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今だからこそ問うアベノミクス
(下)タイとの比較

8月 23日 2013年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住15年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

タイは階級社会である。各支配階級に属する人間は、さらなる利権を求めて動くが、この階級社会が維持されることが彼ら自身の基盤であることをよくわかっている。

タイでは1932年の立憲君主民主制制定以来、70回以上政権交代が行われてきたが、これは主に、王族・軍・官僚を基盤とした「タイ人」と、商人から成り上がり民主党を通して政治に関与した「華僑」との利権争いであったと言えよう。こうした状況で無節操な経済運営がたたり、ジョージ・ソロスらのヘッジファンドのターゲットにされ、国家が破綻したのが1997年7月の通貨バーツの大幅切り下げ(タイでは「トムヤムクン危機」と呼ぶ)である。トムヤムクン危機はその後、インドネシア、韓国へ連鎖し、アジア通貨危機に拡大していった。

私がタイに赴任したのは、このアジア通貨危機が起こった翌年の98年5月だった。日本、タイを問わず多くの企業がバーツよりかなり金利の低いドル建てもしくは円建ての借り入れをしていたため、97年の通貨切り下げによってわずか一晩で外貨建て負債はバーツ換算で大きく膨らんだ。

私が当時勤務していた東海銀行の取引先も大半の企業が債務超過に陥った。もちろん、企業がこんな状況であれば失業者も街にあふれかえり、金融機関も軒並み不良債権によって倒産の危機にあった。まさしく未曽有の危機で、どこから手をつければよいのか全くわからない状況だった。

こうした中で、まず国際通貨基金(IMF)主導の改革が行われた。現在ではバブル崩壊後の経済再生で金融緩和策が採られるのが普通だが、これは先進国向けの特例であり、先進国のきわめて身勝手なやり方だと私には思える。なぜならば、IMFは当時、総額172億ドルに上る資金援助の見返りとして、タイに対してきわめて厳しい緊縮財政と金融改革、そして通貨やインフレの安定化を迫ったのだ。 こうした「劇薬」はタイだけでなく、IMFが戦後一貫して金融支援を行う際の条件となっていたのである。

◆IMFの支援受け、緊縮策と金融改革を断行

タイは当時、チュアン首相率いる民主党政権であったが、経済危機の中で民主党の基盤である華僑も勢いを失っており、リーダーシップを発揮したのは華僑支配からの復権を狙うタイ人が主流の官僚であった。IMFの威光を借りながら、緊縮財政と金融改革を断行した。91社あったファイナンスカンパニーのうち56社を閉鎖に追い込んだ。また、銀行による一般企業の持ち株制限の導入などにより、金融資本による産業資本の支配を排除。一方で、外資企業をさらに積極的に導入することで産業の復興を狙い、98年には労働者保護法や改正破産法など企業活動を担保する法律を整備した。2000年には外国人事業規制法を改正し、製造業であれば外資が過半数を占める会社の設立が可能となった。このことが、その後の日系企業の進出を促した。また、これとは別の外貨獲得策として観光業にも注力。98年から「アメージングタイランド」と銘打って、タイ国内の観光業振興を積極的に行ってきている。

◆王族出身の2人の中銀総裁

当時のタイの復興を語るうえで、もう1つの大きな力となったのはタイ中銀であると私は考える。経済危機以降、チャトモンコン、プリディヤトーンと2代続いて王族がタイ中銀の総裁に就任した。王族としての彼らは「このタイ王国は自分たちの国」との強い誇りを持ち、二度とヘッジファンドの餌食にはさせないと奮闘してきた。

私はこれら2人の総裁と何度もお会いする機会に恵まれた。ある日、プリディヤトーン総裁と夕食をした際、彼が過去数カ月にわたり週単位でいくらの資金がタイに流れ込み、それらの資金がどれくらいの利回りで運用されているかのシミュレーションをし、外貨が大量に流入したり流出したりしないように株や通貨などの間接コントロールをしていることを知った。

こうした中銀の人たちの努力によって外貨ヘッジファンドに振り回されることなく、安定した金融環境が保たれ、これが現在のタイの経済成長の基盤となっているのである。

一方、アベノミクスともてはやされながら積極的な金融緩和を行い、結果的にその資金を使ったヘッジファンドのターゲットとされている日本の金融市場は、不安定極まりない。今の日本の株式市場は、いわゆる「仕手相場」そのものに成り下がってしまっている。

◆タイに新風、客家出身のタクシン

2001年、タイに新しい風が吹いた。タクシン・シナワット首相の誕生である。タクシンは客家出身の華僑であり、従来タイの支配者階級の一部を構成していた潮州(中国広東省北部の地域)系華僑と一線を画していた。このタクシンの下に集まったのは、従来の支配者階級に否定的であった新興華僑やタイ共産党の元党員などであった。

この元党員らが起草したタクシン政権の政策は、30バーツ医療制度や一村一品運動などであり、農民などから熱狂的な支持を得た。しかしながら、タクシン政権の本質は、田中角栄に似た「土建屋体質」であると私は考える。

当時、緊縮財政などで力を得ていた官僚に対し、タクシンは人事権を有効に行使するとともに、政府機構の外側に独立行政法人を作り、予算配分枠を取り上げることで官僚の力を削いだ。財政出動を積極的に行い、道路などのインフラを整備するとともに、03年にはスワンナプーム国際空港の建設に着手した。整備されたインフラはその後、日系企業がタイに進出する際の大きな決め手となっている。

◆FTA戦略で外国企業の進出を促進

実業界での成功体験を持つタクシンは、「企業経営的政治」を標榜し、海外に積極的にタイをアピール。東南アジア諸国連合(ASEAN)での主導権獲得を目指したが、こうした態度はタイ国民に大きな自信を与えた。

タクシンはまた、日本企業やタイ企業の経営者の要望なども採り入れて積極的に自由貿易協定(FTA)戦略を展開。日本、アメリカ、欧州連合(EU)、オーストラリア、インドなどは二国間FTA、中国や韓国とはASEANとのFTAを締結。タイのFTA網は世界の主要国をカバーしている。こうした積極的なFTA戦略によって、日本企業はタイの拠点を世界的な輸出戦略拠点へと格上げしていったのである。
2000年以降 日系企業が次々とタイに進出してきた理由は、以下の4点に収約できる。

①市場が伸びている
②良い品質のものが安価で生産できる
③海外への輸出拠点化
④日系企業が利益を上げやすい

タイは日系企業が進出しやすい環境を次々と整備することにより、日系企業と共存共栄を図り、経済再生に取り組んできた。一方で、日本政府は国内企業に対して多くの規制と過重なコスト負担を強いてきたため、それに嫌気がさした企業は次々と外に飛び出したのである。

もちろん、人口構成の違いや階級社会であるがゆえの安価の労働力の供給など、現在の日本がそのままタイの施策を模倣することはできない。しかしながらこの20年、日本政府は企業活動の活性化を促すような施策を採ってきたであろうか?

これまで見てきたように、タイは中銀による経済安定化、官僚による規制整備と緩和、タクシン政権によるインフラとFTA整備など、それぞれの時代に強いリーダーシップを発揮してきた人がいる。これに対し、今日のアベノミクスの成長戦略は「各省庁の可能な政策の寄せ集め」としか映らない。そう思うのは果たして私だけであろうか?

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