表現・確率・生命
『WHAT^』第39回

11月 04日 2021年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o 株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

ⓒ福田徹、一般社団法人二科会写真部、2021、第69回展二科会写真部作品集、p387

写真が記録ではなく表現となったのは、いつごろからだろうか。筆者は『見ることの神話』(中原佑介 著/粟津潔 デザイン、フィルムアート社、1972年)に決定的な影響を受けた。写真家はシャッターを押す前に、何かを見ている。写真家には見えていないものが、写真に偶然写ることもあるだろう。しかも、写真家は作品となる写真を見ている。写真機がデジタルになっても、写真家の網膜や頭脳は、アナログであり、デジタルでもある。網膜の視神経や、脳の神経細胞は、個数を数えうるという意味でデジタルだ。しかし、ひとつの神経細胞では「見る」という機能を実現できない。多くの神経細胞がネットワークでつながり、神経細胞以外の細胞たちと共に生きているという意味ではアナログだろう。『見ることの神話』ではさらに、ひとりで見ることはできない、少なくとも表現としての「見ること」は、社会や社会制度に大きく依存し、制約され、表現の「場」の問題でもあることを明らかにした。物理学における「場」は、波動とともにありアナログな世界だった。量子力学によって「場」も量子化され、粒子の生成と消失を表現する「場」のデジタルな性質も明らかになった。写真が表現となったのは、写真を撮るのではなく、写真を見ることが意識されたときからと、暫定的に答えておこう。

写真に偶然に写ったものは、無作為に写ったともいえる。そのような偶然性を全く含まない写真は、おそらくない。デジタル写真では、写真家は作為的に映像を編集できる。作為的な編集作業が表現なのか、偶然性を受容することが表現なのか、表現者と作品の関係には、さらに表現の場による作品の解釈も加わるので、簡単には結論できそうもない。表現の問題を、確率の問題に置き換えてみよう。サイコロを振る立場の人びと、もしくはサイコロの結果にしたがって賭博をする人びとにとっての確率は、表現者の立場からの確率現象であり、主観確率となる。サイコロの結果自体は、乱数列となり、確率の世界における作品となる。実際に起こった乱数列を、出現しうる事象の中で、どの程度出現しやすいのかと解釈する立場が、頻度主義であって、客観確率とも呼ばれる。頻度主義では、確率の場や解釈とはいわないけれども、多数回の試行に関する多数者の理解が問題となっている。確率における作品、乱数列があまり話題にならないけれども、20世紀前半に活躍した数学者、フォン・ミューゼスが考えたコレクティブによる確率の定義が近い。最近では、コレクティブの議論よりも、確率現象の予測不能性を定式化した、アルゴリズム的ランダムネスの議論のほうが発展している。確率論の読みものとしては『眠れぬ夜の確率論』(原啓介、日本評論社、2020年)が、ユニークかつ広範な話題を紹介していて面白い。

筆者の仕事での立場は頻度主義で、多数のパラメーターを最適化する場合には、ベイズ流の計算方法を借用している。しかし、計算機による実際の計算には、乱数列を無反省に使っている。仕事にはなっていない「作品としての確率」には、本当に不思議なことがたくさんある。人がサイコロを振って乱数列を作るのではなく、自然は無限長の乱数列を同時に無限個作ってしまう、本当にすごいことを実現しているのではないかと思う。自然のサイコロは宇宙全体であり、電子や光子の個々の量子の中にも潜んでいる。実際に乱数列をたくさん集めて作るランダム行列の研究から、驚くべき発見がもたらされている。ランダム行列の理論は量子計算機とも相性が良いので、頻度主義が乗り越えられるのも、筆者の寿命程度かもしれない。

写真作品の紹介から、表現論と確率論について雑談をしてきた。経済や実務に興味ある方々であれば、全く役に立たない雑談と思われるだろう。しかし、生命の本質に、表現と確率が大きく関与していて、近未来の医療や社会を考えるヒントになるとすれば、多少は雑談にもお付き合いいただけるだろうか。筆者がライフワークとしている「個体差とは何か」という疑問に、「個体差とは、個体表現の個体差である」と暫定的に答えたい。医薬品の薬効の個体差を考える場合は、個体差に関与する個体表現としては、性別と年齢が基本になる。個体表現を遺伝子の表現型の問題だと考えると、病気や疾患も個体表現となる。「個体表現の作品」は身体であることは確かだとしても、その身体が位置する場所もおそらく作品に含める必要がある。個体表現の「場」は、個体として認識される社会であって、社会は個体差を増幅する装置でもある。薬効の個体差に学歴や年収が影響を与えるというと驚かれるかもしれない。偽薬によるプラセボ効果には大きな個体差があって、社会的な因子も多い。薬効の個体差というと専門的すぎるかもしれない。保険契約を選択する個体差や、電話契約を変更する個体差など、個体差が関与しないビジネスを考えるほうが困難なぐらい、個体差はビジネスに関係がある。個体差が理解できれば、営業成績が上がるだろう。個体差が理解できるとはいっても、たくさんの因子が関与して、しかも因子は確率的にしかとらえることができない。理解できても予測は困難なのだけれども、今日明日であれば天気予報が可能なように、生命現象や社会現象の予測も、膨大な量のデータを集めて計算をすれば、直近の未来予測は可能になる。未来予測のアルゴリズムは、個体表現の因子とその因子の個体差の増幅機構を考えることから始まる。未来予測には、表現論と確率論が役立つことになる。

写真作品は何かを表現している。おそらく、写真家の意図する表現以外の、多くの何かが含まれている。そして多くの鑑賞者が、その写真作品を解釈して、何らかの意味を見いだす。筆者の友人でもある福田徹の写真作品であれば、「お互い生きていてよかった」程度の意味かもしれない。もし、ランダム行列の意味が、行列の特異値にコーディングされていると仮定すると、その意味の一端が理解できるようになるのに、あと100年や1000年は必要かもしれない。意味がなさそうな作品であっても、意味以上の何かがたくさん含まれているだろう。筆者としては、福田徹の写真作品には「技術」の意味が見え隠れし、有史以来の技術論を転覆するデータ論の文明論的転回としての「表現の場」として、写真作品は筆者自身の問題でもあった。雑談は「第22回剰余所与論」として続けることにしよう。

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は、何か気になることを、気の向くままに、イメージと文章にしてみます。

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