п»ї 場のデータと、データの場をつなぐ 『週末農夫の剰余所与論』第9回 | ニュース屋台村

場のデータと、データの場をつなぐ
『週末農夫の剰余所与論』第9回

1月 20日 2021年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

 

思想家カール・マルクスは、戦争と革命の20世紀を、経済学の用語で決定づけた。マルクスの意に反して、21世紀でも資本主義経済は生き延びている。覇権国家が延命し、地球全体の生命が脅かされている。若い21世紀の哲学者マルクス・ガブリエルは、意味の場の複数性を頼りに、新しい全体主義と戦っている。自然科学であっても、意味の場を過度に独占すると、全体主義に陥(おちい)るという。筆者の文脈では、数学を過度に論理的に基礎づけようとすることの戒(いまし)めでもある。Googleはデータの世界を全体主義化しているのだろうか。米国司法省がGoogleを反トラスト法(独占禁止法)違反で提訴した。この覇権国家権力とインターネット上のデータを独占する企業の戦いは、どちらが勝っても新しい全体主義の始まりのような気がする。

マルクス・ガブリエルの意味の場が言語ではなく、数理の実在性によって支えられるとしたら、それは新しい法学の可能性のように思われる。反トラスト法に限らず、現在の法律は現実(意味の場)の変化についてゆけない。それは、憲法に言語表現された理念が、国内の普遍的な意味の場を前提としている以上避けられない。判例主義で修正しようにも、意味の場の変化が速すぎるのだ。筆者のように数の実在性を信じていても、全ての意味の場が数理で表現できるとは考えていない。自然科学であっても、ニュートン力学、熱力学、量子力学、それぞれ異なる意味の場があり、数理表現も大きく異なる。経済学の一部が数理表現を得たように、法学の一部も数理表現されうるのではないかと考えているに過ぎない。法学の数理表現は、近代の天才哲学者であるライプニッツが試みたけれども、スピノザのエチカ「幾何学的秩序に従って論証された」ほどの破壊力は無かった。

マルクス・ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ、2018年)を丁寧に論証した。その発想は数学者アレクサンドル・グロタンディークにさかのぼり、集合全体の集合は存在しないことの解決につながる。グロタンディークの宇宙(U)とは、集合からなる集合Uで、Uの元である集合やその族について集合論的な通常の操作を行っても、その結果はまたUの元となるものだそうだ。このようにして、圏論における集合全体のなす圏が定義され、現代数学の、本当の意味で新しい意味の場が出現した。

岩井克人国際基督教大学特別招聘教授「真の『自由』の意味を問い直せ 危機克服への道筋」(日本経済新聞2021年1月4日付朝刊「経済教室」)は、米国と中国という覇権国家がディストピア(反理想郷)であることを告発している。「自由」の意味を、18世紀の政治哲学、ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論に戻って問い直す必要があるのだそうだ。筆者の文脈では、17世紀の哲学者スピノザの「哲学の自由」を問い直したいけれども、どちらも意味の場としては、今の時代にはついてゆけない。意味の場の変化が速すぎるのであれば、意味が形成される前の、「データの場」を何とかするしかない。Googleはデータを独占しているかもしれないけれども、データが出現する可能性がある全ての「データの場」を独占することはできない。そのような世界(または宇宙U)は存在しないのだから。

「データの場」を具体的に理解するためには、「場のデータ」が何を表現しているのかということを考えることから始まる。「場のデータ」としては、「身体」と「場所」、そしてそれらが相互作用する場を想定できる。「身体」と「場所」は、それぞれ医療と所有権として国家の管理下にある。「身体」と「場所」が相互作用する場は「生活の場」であって、インターネットの覇権企業に狙われている。「データの場」が独占できなかったとしても、「場のデータ」を独占すれば十分だとも考えられる。しかし、「場のデータ」も「表現」である以上、やはり独占できない。少なくとも、「場のデータ」が何を意味しているのか、その理解を独占することはできない。

本論では、覇権国家や覇権企業を悪者のように考えてはいない。どのように巨大で強力であったとしても、人間のスケールでは不可能なことのほうが多い。自然のスケールで考えれば、偶然性から自由になることはあり得ない。自然の条件を無視して、人間社会として過度に自由になると、個人の多様性が失われ、気体分子運動論のような、統計力学的なエネルギーの分配法則によって、貧富の差が最大化する。自然の中に、不自由ながらもそれぞれが生きる場、「生活の場」を見いだすことで、安定した分散を持つ富の分布となるだろう。簡単に言うと、自然の中に「生活の場」を見いだすためには、覇権国家や覇権企業は役に立たないということだ。お金や資本や「データ」のように、集合論的な性質を持つ「もの」は独占できても、「意味の場」や「データの場」のように、多次元の関係論的な「表現」に依存した対象は、独占できない。無理に独占しようとすると、枯渇する危険性すらある。近代以降の人間中心主義を反省し、自然における「不自由」の意味を問い直すことから始めたい。

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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

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