、無理を断れない。優越的地位の濫用(らんよう)は、放送局によくあることだが、普通のテレビマンは、自ずと抑制を利かす。甘やかされて育ったKならやりかねない。その後、Kの行状は週刊誌で問題になり、懲戒免職になった。
Kのやり方は、きっとテレ朝でも問題になっていたと思う。だが、一定の視聴率が取れていれば、お咎めなし、というのがこの世界だ。放送局は、変わっていない、と思った。
そして今回のフジテレビ。行くところまで行って、何かの弾みで膿(うみ)が噴き出る。「テレビの時代」が終わろうとしている。だが、まだ多くの人が、このシステムに縋(すが)ろうとしている。
※『山田厚史の地球は丸くない』過去の関連記事は以下の通り
第288回「放送局の企業体質 私の体験的感想(上)」(2025年5月16日付)
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