山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
「中居クンの性暴力」に端を発し、フジテレビの企業としてのあり方が問題になっている。「面白くなければテレビじゃない」に象徴される企業風土、芸能界との癒着、日枝久取締役相談役への権力集中など、かなりユニークな会社に見えるが、放送局という業種の企業体質を煮詰めたような会社だと思う。
私は、社会人になって最初の職場は放送局だった。わずか半年だったが、とても刺激的な日々で、ここにいたら人生おかしくなってしまう、と感じることさえあった。「今や昔」の話だが、体験の一端を紹介し、放送局を考えてみた。
◆失敗の始まり
今思えば、面接で「心にもないこと」を言ってしまったことが、失敗の始まりだった。
私が入社したのは大阪に本社がある「M放送」、東京のテレビ朝日(当時は「日本教育テレビ」という名だった)とネットワークを組む準キー局だった。
1次の筆記試験のあと2次試験は面接だった。
「あなたは報道を希望していますが、他の部署に配属されたらどうしますか?」と聞かれた。
「報道記者を希望しているので、他の仕事は考えていません」と答えた。
M放送の採用は技術職・アナウンサー・一般職に分かれ、私が応募したのは一般職だった。報道記者から人事、営業まで幅広い職種をひとまとめにした採用である。
面接を終えた後、受験生が集まって雑談した。
「希望職種のこと聞かれた?」「希望以外はイヤだと言ったら落とされるらしいよ」などと話は盛り上がり、「こりゃダメだな」と思った。
ところが2次試験はパスし、役員による最終面接となった。
「キミは、報道を希望しているが、他の部署で働く気はないのか」
偉そうな一人が、またこの質問をした。
ここで「その気はありません」と答えたら落とされるな、と思った。
とっさに心にもない言葉が出た。
「私は報道を希望していますが、会社には会社のご判断があると思います。それには、その時に考えたいと思います」
会社の判断を受け入れます、と言外に言っているようで、情けなかった。
合格したのは18人、一般職13人、アナウンサー3人、技術職2人。新人は、1週間ほどの研修のあと、二つの職場に半月ごと仮配属される。
配属されたのは、番組の企画や方針を決める編成局と、スポンサーや電通を相手にする営業局。会社では大事な仕事とされるが、全く興味のない仕事だった。
◆稼ぐ社員がいい社員
編成局では「協力会社」と呼ばれる下請けの人たちと交わる機会があった。深夜、番組が終わったあと、下請けさんと軽く一杯やるのも仕事だった。同じようなジャンパーを羽織っているが、正社員は袖にブルーの線があり、下請けは茶色の線だった。
放送局の仕事はさまざまな協力会社で成り立っている。現場を担うのは下請けで、正社員はその管理をする。
仕事を終えていすを片付けていると、「社員さんがそんなことしないでください」と茶色も線が入った腕が伸びる。飲みながら、探るように給料の話が出る。正直に初任給を告げると、「そんなにもらっているんですか」という表情のリアクションが来る。10歳以上年上の下請けさんの給料は、私の半分にも満たなかった。
営業局ではスポットコマーシャルを担当する営業2課に配属された。番組の合間に入る5〜30秒のコマーシャルをかき集める部隊である。ある日、朝から会議があった。夏の商戦に向けて企業の宣伝担当者にアタックする作戦会議だった。
「現金というわけにはいかないので経理と交渉して商品券を用意した。先方にどう渡すのが効果的か」と課長が切り出し、議論された。
直接本人に渡すのは露骨すぎる、マージャン大会を開いて景品として渡すか、自宅を訪ねて奥さんに渡す……。そんな話が延々と続いた。
うんざり顔で聞いていると、「そこの新人! バカバカしいと思っているだろ。俺たちの若い頃はな……」と説教された。
スポンサー回りの外勤社員には、実直そうな人もいた。課長はそのキャラクターが気に入らないらしく、「客先に言ったらダービーの話でもできるように、もっと興味を広げろ」などと命令していた。
稼ぐ社員がいい社員。そういう人が大きなスポンサーを任され、営業成績が上がらないと小さな得意先に回される。
放送局とスポンサーを繋(つな)ぐのが電通だ。電通の営業マンがやって来ると、レストランで会食になる。「新人も来い」と誘われるので、電通マンが来るのは歓迎だったが、話題は退屈だった。世間話をしているだけで、時間の無駄と思えるような会話。ただ関係を繋ぐだけ、というような会食だった。
営業局は社内で出世コースとされていたが、現場の仕事は、生涯をかけるにはバカバカしすぎると思えた。そんな私を見かねてか、営業局長が寺山修司の舞台に誘ってくれた。食事をしながら「まだ報道がいいか?」と聞かれた。若くして取締役になり、大学で「テレビメディア論」を講義し、いずれは社長と言われる人物だった。
役員面接で「他の部署で働く気はないのか」と聞いたのはこの人だったような気がした。
「営業で働く気はありません」と答えた。
放送局を希望する学生は、アナウンサーや技術職以外は、報道記者か番組作りのディレクターやプロデューサーを目指すのがほとんどだ。企業としては編成や営業、総務・人事などが重視されるが、はじめから営業をやりたい、という学生はほとんどいない。そこで「一般職」というくくりで採用し、各局に振り分ける。どうやら私は「営業要員」として採用されたようだ。
報道で釣って、営業に回すなんて詐欺みたいなもの、と当時は思った。「会社には会社のご判断がある」などと妥協した自分が悔しかった。
◆ラジオ局に配属
仮配属の1カ月が終わり、配属先が発表された。報道の2枠(テレビ報道・ラジオ報道)には仮配属された2人がそのまま残った。私は意外にも「ラジオ局ラジオ制作課」に配属された。ディレクターである。
仮配属先が制作局だった同じ同志社大卒の河内一友クンが東京営業部の行くことになった。私と差し替えになったらしい。河内クンはあまりにも突然の出来事に涙ぐんでいた。申し訳ないことになったな、とその時は思った。ディレクターの道を断たれた彼は、東京で真面目な営業マンとして励み、30数年後、社長になった。
ラジオ局は、出世競争を降りた人の集まりのような職場だった。文学青年のまま老境に入ったプロデューサー、仕事は労働組合活動のような人、有給休暇は全て登山、履きならすため毎日登山靴で通っている人。かつて局アナとして慣らした年配の女性たち。テレビ全盛で、隅に追いやられたラジオで余生を過ごしているような人が多かった。
新人が配属されるのは久しぶりで、私は唯一20代の社員だった。アシスタントディレクターとしていくつかの番組を担当した。その一つが「5時になったら歌うハイウェー」。
トラックメーカーの「三菱ふそう」が提供する番組で、ヘリを飛ばして帰宅時の交通情報を提供する。ラジオ視聴者の主流はカーラジオになっていた。
スタジオトークの合間にレコード曲を流す。その選曲は私の担当だった。大学時代、テレビやラジオから遠ざかり、はやりの歌など知らない。選曲は全てアルバイトの学生に丸投げしていた。これでは無責任かな、と思い、一度自分で選んだことがある。「今日はずいぶんクラシックな曲が流れますね」。しゃべりを担当する浜村淳さんに怪訝(けげん)な口調で言われたのを覚えている。
局の選曲担当はレコード会社や芸能プロダクションにとっては攻略対象とされていた。
朝出勤すると、机の上に「白番レコード」が山積みされている。売り出し前の視聴用レコードだ。バイト学生が、その中から数枚選ぶが、権限は私にある。
ある日、レコードの上に青リンゴが置いてあった。なんだろう、と思っていたら、「『青いリンゴ』の野口五郎です」とマネジャーに連れられたにいちゃんがいた。
キャンペーンでやって来た小柳ルミ子やちあきなおみなどにあいさつされたこともある。
ラジオで曲が流れることはヒットの条件だった。
「今晩、お暇でしたら、新地で一杯やりませんか」という誘いを受けることもあった。
素人同然のディレクターでも局の看板があると、チヤホヤされる。
◆テレビ局内のさまざまな人間模様
廊下を歩いているとテレビで見かけるタレントとすれ違うことは頻繁にある。番組の主演女優は役員食堂だが、端役の女優などは社員食堂の隣の席で親子丼を食べたりしている。
タレントにとってテレビ局の人と知り合いになるのは大事なことだ。制作や編成の担当者にとって大物タレントと個人的な関係を結ぶことは出世と無縁ではない。そうした人が織りなす人間模様から、テレビ局の空気は芸能と切り離すことはできないと感じた。
入社した1971年はM放送にとってテレビ開局30年の年だった。「TV30年記念特番」に参加した。番組づくりの裏を見ることができ、キャスティングをめぐる「男女関係」を知る機会もあった。そうした日々の中で、系列局の御曹司のコネ入社やその愚行から、私を巻き込む「事件」が起きた。その顛末(てんまつ)は次回、書くことにする。
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