論理と数理の偽装結婚
『週末農夫の剰余所与論』第21回

10月 11日 2021年 政治

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o 株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

夏野菜が終わり、農園はすでに晩秋になっている。冬支度と来春のための農作業が追いつかない。今年は、梅雨の雑草がいつまでも元気だった。毎年のような異常気象だけれども、そもそも予測不能な気象現象なので、正常気象ということはありえないのだろう。農業が発明される以前の太古から、異常気象との闘いは続いている。おそらく人類は負け組で、植物が勝ち組なのだ。気象現象が予測不能と言ったら、気象学者の真鍋淑郎さんの受賞が決まった今年のノーベル物理学賞の地球温暖化モデルから異論があるかもしれない。しかし、二酸化炭素(CO2)削減の未来予想まで含めれば、やはり未来の気象は予測不能としか言いようがないだろう。

雑草の残った晩秋=2021年9月25日 筆者撮影

前稿『週末農夫の剰余所与論』第20回「空想数理哲学が地球を救う」(2021年8月6日)からの続きで、空想数理哲学(MF=Mathematic Fiction)として、認知症を生きる人類の話を続けよう。認知症は今何とかしなければならない社会問題であることを認めたとして、近未来に医学的にも治癒可能な疾患になったとしても、新人類が出現するのではなく、現在の人類が存続する限り、認知症は無くならないだろう。人類が滅亡すれば別の物語になる。滅亡しないとしても、人びとの生活の中での意識や意志が大きく変化すれば、認知症と共に生きる私たちの生き方も変化するはずだ。かなり大きな変化が必要で、MFが活躍することになる。

人びとの知的な能力に差異があることは、顔の画像に差異があることと同程度に不思議な現象なのだ。言語によるコミュニケーションが全く成立しない別の生物から見れば、人びとの個体差は無視できるほど小さく、ほとんど同じに見えるだろう。人びとの社会的なコミュニケーションが、小さな差異を最大限に増幅している。人類は社会的なコミュニケーションの手段として、言語よりも強力な「データ」を使い始めた。SNS(Social Network System)の増幅力は、言語よりも強力であることは実感しているだろう。「データ」の活用としては、SNSはとても初歩的な段階だ。この変化は、「データ」の支配力によって、社会的な差別が急速に増大するという、ネガティブな側面もある。

高度な学校教育によって、人びとの知的な能力の差異が増幅されているとすれば、それは教育の理念に反するだろうか。その差異が、職業収入の差異となり、家族や同族の経済力が、子供たちの学校教育の差異となって、社会的な格差が固定的なものとなるのであれば、それは確かに教育の理念に反しているだろう。長すぎる導入となってしまったけれども、『%が分からない大学生』(芳沢光雄、光文社新書、2019年)における数学教育について、特にAI(人工知能)時代の数学教育について、著者のようにはポジティブに考えることができないことが本稿の出発点となっている。数学教育は、人びとの生活の中での意識や意志に大きな影響を与えている。おそらくネガティブな影響が大きい。数学が嫌いだ、数学は役に立たない、などという意見について議論するつもりはない。本書で十分に議論されているし、現在の数学教育としては本書は正論だと思う。しかし、「理」のある議論を構築する技術は、弁論術としての「論理」であって、「数理」ではない。現在のAI技術は数理で構築されているけれども、論理的な説明ぬきで、回答が与えられる。回答したAIプログラムのプログラマーですら、回答を論理的には説明できない。少なくとも囲碁やタンパク質の立体構造予測では、論理的には説明できないAIの回答が、論理的な人類の回答を上回っている。そして、人類が滅亡しないかぎり、認知症と共に生きてゆかなければならない、そのような現在および近未来の状況における、数学教育のあり方を再考したい。単純に言おう、筆者は数学こそ「体験学習」が望ましいと考えている。体育のように、優れた才能を見いだすとともに、その他の人びとは健全に成長できれば良いのだ。ソロバンは体験学習だった。プログラミングも文法を学ぶのではなく、体験学習が効果的だ。学校教育がない時代、AIと共に生きる時代には、試験の優劣など、ほとんど意味がない。

ヨーロッパの近代哲学は17世紀におけるデカルトとライプニッツの計算主義に合理性を認め、現在に至っている。同時代のスピノザのような幾何学主義は論理的には厳密ではなく、直感に依存しているという批判は正しいとしても、計算が不可能で、直感的にしか理解できないような場合の合理性はどう考えればよいのだろうか。量子力学が典型的な例で、この理論は半導体の設計やMRI医療画像など、とても役に立つけれども、ベルの不等式(https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルの不等式)など、常識的な実在論の理解を拒否している。結局、多くの人びとにとってよくわからないのだ。もっと一般的に、確率現象がどのように生成されるのか、そのランダムネスの物理的理解や数理的理解(乱数の理論など)は、計算可能で合理的な解釈ができるとは言いがたい。『はじめてのスピノザ』(國分浩一郎、講談社現代新書、2020年)は、難解なスピノザの自由論を、現代の視点から(ありえたもう一つの近代として)、私たちに引きつけて解説した良書だ。しかし、AIには「自分」がないので他者感覚を持ちえない、という議論はおおざっぱ過ぎる。AIの中核技術であるディープラーニングは、オートエンコーディングという同一性にだけ頼った、いわば自分しかないアルゴリズムだ。他者感覚は、膨大な量の「データ」を超高速に処理するため、感覚すらできない。問題は逆で、大量のデータとして与えられた他者感覚から、どのようにして「自分」を見いだすのか、現在のAI技術では答えられない。少なくとも、人びとが論理的に理解できる説明はない。しかし、スピノザの哲学には、AI技術を生んだデカルトやライプニッツの哲学とは異次元の世界があるので、現在のAI技術の問題点とその近未来を「外から」観察して、大発見をする可能性がある。

ピタゴラス教団の数学、プラトンの哲学、ニュートンのプリンキピアにおける物理学など、論理と数理は表裏一体に取り扱われてきた。論理の無い数理はありえないし、数理の役に立たない論理は意味がない、もしくは宗教でしかないといった具合に。筆者はこの歴史を「偽装結婚」と呼びたい。ゲーデルの不完全性定理によって、数理は論理で完全には理解できない、もしくは公理論的集合論を論理的に完全なものとするためには、多くの数学者が認める公理を、論理的な証明なしに公理として追加し続ける必要があることが証明されてしまった。数理論理学の難しい議論がなくても、数そのものに対する直感がなければ、数学の歴史的な大発見は無かったし、将来も数学は発展しないだろう。数理と論理は異なるから、それぞれの価値がある。幸せな結婚ではなく、「偽装結婚」という理由は、論理で数理を理解(支配)できるかのような、特殊な価値観が隠されているからで、現在の数学教育にもつながっている。「偽装結婚」はMFの立場からの偏った意見だとしても、認知症を生きる人類の、生活の中での意識や意志を大きく変化させるヒントになるかもしれない。

論理や数理に限らず、哲学的な議論の場合、「理」すなわち何らかの意味で合理的な説明がなされないかぎり、議論は収束しない。政治の議論のように、暴力や多数決で決定するだけの議論は、哲学ではない。統計学的な意思決定理論や、AIの予測モデルを信じることができないとしたら、論理や数理以外の「理」を模索するしかない。AIは機械だから「修理」する人間が必要だという議論は合理的であっても、修理が「理」となるかどうかは疑問だ。筆者はマージナリズム(周辺主義)を提唱していて、積分的な思考では、周辺を丁寧に調べれば、中心はあまり気にしなくてもよいと考えている。周辺の定義は、幾何学というよりもネットワーク理論に期待していて、「データ」の時代に相性が良い。こういったMF的な考えが「周理」になるためには、1000年以上の探求が必要で、だから認知症を生きてゆかなければならないと考えている。

最後に、まったく数理が欠落した論理と哲学の小説であっても、論理がフィクションとしての論理であるため、MFとしても読める『ただしい人類滅亡計画-反出生主義をめぐる物語』(品田遊、イースト・プレス、2021年)を紹介したい。本稿の筆者自身は「脱出生主義」であって、世界や人類は始まりも終わりもない、少なくとも言語で意味のある定義はできないと考えているけれども、登場人物たちの議論には、どことなくスピノザ主義者の影があり、とても面白く勉強になった。MFも面白くなければ意味がない。かつてはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」など、対話による哲学的議論の探求が行われてきた。本書のように、10人の人間による討論というSNS的な設定になってきているところが現代的なのだろう。

認知症も含めて、原子力発電所の事故や、地球規模での異常気象など、人類の責任と運命が問われる問題は多数山積している。戦争にしても、アウシュビッツやヒロシマなど、多くの人びとにとって運命ではあっても、哲学的な意味での責任への回答はまだない。本稿では数理と論理の偽装結婚という視点から、近未来の人びとの生活の中での意識や意志が大きく変化する可能性について考えてみた。秋の夜長に読書を楽しんでいる。計算可能な世界は、膨大なデータの集積と、計算スピードの驚異的な進歩で大きく変化している。ビジネスにおける、アナログ的な作業からデジタルとの共存への意識改革がデジタルトランスフォーメーション(Dx)だとしよう。真鍋さんのノーベル物理学賞受賞は、科学におけるDxに相当する偉業だと思う。以前の物理学は理論と実験の偽装結婚のようなものだ。真鍋さんのように、不十分な理論を、不十分なデータに当てはめて、計算機で膨大な量のシミュレーション(仮想計算)を行ったとしても、科学的「事実」としては認められなかった。しかし、気候変動は、カオスを含む複雑系で、完全な理論などないことが証明されている。実験データは「地球」を破壊したり、再構築できたりしないので、不完全であることに満足するしかない。しかし、真鍋さんはあきらめずにシミュレーションを繰り返したのだから素晴らしい。現在の技術では、シミュレーションはAI技術の大部分であって、最も得意とする計算方法だ。このノーベル賞がきっかけとなって、例えば医薬品開発でも、統計学的には不完全な動物実験や臨床試験のデータであっても、これらのデータを科学的にシミュレーションすることで、科学的エビデンスとして認められるようになることを期待したい。

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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

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