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「資本主義の問題点の解決策」(1)マルクスの思想(後編)
『視点を磨き、視野を広げる』第18回

5月 30日 2018年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆ 本稿の狙い

前々稿と前稿では、資本主義の批判者としてのマルクスの思想をみてきた。本稿においては、その今日的意味を考えたい。

マルクスは、資本主義的生産様式が内在する労働者の貧困、不平等の拡大、不況の不可避性を批判的に論じたが、1930年代はそれらが顕在化した「資本主義の危機」の時代であった。そこにジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946)が登場し、政府による経済への積極的介入によって有効需要を創り出すことで完全雇用が可能になるとした。ケインズ政策は、政府の役割の増大によって労働の完全雇用と経済活動の安定化、所得分配の平等化を図るものであり、戦後の西側諸国政府の基本的な政策となった。修正資本主義体制と呼ばれるように、資本主義は自らを「修正」することで生き延びたのである。しかし、1960年代以降はケインズ政策の限界が現れてくる。本稿では、まずケインズ政策の行き詰まりと新自由主義の台頭をみる。次に、新自由主義的政策が不平等を拡大し「新たな危機」を生み出していることを明らかにし、最後にそうした現代社会の問題点に対してマルクスの思想がもつ意味を考えてみたい。

なお、前・中編で指針とした3冊の本、宇沢弘文『経済学の考え方』、森嶋通夫『思想としての近代経済学』、松原隆一郎『経済思想入門』を本稿においても参考とする。

◆ ケインズ政策の行き詰まりと新自由主義

●ケインズ政策の行き詰まり
経済学は資本主義とともに始まり、資本主義と軌を一にして発展した。アダム・スミスが確立し、D・リカードとR・マルサスが発展させた経済学は古典派経済学と呼ばれた。この古典派を継承して経済学の主流派となったのがA・マーシャルらの新古典派である。

1929年の世界恐慌による大量失業と経済混乱によって主流派であった新古典派は勢力を失う(「経済学の第一の危機」)。そこに登場したのが、J・M・ケインズ(1883~1946)であった。ケインズは、新古典派の供給が需要を作るという「セーの法則」を否定し、需要の大きさで総生産量が決まるとした。「有効需要の理論」と言われるもので、政府の積極的な財政・金融政策の必要性を説いた。米国ではケインズの理論に基づき「ニュー・ディール政策」が採られた。

第2次世界大戦後、ケインズ政策は各国政府に採用され「ケインズ革命」と呼ばれた。戦争を挟んで主要先進国で一般的な政策となっていく。ケインズの意図は、「資本主義をどのようにして救うことができるか」(宇沢)にあり、「所得分配の不平等化が進み、非自発的失業の大量発生が、長期間に渡って続く時、資本主義は、一つの制度として存続することは極めて困難になるとケインズは考えていた」(宇沢)とされる。

しかし、1960年代から70年代にかけて米国のベトナム戦争を背景として資本主義経済は不安定化していく。その中で起きた第1次石油危機は、世界経済にも打撃を与え、ケインズ政策は有効性を失っていった。1970年代は経済学の分野においても新古典派及びその派生学派による反ケインズ経済学が流行する。

●新自由主義
反ケインズ経済学の中で社会に大きな影響を与えたのはマネタリズムであった。宇沢は、マネタリズムを「経済学の一つの考え方というよりは、一つの政治哲学的な考え方ないしは思想である」としているように政府の政策に反映されることで米国社会に影響を及ぼしたのである。

マネタリズムを代表する経済学者は、ミルトン・フリードマン(1912〜2006)であり、古典派の貨幣数量説を引き継ぎ、通貨の供給量だけ管理すればよいという自由放任主義を唱え、古典的自由主義に対して新自由主義と呼ばれた。

1980年の米国大統領選挙に当選した共和党のロナルド・W・レーガン(1911〜2004)は、三つの公約である軍事費の大幅な拡大、連邦政府予算の赤字解決(社会保障費の大幅削減)、所得税の大幅減税を実施に移した。減税政策には「反ケインズ学派のサプライサイド経済学(供給力を強化することで経済成長を達成できるとする)のA・ラッファーの説(「税率を下げれば税収が増大する」)が反映されていた」(宇沢)とされる。また、フリードマンの新自由主義政策の影響を受け、規制の撤廃を推進した。特に、金融規制の緩和・撤廃の影響は大きかった。なぜなら、米国の金融規制は大恐慌時の教訓から金融機関に対して投機的行動を厳しく規制してきたが、これらの多くが緩和されて後の金融バブルの誘発とその後の金融危機に結びついていったからである。

レーガンの経済政策は、米国経済を不安定化し、「双子の赤字」と呼ばれる貿易赤字と財政赤字の併存に苦しみ、失業率も上昇した。国際的な不均衡も拡大し、発展途上国の対外累積債務問題が顕在化した。宇沢は、こうした状況を「1930年代以来の規模を持つ、一大不均衡時代」であり「危機的状況を形成していた」とする。そして英国の経済学者ジョーン・ロビンソン(1903〜1983)の「経済学の第二の危機」(*注1)を引用し、資本主義の行方に警鐘を鳴らし、経済学者の果たすべき役割を訴えるのである。

しかし、宇沢の期待とは反対に、規制緩和を旗印とした新自由主義の流れは英国(サッチャリズム)や日本(中曽根政権、小泉改革)においても実施された(*注2)。そして資本主義システムは、金融ビックバンによって金融を新たな巨大市場として発展させ、さらに新興国市場の開拓によって資本増殖の速度を上げていくのである。その間、新興国の通貨・金融危機、リーマン・ショックと危機は断続的に発生しており、資本主義経済の不均衡は拡大している。

◆ マルクス思想の今日的意味

●「弁証法」を横において考える
森嶋は『思想としての近代経済学』において、アダム・スミス、リカード、ケインズと並んでマルクスを経済学の特別な巨人としている。そこでマルクスの歴史観をなす史的唯物論(唯物史観)を論じるのであるが、最初に「弁証法を無視して」説明するとする。弁証法とは、自己の内部に生まれる対立・矛盾を通して一層高い段階に進む(「止揚する」)ことで、より高次なものへ発展するという考え方であり、史的唯物論においては、資本主義は矛盾によって崩壊して新しい段階の生産様式である社会主義に必然的に進むという思想を導く。

森嶋は、弁証法を使わないことによって、生産力に規定される経済(下部構造)と上部構造である政治、文化の関係はより相互的に考えてよいと主張するのである。森嶋はこれを「謙虚な唯物史観」と呼んで「紋切り型の唯物史観」(「マルクス主義イデオロギー」)と区別する。

マルクスの史的唯物論の基本型は19世紀英国をモデルとしており、経済が政治・文化を規定するとする。しかし、上部構造が下部構造に影響を与えることもあると考えれば、英国の資本主義とフランス、ドイツのようなヨーロッパ大陸の資本主義との違いの説明がつく。大陸型では、国家の経済への関与がより大きいがこれは上部構造が下部構造に影響を与えていると考えれば納得がいくのである。同じことは日本の資本主義についても言えるだろう。

また、社会主義体制が崩壊し資本主義的な市場経済が導入されたが、「謙虚な唯物史観」的観点は、その移行過程におけるソ連と中国の違いをうまく説明してくれる。ソ連は社会主義の本家であったので「紋切り型の唯物史観」にこだわり、経済(下部構造)システムの変更には政治体制(上部構造)の変更が必要だと考え実行した(*注3)。しかし、中国は、共産党一党支配という政治的上部構造はそのままにして政治的安定を確保し、下部構造である経済に市場機能を導入し私有財産を容認することで、経済の活性化に成功したのである。

多くの国々においては、歴史と慣行の集積体である社会を形成する上部構造こそが重要なのであり、上部構造が下部構造を規定することもありうるのである。以下、そうした「謙虚な唯物史観」に立ってマルクスの思想の今日的意味を考えた。

●マルクスの思想の今日的意味――(1)「資本」の本質
マルクスの経済学は政治経済学である。政治経済学とは、経済現象を上部構造である社会構造、政治、文化を含めた広い視野から分析する学問であり、その意味で人間の経済学である。これに対し、現在主流の新自由主義経済学などの反ケインズ経済学は、抽象化した人間を前提とし市場機構が果たす役割への過度の信頼を特徴とする。その政策は、合理性の追求を基本としており、現代資本主義の諸問題はむしろ合理性の不足から生まれると考えるのである。そこには「人間の経済」という視点は存在しない。これがマルクスの思想と決定的に違う点であり、この「人間の経済」の回復に、マルクスの思想の今日的意味が存在するのである。そして現代資本主義理解において、マルクスの思想が持つ最も重要な論点は、「資本」の本質と「疎外」の考え方についてであり、その理由を以下説明したい。

「資本」主義とは、「労働力を商品化し剰余労働を剰余価値とすることによって資本の自己増殖を目指し、資本蓄積を最上位に置く社会システム」(*注4)であり、永久に剰余価値(利潤)を求めて自己増殖を続ける。そしてそのためには常に新しい市場が必要であり、「市場を求める資本の自己増殖競争」という視点を持つことで、産業革命以来の近現代史が理解できるだけではなく、現代資本主義の諸問題とのつながりが明らかになるのである。

19世紀に確立した自由主義的国家,自由貿易,自己調整的市場,国際金本位制などに象徴される古典的資本主義は、その根底に資本の飽くなき自己増殖の欲望が存在した。その活動は、先進資本主義国内の不平等を生起するだけではなく、国境を超えて広がることによって国際的には国家間の不平等をもたらす。これが、その後の帝国主義諸国間の争いである第1次世界大戦の原因となった。この構図は、第2次世界大戦においても基本的に同じであり、帝国主義間の植民地戦争に民族主義,植民地の抵抗がからんで第2次世界大戦が起こったのである。

戦後の米国では、(人類史上初めての)大衆が主役の「豊かな社会」が実現し、他の先進諸国にも広がっていく。しかし「資本」は永遠に自己増殖を求めるので、次なるフロンティア市場として新興国の開拓にとりかかりこれに成功する。さらに最後のフロンティアとしての金融部門に工学を持ち込んで巨大な市場に発展させ莫大(ばくだい)な利益を上げた。しかし、もはや残されたフロンティアはわずかで資本の増殖要求に十分に応えることができないところまできてしまった。それが、金利と利潤率と成長率の低下に苦しむ現代資本主義が直面する危機(経済学が回答を持たないという意味で「経済学の第三の危機」)なのである。

日本国内の問題を考えてみよう。現在国会で議論となっている労働法制の改革の背景には、資本の論理が存在する。資本側は利潤を増やすために、労働者の賃金を引き下げるか、労働時間を増やそうとするのは当然の行為であり、現在議論されている裁量労働の範囲拡大は、賃金の上限設定と、実質的な労働時間の増大を目的としている。これは、資本側にとっては利潤の、労働者からみれば搾取の拡大だということになる。

また、非正規労働者の増大に関しても、同じ労働をさせて実質賃金を低位にとどめ、かつ雇用者数の柔軟な調整が可能な資本側に都合の良い仕組みということになる。さらに、非正規労働者という新しい「産業予備軍」の存在(松原)は、正規労働者にとっても「代わりはいくらでもいる」という圧力となり、賃金抑制や労働強化につながりやすい要因となる。

しかしながら、こうした動きは日本の資本家(経営者)が自己の利益増大だけを考えているから起こったことではなく、資本主義諸国間の競争激化の中で生き残りのために合理的に判断した結果にすぎないという点を理解しておくことが必要だ。その根本には、米国を本家とする現代資本主義の経済合理性の追求による利潤極大化要求と経済のグローバル化が存在するのである。

●マルクス思想の今日的意味――(2)「自己疎外」
マルクスの思想の今日的意味を考える上で、もう一つ重要な概念として「疎外」がある。「疎外」は哲学用語で、「人間が自ら作り出した事物や社会関係・思想などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出すること。また、その中での、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態」(コトバンク:デジタル大辞泉)をいう。マルクスは、ここから資本主義によって人間が非本来的状態になることを「自己疎外」と表現した。

人間の社会は本来は人と人との関係によって成り立っている。しかし、私的所有を前提とし、分業と機械化によって特徴づけられる資本主義的生産様式にあってはそうではなくなると考える。例えば、人間の労働は人間の「生」の目的であり不可分のものであったが、全てが商品化される資本主義においては、労働力も商品となることで人間から分離される(「自己疎外」)。そして、人と人との関係が商品としての物と物との関係となることによって、過去の慣行の集積(人間社会)から「疎外」されてゆく。
また、マルクスは「疎外」概念を貨幣に適用する。貨幣は商品交換の媒介として生まれた。機能は、価値の尺度であり流通手段であるとともに、貨幣としての機能(蓄蔵機能)を持つ。このように貨幣は人間のために作られたが、あたかも貨幣自身が価値を持つ存在であるかのように見える。さらに貨幣は蓄積され資本となるが、そこから生まれる利潤や利子は資本が生み出したものとみなされるようになる。こうして、商品、貨幣、資本そのものに元々価値があるかのように見え、逆に人間を支配していると考えるのである。神は人間が生み出した存在であるにもかかわらず神によって人間が支配される状態を「物神性」と呼び、「商品の物神性」、「貨幣の物神性」というのである。マルクスは、資本主義的生産様式に隠されたこうした転倒性を明らかにすることによって、人間の「こころ」を支配する資本主義に対して人々に警鐘を鳴らすのである。

こうした転倒性は、現代資本主義に特徴的に表れている。商品生産は本来は人間の使用に供するために行われるが、現代資本主義は人々の欲望を刺激することで需要を創り出していく。消費のための生産が、生産のための消費を造出することによって成り立っている。商品の媒介手段として作られた貨幣が、「貨幣への偏愛」によって人間を支配する。金銭欲に支配された人間は、自己増殖のみを目的とする資本に操られて道徳観なき強欲主義に走るのである。

◆ おわりに

既に見たように、マルクスは資本主義を分析し、資本の本能的自己増殖運動の過程で不況や不平等を引き起こしてしまうという構造的な欠点を持つことを理論的に明らかにした。それによって労働者に自らを主張する理論的基盤を与え、資本との対立を通じて資本主義に修正を余儀なくさせた点は、大きな成果といわねばならない。

そして、本稿で考察したように資本主義批判の視点としてのマルクスの思想は現在でも有用であると考える。マルクスが教える「資本」の論理は、社会の表面的事象の裏に隠された「本質」を鮮やかに示してくれるのである。しかし、かつては資本主義批判の先にあった理想としての社会主義社会への幻想はもはや存在しない。前稿でみたように社会主義体制という試みは失敗したのであり、そこから目をそらさずにその理由を考え続けることが重要なのである。

では、わたしたちは資本主義の問題点を改善するために、何をしてどこに向かえばよいのであろうか。その問いに対して、前述の3冊の本で展開される思索は多くのことを教えてくれる。それは、宇沢の「社会的資本」の概念や松原の「共有資産」であり、森嶋の「資本主義部門と福祉部門のバランス」である。次稿ではこれらの思索について考えてみたい。

<参考図書>
『経済学の考え方』宇沢公文著 岩波文庫、1989年
『思想としての近代経済学』森嶋通夫著 岩波文庫、1994年
『経済思想入門』松原隆一郎著 筑摩書房、2016年

(*注1)ジョーン・ロビンソンは「経済学の第二の危機」と題して、1971年に米国経済学会で講演した。ロビンソンは、ケインジアンであるが政治的には左派の論客として知られ、講演では資本主義がもつ貧困、不平等といった問題点を批判した。彼女を招いたのは当時経済学会会長であったジョン・K・ガルブレイスである。ガルブレイスの考えについては、2017年2月14日付の拙稿第2回「『ゆたかな社会』―“資本主義の諸問題の一考察”」を参照されたい。https://www.newsyataimura.com/?p=6360#more-6360

(*注2)松原は、小泉改革を「新自由主義」というよりも「新重商主義」ととらえるべきだとする。その政策は輸出産業優遇であり、19世紀以来の「重商主義」的だとするのである。そうだとすれば、円安になれば上昇する株式市場の動きに一喜一憂するだけの日本経済の現状が腑(ふ)に落ちる。別の機会にもう少し考えてみたい。

(*注3)ロシアの大統領は公選。議会は多党制。共産党一党独裁を維持する中国とは違う。

(*注4)出所:ブリタニカ国際大百科事典(コ

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