п»ї 人を大切にするコミュニケーション、人を思いやるコミュニケーション『ジャーナリスティックなやさしい未来』第40回 | ニュース屋台村

人を大切にするコミュニケーション、人を思いやるコミュニケーション
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第40回

3月 06日 2015年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

 コミュニケーション基礎研究会代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP等設立。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。

◆人質の命を守るのは

前々回の「人を幸せにするコミュニケーション」に続き、今回は「人を大切にするコミュニケーション」だが、次に続く「人を思いやるコミュニケーション」までを同時に展開したい。それは最近の過激派組織「イスラム国」(IS=Islamic State)による日本人人質殺害を受けての私なりの反応でもある。

まずは、「人を大切にする」ということは、人存在そのものを尊重し、生きているその人の命を生かすための行動が、いわば自分が生きている証しとする考えである。そして、「人を思いやる」は、その生きている人の「思い」や感情を慮(おもんぱか)ったり、察知したり、想像したりして、人の心に向き合う姿勢から発した心持ちだと考えている。

「大切にする」のは、人の生を肯定することが、社会生活の根本であるから、幸せに向かおうとする私たちの目標を支える柱のようなものである。国家が、この人が生きるということと、人が自由に考え行動する生活を基盤に「生きる」状態をどう考えるかが、その国の寛容性や人権意識に直結する。

国際的に死刑を廃止する国家が多いのは、ヒューマニズムを前提にした社会において、多様化の中での合意事項として「殺す権利は誰にもない」が、一般化されているからで、現在、イラク北部やシリア地域で勢力を拡大しているISが行っているとされる公開処刑は、人を大切にしない行動の最たるものだ。また、北朝鮮でも中国でも民主国家ではない場所では、教義や独裁者や、一部の権力者が牛耳る仕組みが人の命を蹂躙(じゅうりん)し、人を大切にしない行為が繰り返されている。先進国の中で死刑制度のある日本は珍しい存在だ。

日本など民主国家の多くの憲法が、国家が国民の命を守る義務がある、とうたっている。だから日本政府はISに捕らえられ人質となった日本人2人の救出に動き、国民の多くが救出を願った。

これは国家と社会の前提であり、日本政府も今回の公式見解は「我々は自己責任論には立たない。国民の命を守るのは政府の責任であり、その最高責任者は安倍総理だ」(世耕弘成官房副長官)。政府が国民に説明した言葉の一つひとつが「人を大切にするコミュニケーション」であった。

◆孤高の心持ち

しかしながら、2人とも殺害されるという最悪の事態を受けて、国民の意見や政府の見解も多様になってきた。事件の反省を、政治的な動向とからめるか、人道からの見地から発言するかによって、論点は分かれるが、人を大切にできなかった反省の次にあるのは、人を思いやるコミュニケーションであるべきである。殺害された方の思い、そして遺族や関係者の思い。そこへの想像力から発するコミュニケーションが、今後社会で生き交わすべきだと考えている。

特にフリージャーナリスト後藤健二さんについては、多くの方が無念さをメディアで発信している。私自身、後藤さんの心情を考えると、胸をわしづかみにされたような苦しさに言葉が見つからない。ジャーナリストの端くれとして、少なからず同じ立場に近かった者として、彼の見た現場の情景や困難な中にある人の実情を伝え、助けたいという行動に至った思いと、捕えられ、晒(さら)された自分の置かれた立場での諦念の境地がリアルに思えてくるから。

公開された映像から発せられる無言のメッセージは、自分の命への諦めと、地域の平和を願う希望が、同時に発せられているようで、切ない。それは失礼ながら、既存メディアの方々には分からない境地なのだと思う。

フリーという弱い立場であり、生活の保証もない中で、伝えなければいけないことを伝える、という動機だけを頼りに現場に向かう。それは孤高の心持ちである。社会は、その姿を身勝手だというかもしれない。しかし、それは彼の生き方であり、彼が人を大切にしようとしたコミュニケーション手段だったのであろう。

◆声の積み重ね

3年前、私は組織の記者を辞め、経営コンサルタントで生計を立てながら、建国間もない南スーダンへ、取材ではなく、ボランティアとして国の再建のお手伝いをしたいと、乗り込んだ。建国の浮かれた気分で、こう着状態ながら内戦が続いていた緊張感を忘れた街で、私は街並みの写真を撮っていたことで警察に連行された。自分の自由が奪われた時の何とも言い難いざらついた心持ちを今でも時々思い出す。

教育を受けられなかった子供たちにその機会を与えられないか、と日本から遠く離れたDNA構造も脳内神経伝達物質の構造形式も、この地球上では、最も日本人とはかけ離れているアフリカのスーダン人にそんなことをするなんて、大きなお世話を超えたおせっかいかもしれない。しかしながら、誰かがやらなければならないのだ、とその時は思い、自分の安全の保証は自分なりに考えて行動をした、とその時は思った。

後藤さんも同じく、自分がやらなければならない行動をして、そして悲劇に遭った。今、私が、自分の領域で話すならば、今社会は、彼を思いやるコミュニケーションを展開する時である。彼が訴えたかった紛争で犠牲になる市民、そして子供たち。ルワンダで、アフガニスタンで、彼は乾いた風を受けながら、争いで荒廃した街角に立ち、そして人に会い、話を聞き、そこに伝えるべきものと出会い、自分の行動の意味を確認しながら、これまでの仕事を積み重ねてきたのに違いない。

その生き方は、尊重しなければならないし、大切にしなければならない。そして、彼の意思は何だったのか、そこを思いやらなければいけないが、アフガニスタンの乾いた風に向かう感覚は同じ現場に立った人だからこそ分かるものも多い。

だから、後藤さんの気持ちを、行動を、肌身で感じられる人はどんどん発言してほしい。日本社会が、人を大切にし、人を思いやる社会であるために、その声はもっと大きくあってほしい。その後藤さんを「思いやる」コミュニケーションの積み重ねは「人を大切にする」社会をつくるはずである。

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