п»ї 4つの権力、自覚と分業『ジャーナリスティックなやさしい未来』第28回 | ニュース屋台村

4つの権力、自覚と分業
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第28回

10月 31日 2014年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

仙台市出身。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP(東京)、トリトングローブ株式会社(仙台)設立。東日本大震災直後から被災者と支援者を結ぶ活動「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。企業や人を活性化するプログラム「心技体アカデミー」主宰として、人や企業の生きがい、働きがいを提供している。

◆メディア出身というもの

小渕優子経産相、松島みどり法相が10月20日、辞任した。「観劇会」と「うちわ」というどちらも柔らかい顔を持つ有権者との接点に絡む「政治とカネ」の問題が追及され、どちらも大臣であること以前に政治家であることへの「経済面での」自覚が足りず、大臣室からの退場に追い込まれた。

つまり、有権者との関係に金銭を介在させないこと、への徹底した自覚が欠如し、そして自らの給与、そして政党助成金の交付、税の優遇措置など、自分が国家からお金で護(まも)られている、という認識が甘かった。なぜ、自覚がないのか。その問いを考えたときに、2人の出身と私の強い実感を伴った実体験が重なってくる。キーワードは「メディア出身」である。

ずばり言えば、メディアの人、そしてメディア出身の人は数字への自覚が希薄なのである。小渕氏が政治活動収支報告書に記載された数字を見ていたか、見ていなかったは分からないが、見ていたとしても、その数字は単なる数の羅列としてしか受け取らないであろう。

数字の収入、支出の区分くらいは見分けても、科目の数字を構成する交換された商品やその商品の質、その商品を取引した会社や、その会社の軒先、社長、従業員、そこで利益を得た人の顔、その人の家族、その家族の生活。数字の背景には、その数字に関わる全ての人や社会が動いている。その数字で人は支え合い、助け合い、生きている。それが、社会で数字を交換することの意味でもあり、自覚とは、その数字が織りなす「人との支え合い」への想像力でもある。

◆欠如している数字への想像力

この数字への想像力は、メディア出身の人にはない。朝日新聞出身の松島氏、TBS出身の小渕氏もおそらく数字からは遠い稼業にいた。メディア人は物事を俯瞰(ふかん)する癖がついてしまっていて、コスト意識は低く、数字は絵空事で、数字が人々の生活を支えている、というイメージが浮かばない。

街角を駆けずり回る営業マンとは別世界にいる生き物のように、数字は次元の違う出来事のような存在である。私のメディアにいる仲間全てがそうだし、斯(か)く言う私がそうだった。

記者から経営コンサルタントに転身し、大企業の内部統制や営業実績向上など様々なプロジェクトに参画し、責任者の役割も果たしてきた時でさえ、多くの事業計画や収支報告など見ながら、メディアの癖は抜けなかった。やっと、数字が社会の生き物として、翼を付け始めたのは、自分が会社を設立し、事業計画をもとに資金調達をし、その事業計画の根拠を何度も説明する経験を経てからだった。

数字は生きている。自分が示す数字の中には従業員が世帯主のいくつかの家庭があったから、その生活や幸せを想像して、身の引き締まる緊張感に包まれる。この感覚は、やはり企業人や経済関係に携わる人でないと実感できないから、メディアからはほど遠い世界であり、実は「お金に護られている」政治家からも遠い感覚である。

数字に責任を持つことは「全能」であるべきとする(あるべきと期待される)政治家として必要なことだが、能力には限界があるから、政治家の陰には金庫番がいて、小渕氏の場合、父の小渕恵三首相時代からの資金管理担当者であった群馬県の折田謙一郎(おりた・けんいちろう)・中之条(なかのじょう)町長がその役割を果たしてきた。折田町長のおかげで、小渕氏は、選挙を難なく勝ち、女性であること、子どもを産み育てる、という時間的ハンディを克服し、早い出世を実現し、大臣の座に上り詰めた。

政治に専念するため、財務担当者に金回りを分業するのは仕事の効率からむしろ奨励されるべきものだが、分業がメディア出身の特性が重なって無責任になったことが今回の件であり、世論の失望はその無責任体質に対してである。

◆権力は「1つ」のみルール

世の中には4つの権力がある、というのは、一般的にも、独社会学者ユルゲン・ハーバーマスの論を借りても明快である。すなわち「政治権力」「社会権力」「経済権力」「マスメディア権力」。これらが正しく社会で運用され、人の生きる権利を侵してはならないから、「権力者」は4つのうち1つの権力のみを保持することが望まれる。

政治権力は社会のシステムをつくるための重要な力であり、経済はお金の力、社会は人を教え育てる教師など社会の「ソフト」を先導する役割でもある。マスメディアはそれら権力を監視しながら、世の中にそれぞれの権力の動向を知らしめて多くの耳目に実態を伝えることで、その運用を適正化させる力を持つ。

だから、それぞれの権力のプレーヤーは1人で2役をやるとひずみが生じ、「生きる権利」を持つ人から違和感を抱かれる。例えば、世界のメディア王、ルパート・マードック氏は米国のレーガンやブッシュ両大統領、英国のサッチャー首相など米英の保守政治を支えて、もう一つの政治権力に大きな影響力を与えた。イタリアの民法テレビ局をほとんど買収しているベルルスコーニ氏が経済力に物を言わせメディアと政治の2つの権力を手中に納め、首相の地位まで獲得したのは、やり過ぎの印象だ。

どんな権力を持つにしても、社会における1プレーヤーであることに変わりはない。そして、権利は移動しないが、権力は可変的であり、誰が権力を握ろうが、それぞれが監視しながら適正に運用するのが、成熟した社会である。

今回のメディア出身の女性閣僚2人の辞任から、そうした「権力」に関する社会の仕組みについて、私たちは再度、役割分担とそれぞれの責任を考える機会でもあると思う。人間は権力に弱い。そして権力を手に入れるのも人間であり、その人間は2つのことを正確にできるほど、それほど出来がよいものではないのだから。

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