山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
ノーベル平和賞に国際刑事裁判所(ICC)の判事だったナビ・ピレイ氏が選ばれた。「ピレイって、誰?」というのが大方の反応だろう。戦争犯罪など国際司法に関わる一部の人たちには知られているが、国際的に無名な人だった。
南アフリカ出身のインド系弁護士。すでに85歳だが、経歴を見ると筋金入りの人権活動家だ。南アフリカが白人支配の人種差別国家だったころ、ネルソン・マンデラを支えアパルトヘイト(人種隔離政策)と闘った。非白人として初の高等法院裁判官になった(1995年)。
内戦で80万人が殺されたルワンダで調査にあたり、大量殺戮(さつりく)だけでなく、民族集団を破壊する意図で行われた性暴力を問題にした。「戦利品」と見なされてきた戦時下のレイプを「戦争犯罪」と弾劾し、指導者の責任を明らかにした(1998年)。
ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)で戦争犯罪を裁いたことが常設の国際裁判所が必要であることを世界に認識させた。2002年にICCが設立され、初代判事の一人となり、08年には国連人権高等弁務官に就任。人道危機に晒(さら)されるガザに、国連調査委員会の委員長として乗り込み、イスラエルがジェノサイド(集団殺害)を行ったと結論付ける報告書を主導した(2025年)。
◆「法の支配」を破壊する動きへの危機感
国際刑事裁判の草分けであり、実践者として「法の支配」を世界に広めたことが評価された。受賞は、単なる平和貢献でなく、戦争犯罪を裁き、権力者の責任を追及する国際法の仕組みそのものを守ろうとするノーベル賞委員会の意思表示ともいえる。
背景には「法の支配」を破壊する動きへの危機感がある。ウクライナ侵攻に踏み切ったとロシアのプーチン大統領、ガザで軍事行動を展開するイスラエルのネタニヤフ首相らにICCは逮捕状を出し、強い警告を発している。米国やロシアは反発し、国際法の執行が大国の力に左右される事態が生じている。
米国のトランプ大統領は9月の国連総会の演説で「ICC解体」「加盟国は脱退を」を呼びかけた。ピレイ氏のノーベル平和賞が発表されると、数時間後に「ICCへの追加制裁」を発表、敵意をむき出しにした。ICCに加盟していない国の国民を訴追するのは主権の侵害であり、ICCにそのような権限はない、と主張する。
ロシアは同じような理由でICCの赤根智子所長らに逮捕状を出し、指名手配し、身柄の引き渡しを要求している。
日本は、ロシアから自国民の引き渡しを要求され、同盟国・米国からは自国民が経済制裁を受ける異例の事態になっている。
そうした中で、ピレイ氏が受賞したことは、世界の対立構造をくっきりと描き出す結果となったのではないか。
◆実利を求める力による支配目立つ
私たちは世界の対立軸を、資本主義国家vs共産主義国家という図式でとらえがちだった。戦後の冷戦時代の米ソ対立から始まり、今ではロシア・中国・北朝鮮など専制主義の独裁国家とアメリカ・欧州・日本などの民主主義国家が対立する、それが世界の構図と見るのが一般的だ。
ところがピレイ氏の受賞や、ICCを巡る対立は「世界の区分」に従来とは別の線引きを提供した。「国際法による秩序」を遵守(じゅんしゅ)することを求める国と、「力による支配」を正当化する国とが鮮明になった、ということだ。
ICCは125カ国が加盟する国際組織だ。世界193カ国の3分の2が参加しているが、大国は参加していない。米国・ロシア・中国・インド・サウジアラビア・北朝鮮・イスラエル・イラン(参加を表明したが批准はまだ)などが非加盟だ。顔ぶれを見ると、「他国との紛争を武力で解決することをいとわない国」が非加盟という印象を受ける。
米国・イスラエルがイランの最高指導者らを奇襲攻撃で殺害したイラン戦争、ロシアが「特別軍事作戦」と称してウクライナに攻め込んだこと、中国が南シナ海でフィリピンやベトナムと紛争を起こしながら支配海域を拡大していることなど、軍事力で紛争決着を図る大国のあからさまな行動が目立つ。
いずれも「国際法違反」が疑われ、「法の支配による国際秩序」が大国によって蔑(ないがし)ろにされていることが問題視されている。
トランプの米国は「最大のライバルは中国」としながらも「第2次世界大戦の同盟国」と互いを持ち上げ「互恵関係」を謳(うた)う。米国はロシアとも急接近している。
世界全体が市場経済化し、損得勘定が前面に出る「自国第一主義」がはびこるとイデオロギーはかすむ。対立していた大国が、相手の内政に目をつぶり、手を握る。
イデオロギーによる同盟関係より実利を求める力による支配が目立つようになった。 世界を東西に分け、西と東のどちらが正しいか、というイデオロギーや政治体制で国家を分類していた手法では「今の対立の図式」を描ききれない。
◆形式的には世界の最先端にいる日本
ノーベル賞委員会がICCの元判事に平和賞を与えた「ピレイ・ショック」は世界に新たな対立軸を示すことになった。
米国・イスラエル・中国・ロシアという「力を振り回す国」に「法と秩序に頼る国」が束になって対処する、という構図だ。拠りどころは、国際法であり、国連組織であり、例えばICCや国際司法裁判所(ICJ)などだ。ノルウェーのノーベル平和賞委員会もその一端を担っている。
「法と秩序」を軸に世界を見渡すと、日本の担うべき役割がはっきり見えてくる。日本は形式的には、すでに世界の最先端にいる。
「国際紛争を武力で解決しない」と憲法に謳う稀(まれ)な国家だ。世界への貢献は非軍事的支援を軸とし、途上国への開発援助を先頭に立って行ってきた。さらに国連を通じて平和外交に力を入れ、ユネスコ(国連教育科学文化機関)やICC、ICJを資金や人材で支えてきた。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉は1945年11月に採択されたユネスコ憲章の冒頭にある一節だが、日本国憲法はこの精神を踏まえて平和国家としての再出発を誓った。
後を追うようにやってきた冷戦構造の中で、日本は「平和国家」を維持しながらもアメリカの「力による支配」の一角に組み込まれた。
ベトナム、ボスニア・ヘルツェゴビナ、イラクなどで「世界の保安官」として振る舞うアメリカから「軍事的協力」を求められながら、「平和憲法」を言い訳に参加を渋る。世界第二の経済大国になっても同盟国の要請に応えられない。それが日本政府の「負い目」であるかのような日米関係が続いてきた。
米ソ対立から米中対立になった今、日本は憲法解釈で集団的自衛権を認め、米国に軍事協力ができるようになった。平和目的に限定した援助を防衛協力ができるように変え、武器輸出三原則を書き換え、殺傷兵器の輸出ができるようになった。どれも日米同盟強化という対米協力に沿ったものだが、そのアメリカは、国際法の精神を踏み外し「力による支配」へと傾斜している。
「国際紛争を戦争で解決しない」と宣言する日本と「揉(も)め事が起これば武力で決着をつける」アメリカは国柄が違いすぎる。
◆明確になった日本が進むべき方向
これまでの「東西対立」を軸とした世界なら「米国の手下」という役回りしかなかった日本が、トランプ大統領の下で「ならず者国家」の気配を濃くしているアメリカについてゆくことは重荷になっている。軍事協力でアメリカと一体化することは、日本も「力による支配」の協力することになる。
「法と秩序」をモノサシにした国際秩序の側に日本が立てば、本来の「平和外交」を堂々とできる。広島・長崎の惨禍を経て「戦争で解決しない」は日本の国是ではなかったか。平和国家として自信をもって振る舞うことが国際社会で名誉ある地位を占めることではないのか。
アメリカから経済制裁を受け、毅然(きぜん)と闘っているICCの所長赤根智子さんが日本人であることは偶然ではない。国際社会で平和国家として振る舞ってきた日本が、赤根所長の頑張りを生んだのである。
イデオロギーで世界を見るか、法と秩序で考えるか。その違いで日本の国際的立ち位置は変わる。だからと言って、大国であるアメリカや中国と張り合ったり、戦ったりする必要はない。両国は日本の生存に欠かせかい重要な国だ。だが「力による支配」には与(くみ)しない。その原則を、胸を張って主張できる国際環境が生まれつつある。
赤根所長とかピレイ元判事とか、馴染みが薄かった人たちに脚光があたったことは、日本が忘れかけていた大事なことを思い出すきっかけとなった。
国会では「憲法改正」が俎上(そじょう)に上がっている。来年には改正草案ができるともいわれる。「憲法9条は現実的ではない」「お花畑だ」などという声も少なくない。
戦争への強烈な反省から生まれた平和憲法が戦争を知らない人ばかりの社会で軽く見られるようになった。だが、世界は戦争だらけで、ますます危なくなっている。時代の先を行っていた日本の憲法に、やっと世界が追いついて来た。
戦争につながる「力による支配」を認めない国際秩序。日本が進むべき方向は明確になった。(文中一部敬称略)











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