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今だからこそ問う アベノミクス
(上)米国との比較

8月 08日 2013年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住15年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

1980年代の落ちぶれたアメリカ。97年のアジア金融危機の中で瀕死の重傷を負ったタイや韓国。これらの国々はその最悪の状況から、幸運にも恵まれ復帰をなしえてきた。一方で、わが日本はバブル経済崩壊以降、はや20年の年月がたつにもかかわらず、私の目からは回復の兆しが見えない。人々は、アベノミクスによって円安株高が実現し景気回復が実感されつつあると言うが、従来と何が変わったのだろうか? 最悪期にあったアメリカとタイに当時勤務し、その回復の道のりを実際に見てきた者として、これらの国々と日本の現状を2回に分けて比較検討してみたい。

◆ブラックマンデーからの復活

私が2回目の米国赴任をしたのは1987年のことであった。その年の10月19日に史上最大の株の暴落である「ブラックマンデー」が起こり、いよいよ奈落の底へと落ちていった。

一方で、日本はバブル景気を迎え、「Japan as NO.1」ともてはやされた時代である。当時の米国は、株価の暴落から不動産価格の暴落へと連鎖し、住宅貸付組合であるS&Lや銀行が次々と倒産していった。

88~89年にはテキサス州ダラスの大手銀行であるファースト・リパブリックバンク・コープやエムコープが倒産。91年には東海岸のバンク・オブ・ニューイングランド・コープやコネティカット・バンクが倒産、また当時全米5位だったマニュファクチャラーズ・ ハノーバー・トラスト・バンクがケミカル・バンクに救済合併。92年には全米7位だった西海岸のセキュリティー・パシフィック・バンクがバンク・オブ・アメリカに吸収された。

米国の製造業は日本企業に敗れ去り、街には失業者があふれていた。92年に起こったロサンゼルスの大暴動のイメージと重なり、米国はもう復活できないのではないかとさえ思われた。しかし米国は、こうした中でいくつかの重要な施策を行い、再生してきたのである。私は、米国を復活に導いた背景には、以下の3つの要素があると思っている。

◆学校教育の自由化と結果責任

その第1に挙げられるのが、教育改革である。89年に就任したブッシュ大統領は、全米の州知事を集めて2日間の「教育サミット」を開催。英語、数学、理科、歴史などの主要科目の成績向上を目指すと共に、高校の卒業率を90%超とする目標を立てた。一方で薬物使用、暴力からの解放も目標とした。具体的には、不登校、暴力などの問題児を「オルタナーティブ・スクール」という特別な学校に集め「寛容さゼロ」方針に基づき、厳しい処罰を行うことにしたのだ。

これはアメリカの学校の秩序回復に大きく貢献した。93年に大統領職を引き継いだクリントンは、教育政策についてはブッシュの施策をさらに強化。具体的には、学校教育における父母の関与責任を明確にすると共に、「チャーター・スクール」制度による自主教育を積極的に活用した。

チャーター・スクールは、公立学校でありながら手作りの教育を望む親や教育者たちが独自の教育理念で運営する学校である。自律性が認められるが、一方で厳しい教育結果責任も求められている。91年に始まったこのチャーター・スクールによって学校教育の自由化が推進され、学校間の切磋琢磨が行われ、結果として米国の教育は復権した。

当時私が勤務していた東海銀行ロサンゼルス支店では、学校債の保証業務をいくつか手掛けており、こうした取引先の大学の信用調査のため、何度も大学を訪れた。当時から学長自らがアジア各国を訪問し、優秀な生徒の入学を働きかけると共に、こうした学生のための英語教育の施設を積極的に導入したり、著名な人々を教授に招き入れる努力をしたりしていたことを思い出す。

◆冷戦終結で軍事技術がIT産業に移行

第2は、IT産業の集積と政府の支援体制である。89年のポーランド、ハンガリーの自由化。同年11月のベルリンの壁の崩壊で勢いを増した東欧の自由化の波は、ついに91年12月にソビエト連邦の解体、ゴルバチョフの辞任へとつながった。長らく続いた米ソ間の緊張は、米国の軍事力一強時代へとなっていく(一方で、経済的には日本の台頭により、米国は衰退への道をたどっていった)。

こうした米ソの冷戦終結は、米航空宇宙局(NASA)や米国防総省(ペンタゴン)に蓄積されていた分散系コンピューター技術の開放につながっていく。当時はまだ大型コンピューター主流の時代だったが、米軍事産業の中では、ソ連のコンピューター技術に対抗するため、多様性とリスク分散の観点から分散系コンピューターの技術開発が優先して行われていたのである。

当時厳しい財政事情を抱えていた米政府は、ソ連崩壊と共に軍需産業への支出を大幅に削減していった。東海銀行は当時、ボーイング、ロッキード、ハワードビューズなどと取引していたが、防衛産業に従事するこれらの企業は政府の支出削減に対応するため、合併と従業員の削減を繰り返していった。

こうした中で防衛産業の技術が米西海岸に集積し、IT産業が栄えていったのである。今でも米防衛産業の中には膨大な技術力が蓄積されていると思われる。友人の技術者は昨年、NASAを見学した際に「X線断層写真技術による解析手法」や「相手にさとられずに(ステレス性)一瞬のうちに情報を伝達する技術」などを見せてもらったというが、「防衛の発想がないと開発をしない技術ではないか」と話している。

◆オフシェア市場とユダヤ系の台頭

そして第3は、非居住者から資金を調達し、非居住者へ資金の貸し出しをするためのオフシェア・マーケットの活用である。そもそも米国は第2次世界大戦以降、ソ連と対抗しながらも「世界の警察官」を自任して不正につながりかねないオフシェア・マーケットに厳しい対応をしてきた。

この背景には、ソビエト革命を主導したユダヤ人への強い警戒感があり、これは戦後直後のレッドパージ(ユダヤ人迫害)へとつながっているのである。しかしながら86年に起こった英国の金融市場改革(ビックバン)が、米国の考え方を大きく変えていった。

英国はビックバンによって、オイルショック以降裕福になった産油国資金と米国と対立していたソ連の資金を吸収し、この資金をロンドン・シティ傘下のオフシェア諸国に流してマネーの世界の覇権を握っていた。

一方、ビックバンによって英国にあったユダヤ系のマーチャント・バンクは次々と欧米系の銀行や投資銀行に吸収されていったが、「軒を貸して母屋を取られる」かのように、いつのまにか欧米の主要金融機関の中にユダヤ系が入り込む構図になっていった。具体的には、シティグループによるソロモンやクーンレープ、バンク・オブ・アメリカによるメリルリンチ、ドイツ銀行によるモルガン・グレンフェルの買収などである。

29年の大恐慌の後、米国では33年にグラススティーガル法を制定し、銀行と証券業務を分離したが、金融機関の強大な影響力を排除しようという力が働いていた。しかし、金融機関はこれに対し抵抗を試み、81年にデラウェア州で「金融センター開発法」が施行され、金融子会社の州税免除や上限金利の廃止が決定された。また英国のビックバンに対応する形で86年に「海外開発法」が制定され、米国内においても、海外の銀行のオフシェア業務が認められるようになった。

この頃から米国では、金融業務に関して規制緩和方向へ大きく舵を切り、金融業務を米国の主業務へと切り替えていく。米国は連邦法と州法の二重基準をたくみに使い分け、また弁護士による信託法や守秘義務の便法を使い、オフシェア業務を米国の活力源と変えていくのである。

そしてこの背景にあったのは、ロンドン・シティのオフシェア・マーケット勢力との競争であり、米金融界におけるユダヤ人勢力の台頭である。95年にユダヤ人であるルービンが財務長官に就任し、99年には金融近代化法案を成立させ、銀行と証券の一体業務が認められた。ルービンに続くサマーズ、ガイトナーの両財務長官もユダヤ人であり、米連邦準備制度理事会(FRB)の前議長グリーンスバンも、現議長バーナンキも然りである。

米国の金融業界は、2001年から始まる日本の量的金融緩和政策によって生じた過剰流動性資金を利用し、世界的バブルを起こした。これがリーマン・ショックの一面の事実と思われる。いずれにしても、米国は金融業界やオフシェア・マーケットを使い、世界の富を再分配する力を得たのである。

◆総花的に映るアベノミクス

以上見てきたように、米国の復活には、大きな社会構造の変化とそれを生み出すための強い意志が働いていたと考えられる。

これに対して、アベノミクスはどうか。①金融緩和②財政出動③成長戦略――というアベノミクスの「3本の矢」のうち、1本目と2本目の矢はすでに放たれたが、国債価格の下落や住宅ローン金利の上昇などの「副作用」が出始めているし、3本目の矢については不確定要素が多い。「早期のデフレ脱却と民間主導の持続的成長の実現」という目標を達成するには、総花的な成長戦略としか映らず、あまりにも力不足である。

次回は、1997年の経済危機から抜け出したタイの成長の軌跡を見てみたい。


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