п»ї 精神疾患者が隠されるような社会と東京五輪の高揚感『ジャーナリスティックなやさしい未来』第59回 | ニュース屋台村

精神疾患者が隠されるような社会と東京五輪の高揚感
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第59回

10月 09日 2015年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャローム所沢施設長。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。

◆近代国家の「隔離」

精神疾患者の中で多数を占める「統合失調症」という症状名が、社会で使われてはじめたのは2002年8月。それから13年が経過した。それまでは、人格否定的な表現である「精神分裂病」が1937年から65年もの間使われ続けた。偏見に満ちたこの表現の変更を全国精神障害者家族連合会が日本精神神経学会に要望したのが1993年だから、変更までは10年かかり、そして定着までにまた10年以上(まだ定着していないという指摘もあるが)かかったことになる。

この名称変更の流れとともに、この症状が人格とは別であり、回復するものであるという実態も解明されてきたが、それが広く社会に浸透しているとは言い難い。悲しいかな、日本社会の根深い精神疾患者への偏見が阻害要因となっている。偏見をつくりだしてきたのは、政治であり、社会であり、われわれ自身であったこと、そして今もその可能性があることを強く自覚すべきだと強く思う。

近代国家の歩みを「福祉」の視点で見れば、その偏見の変遷が分かる。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の時代、明治国家は1900年に「精神病者監護法」を制定するが、これは「精神障害者を守る」ではなく「精神障害者から社会を守る」法律であり、精神障害者のいる家に監督を委ねるものだった。富国強兵の中で福祉が家庭に押し付けられた姿が、福祉から見た近代国家のカタチだったのである。

「わが国十何万の精神病者は、この病を受けたる不幸のほかに、この国に生まれたる不幸をも重ぬるものと言うべし」との指摘は、精神病者を家で管理する措置である「私宅監置」について詳細な調査を行った研究者、呉秀三(くれ・しゅうぞう)と梶田五郎の著作(1915年)に記された。

私宅監置が終了するのは戦後の1950年。戦後の社会改革の一環として「精神衛生法」が制定され、私宅監置の対象だった患者の措置入院制度が創設されたことによるもので、家への「隔離」は終了したが、精神分裂病という呼称はそのままで、偏見も根強いのは変わらなかった。

◆ライシャワー事件

その中で起こったのが、1964年3月24日の在日米大使館(東京都港区)でのライシャワー米大使刺傷事件である。同日付の朝日新聞夕刊トップには「ライシャワー米大使刺さる」の大きな見出しに、加害者は「19歳の“異常少年”逮捕」とある。この少年は今でいう統合失調症であったのだろう。同紙は「自分は目が悪くて進学もできず、思うような職業になかなかつけなかった。社会施設も十分でないので目の治療もできない。この原因はアメリカの占領政策と教育方針が悪いからだ」と少年の供述を伝えた。

事件は1964年3月だから、この年の10月に東京五輪を控え、日本が復興し再度国際舞台に上り始める高揚感の中にあった。当然、日本は平身低頭、米国に謝り続け、国家公安委員長が辞任するなど関係者を処分しダメージを最大限に抑えようとした。その一方、メディアも高揚感の中で、「異常少年」の扱いは配慮されず、松方正義元首相の孫で日本人である大使夫人のハルさんとともに加害者への寛容さを見せるライシャワー大使の言動を美談にすることに終始していた。ナイフで大腿を刺され重傷を負った大使は、日本人からの輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し称賛を浴びたのが象徴的であった。

対照的に今では信じられないことだが、事件翌日の朝日新聞朝刊の「天声人語」には以下のようなフレーズがある。

「春先になると、精神病者や変質者の犯罪が急にふえる。毎年のことだが、これが恐ろしい。危険人物を野放しにしておかないように、国家もその周囲の人ももっと気を配らなければならない。」

◆大切なものを見失うな

精神疾患者への対応は、その社会の成熟度を示すものであり、呼称の問題もさることながら、日本における精神疾患者の病床数は先進国に比べ、顕著に少なかったのが、最近になって増えたと同時に、ほかの先進国は先端治療の反映として病床数は下がり続け、日本とは逆転傾向にある(この点はまた後日報告する)。この意味するところは、精神疾患者についての議論が日本では広く、そして公に行われずに、市民社会に根を張った見識や未来の方向性がないということであろう。医師と市民、社会とのかい離も要因だ。

メディアもこの問題を避け、真剣に取り組んでこなかった印象もある。そして、気になるのは「東京五輪」というフレーズ。前回の東京五輪から半世紀がたち、私たちが同じ過ちを繰り返してはいけないと誓いたいのだが、五輪開催に向けての誘致のプレゼンテーションで、福島原発事故の問題を問われた安倍晋三首相が「完全にコントロールされている」と、人によっては事実を覆い隠す発言と解釈された姿勢は、やはり不安要因である。

高揚感の中で本当に大切なものを見失ってはいけない。精神疾患者の問題を取り残してはいけない。マイノリティーの声がかき消されている今だからこそ、私はそれを指摘していこうと思う。

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