п»ї マレーシアの玄関 マラッカ『マレーシア紀行』第4回 | ニュース屋台村

マレーシアの玄関 マラッカ
『マレーシア紀行』第4回

5月 30日 2014年 国際

LINEで送る
Pocket

マレーの猫

エネルギー関連業界で30年以上働いてきたぱっとしないオヤジ。専門は経理、財務。実務経験は長く、会計、税務に関しては専門家と自負。2012年からマレーシアのクアラルンプールに単身赴任。趣味は映画鑑賞、ジャズ、ボサノバ鑑賞、読書。最近は浅田次郎の大ファン、SF小説も

マレーシアでの単身駐在期間が長くはなってきたが、それでもこの国のことをあまり知らない私があれこれ書くのは気が引けるが、旅行記第4弾を書くことをお許しいただければと思う。今回紹介させていただく場所は、クアラルンプールから車で約2時間で行けるマレーシア半島の西海岸にあるマラッカである。

マラッカ海峡は世界的にも有名で、日本の小学校でも社会科の授業で習うので、知らない方はいないと思う。ただ私自身、名前も海上交通の要衝であるということも知ってはいたが、それ以上のことはほとんど知らないというか、マレーシアに来るまでは興味もなかったのが正直なところである。

◆マラッカの歴史

まずマラッカの歴史について述べるが、マラッカ王国建国の歴史にさかのぼる。同王国は、スマトラ島のパレンバンにいたシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラが、1396年ごろ(1402年という説が一般的)に建国したそうである。彼はパレンバンを統治していたマジャパヒト王国の内乱に乗じて独立を企てたが失敗して、シンガポールへ逃亡したが、その後タイ(シャム)のアユタヤ王朝からの攻撃にさらされたため、ジョホールからマラッカへ退避して王国を建設したとのことである。

マラッカ王国は北の大国シャム、北スマトラのサムドラ・パサイ王国両国からの脅威を牽制(けんせい)するため、明国と朝貢貿易を通じて同盟を強化していった。マラッカ王国は1414年ごろにはイスラム化して、香辛料貿易における東西中継港として繁栄を極めていくことになる。東西交易のルートとしてはシルクロードが有名であるが、同じように海上の道も交易ルートとして発展していったのである。そしてアジア侵略を目指すヨーロッパ諸国にとってマラッカは重要な場所であり、外国の支配はこの地からマレー半島全体に及んでいくことになるのである。

そしてその後1511年にはポルトガルに征服され、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点となった。その時代を示すものは、私も今回の訪問で見たが、「サンチャゴ砦(とりで)」という要塞(ようさい)跡であり、また「セントポール教会の跡」などである。後で述べるが、イエズス会のフランシスコ・ザビエルはここから日本を含む東アジアへの布教に出発したのである。

その後1641年、オランダ東インド会社がジョホールのスルタンの援助を受けて、マラッカを占領した。ただ、オランダの東南アジアにおける拠点はインドネシアのジャカルタ(バタビア)であったので、オランダ領時代のマラッカはマレー半島で産出する錫(すず)などを輸出する地方港となってしまった。

その後1824年に締結されたイギリス・オランダ協約で、スマトラ島のイギリス植民地のアチェ王国とマラッカは交換されてしまったのである。そのため、マラッカ海峡の西側はオランダ領、東側はイギリス領と定められることになった。1826年、イギリスのトーマス・ラッフルズはペナンやシンガポールとともにマラッカもイギリス領海峡植民地として成立させたのだが、近代的なシンガポールの台頭がその後著しくなり、マラッカの港湾機能としての地位は徐々に下がっていくことになるのである。

◆歴史に埋もれた日本人 マラッカと日本のつながり

イエズス会のフランシスコ・ザビエルは、マラッカで1547年に鹿児島出身のヤジローと言う人物と出会う。そしてその後、彼と一緒に日本へ向かい、1549年に鹿児島の大名島津貴久氏に謁見(えっけん)し、宣教の許可を得るのである。

このことは、歴史上日本で初めてのキリスト教の布教活動であったとのことである。ただ、このヤジローなる日本人に関してはほとんど文献が残っていないそうで、どのような経緯で日本からマラッカに渡ったかもはっきりとは分かっていない。一説には、武士であったが日本で事件を起こして日本には居られなくなり、国外へ逃亡したということであるが、本当のことは良く分かっていないようである。ただ、ポルトガルの植民地時代のマラッカに彼がいて、ポルトガル語をある程度しゃべることができたため、どのような経緯か分からないがフランシスコ・ザビエルと知り合うこととなり、彼を日本まで案内したのである。

そしてフランシスコ・ザビエル生誕500年を記念して、鹿児島県の「ザビエル上陸顕彰会」および「鹿児島マレイシア友好協会」が、2006年7月1日にマラッカのフランシスコ・ザビエル教会へザビエルとヤジローの彫像(文末の写真参照)を寄贈したのである。

ただ、マラッカには1521年にポルトガル人によって建てられたセントポール教会があったが、現在はその教会跡しかなく、教会跡のすぐそばにはフランシスコ・ザビエル像が建てられている。どのような経緯があったかは分からないが、その後1849年にフランス人がそのセントポール教会から少し離れた場所にゴシック建築のフランシスコ・ザビエルを記念した教会を建設し、その約160年後に日本からヤジローとザビエルの彫像が寄贈されることとなったというわけである。

私もこの教会を日曜日の午前中の礼拝時に訪れたが、同教会はリトルインディアというインド人街にあるため信徒の多くがインド系マレーシア人であり、礼拝がタミール語で行われていることに大変驚いた次第である。差別や偏見だとお叱りを受けるかもしれないが、私自身インド人はほとんどがヒンズー教徒だと勝手に思い込んでいたため、教会内にいる人々ほとんど全員がインド系の人たちであることにとても大きな違和感をおぼえたのであるが、これこそがマラッカおよびマレーシアの多様性であり、先入観でものごとを判断してはいけないと深く自戒したのであった。

◆多様な民族の共生

今回私はマラッカのチャイナタウンにあるホテルに宿泊したのだが、なかなか面白い経験をすることができた。マラッカのチャイナタウンは結構小ぎれいな感じで、色々な店があるのがとても面白かった。

街中には1646年に中国本土から資材を運んで建てられたというマレーシア最古の中国寺院「青雲亭(チェン・フン・テン)」があり、またすぐそばにはイスラム教のモスクもあり、華人系マレーシア人とマレー系マレーシア人とがうまく共存している様子が理解できた。

また土曜の夜だからだと思うが、夕方になるとチャイナタウン内のほとんどの道路が歩行者天国となり、屋台が道路の両側に並び、主として食べ物屋の露店が数百店ほど並んだのは壮観であった。夜中まで露店は営業していたようであったが、私は午後10時過ぎにはホテルに戻って就寝してしまった。

宿泊したホテルにはシンガポールや中国本土、香港からの華人たちが大勢宿泊しており、朝食時に同席となったシンガポール人夫妻によると、シンガポールから車で2時間程度で来ることが出来るので、時々マラッカに遊びに来ているとのことであった。シンガポールより物価は安いし、コンクリートジャングルの街からマレーシアに来ると気分転換ができるのがうれしいとのことであった。

私が今回の旅行で感心したことは、このマラッカはクアラルンプールより華人系、インド系の人たちの人口に占める割合は高いが、お互いに相手の文化を尊重しながらとてもうまく共生していることであった。まあ昔から多くの民族が渡来してきたわけであるが、そのようにしなければ平和に暮らしていけないため生活の知恵であるかもしれないが、民族や宗教が違ったとしても、お互いの違いを認め合うことで平和は維持できるということを認識できた。

ただマレーシアは人口が少なく、ある程度所得水準が高いため「金持ちけんかせず」の言葉が当てはまるのかもしれないし、マレー人たちの気質によるところが大きいのかもしれないが、種々の要素が複合して、このように多様性を認め合うようになったのではないかと勝手に納得した次第である。

今回は行けなかったが、ここマラッカにはポルトガル人の子孫たちがまとまって住んでいる地区もあるそうで、そこでは欧州系の風貌(ふうぼう)をした人々を多く見ることができるそうなので、次回はそこを訪問してみたい。マレーシアはどこでもそうかもしれないが、特にこのマッラカでは多様な民族や宗教がとてもうまく共存、共生しているということを強く認識することできた旅行であった。

 
【写真説明】
マラッカのリトルインディア地区にあるカトリック教会敷地内にある「ヤジローとフランシスコ・ザビエルの像」=筆者撮影 

コメント

コメントを残す